11 光の館
見知らぬ部屋でティティーリアは目を醒ました。
窓辺で純白のカーテンが穏やかな波を描いて揺れている。
やんわりと手招きをしているような緩やかさが、おぼろげな視界に映り込むと、夢と現実の狭間からゆっくりと意識が引き出された。
――ここは……どこ?
コレッティ邸に帰って来たのかと思った。だが自分に与えられている部屋とは、まるで景色が違っていた。
壁も天井もすべてが白い世界だった。
室内を飾る調度品も、身を起こした寝台や肌触りのいいシーツも枕も、何もかもが白で統一され、まるで陽だまりの中にいるような眩い空間だった。
――夢を見ているのかもしれない……
頭がぼんやりする。
もしかしたら夢の中で目を醒ましただけなのかもしれない。唯一色を違えた薄青色の絨毯が空のように見えて、体ごと宙に浮いているような錯覚を覚えさせる。ふわふわとした恍惚状態に包まれながら、もう一度ちゃんと目を開けなければ、とティティーリアが思った時だった。
「こらっ! だめですよ、ブランカ!」
甲高い女の声とともに、部屋の扉が勢いよく開いた。
「ブランカ!!」
声に弾かれて、意識が鮮明に甦る。だがその直後、目の前が急に暗くなった。
「きゃっ!?」
思わず目を瞑った瞬間、ドン!と顔面に何かがぶつかった。鼻がじんと痺れた。驚いて瞼を開けると、ティティーリアの胸元に柔らかくて白いものがごろんと転がり落ちたところだった。
「まあ、お客様になんてことを!」
白いボンネットを被った丸顔の小柄な老婦人が、転がるように部屋に飛び込んできた。どうやら叫んでいたのは彼女だったらしい。ベッドの側まで駆け寄ってくると、丸い腰に両手を当て、老婦人は小さな丸い眼鏡がちょこんと載った鼻頭に思い切り皺を寄せた。
「ブランカ! おいたはいけないと言ったでしょう! 旦那様に言いつけますよ!」
――ブランカ?
まるで自分が怒られたような気分になって、ティティーリアは目を瞬いた。
見知らぬ顔だった。白いエプロンやボンネットという格好からして召使のようだが、コレッティ邸の使用人の服装とは違う。
いったいどこに迷い込んだのだろう――ティティーリアが混乱していると、「みゅー」という小さな声が聞こえた。
――え?
視線を下げて、ティティーリアは瞬きを止めた。
いつの間にか純白の夜着を纏っている自分の胸元に、真綿で出来ているような白い一匹の小さな獣が張り付いて、赤い大きな瞳でティティーリアを見上げていたのだ。
「なに……これ、……ウサギ……?」
長く垂れ下がった耳に、ふさふさの丸い尻尾。だがその背中には――小さいが二枚の翼がついていた。
「羽兎というんですよ。申し訳ありません、驚かせてしまって。さあこっちへいらっしゃい、ブランカ」
手を差し伸べながら老婦人が寝台に近付く。だがブランカと呼ばれた両手の平ほどの白い獣は、「みゅっ」と鳴いてティティーリアの背中の方に回りこんでしまった。
「まあまあ、聞き分けがないこと」鼻眼鏡を指で押し上げ、老婦人はさらに皺を深くする。
そんな彼女の険相も知らずにするすると背中から肩へと上り、ティティーリアの髪の間からブランカがひょっこりと顔を出す。そして右肩を寝床とでも定めたのか、首元に寄り添うようにして蹲ってしまった。
「あ、あの……」
説明を求めて、ティティーリアは老婦人を見た。肩に乗っている不思議な生き物のこともそうだが、ここがどこなのか、目の前の老婦人は誰なのか知りたいことが頭の中で列を連ねていた。
「あらあら、ごめんなさいね。騒がしくしてしまって」
小さな眼鏡の向うの、陽に透ける若葉のような淡いグリーンの瞳がやんわりと微笑んだ。
「お加減はいかがかしら? お顔色がずいぶんお戻りになりましたね。先ほどまでは冬凍るサリュオン湖のように青白くて心配したんですのよ。ご気分は? あ、喉が渇いていらっしゃるでしょう? 途中からぐっすりとお眠りになってたようだから――」
すぐ傍へやって来て老婦人が気遣ってくる。だが次から次へと質問がやってくるので、どれに答えたらいいのかわからずにティティーリアが唖然としていると、
「それではお客人が答えられないよ、ベル夫人。目覚めたばかりなんだから、あまり刺激しないように」
窓辺で揺れるドレープのように穏やかな、だが凛と通る声が割り入った。
開かれたままの二枚扉の影から若い男が現れた。
「まあまあ旦那様! 書庫にいらっしゃったんじゃございませんの?」
老婦人が目を丸くする。そして両手を前で合わせ、男に向かって丁寧にお辞儀をした。
「ベル夫人の声は屋敷のどこにいてもよく届くからね」
男がふわりと柔らかく微笑んだ。
その顔に、ティティーリアは目を瞠る。
――マラウク・ヴィト・クレイヴランス……!
金糸の縫い取りの美しい白のロングコート姿の端正な形貌の男を、ティティーリアは呆然と見つめた。夢の中に舞い戻ったような気分だった。
「ご気分はいかがですか」
目の眩みそうな真白い風景をも遠ざけてしまうような、ひときわ高潔な白がゆっくりと寝台に近付く。精悍さと麗しさの融和する気品ある微笑が、昨晩の出来事を瞬時に思い起こさせた。
「驚かせて申し訳ありません。“ルイーゼ嬢” 私を覚えていらっしゃるでしょうか?」
試すような問いかけに、緊張の糸がピンと張り詰めた。
忘れるよりも思い出すほうが容易いその顔に向かって、ティティーリアは丁寧に頭を下げた。
「もちろんですわ、クレイヴランス卿。でもあの、ここは……?」
「ご安心を。ここは私の私邸です。彼女はベル夫人。私が生まれるずっと前からこの家の世話をしてくれている人です。貴女の着替えも彼女が」
ティティーリアの着ている白い夜着を示した手を、マラウクがベル夫人の方へ流す。膝を少し曲げて挨拶すると、ベル夫人は晴れやかな面持ちで主人を仰いだ。
「――おいで、ブランカ」
主人の声にティティーリアの肩にじっと止まっていたブランカが、ぴくりと動いた。そして身を起こして背中の小さな羽を広げると、差し出された手の中に素早く飛び移った。
「まっ、憎たらしい子。本当に旦那様の言うことだけは聞くんだから」
マラウクの肩に上がり懐いた様子で頬にすり寄るブランカを見て、ベル夫人が顔をしかめた。じゃれつかれるままに顔を寄せ、マラウクが目を細める。
「さっきミトに追い払われて、拗ねていたんだろう。でもいつもは人見知りが激しい子なのに肩にまで乗るなんて、よほど貴女が気に入ったらしい」
吸い込まれそうな青く澄み切った双眸が、ティティーリアを捉える。瞬き一つで貴婦人たちを魅了するその眼差しに、ティティーリアは戸惑いを覚えた。
「なぜ……貴方が私を? どうしてあの街に――」
続きを遮るようにマラウクの視線がつい、と離れベル夫人に注がれた。
「ベル夫人。すまないが、彼女に何か温かい飲み物でも作ってきてもらえないかな」
「ああ! そうですわね。はいはいただ今ご用意してまいりますよ」
主人の注文に快く頷くと、ベル夫人は小さな足をせかせかと動かして部屋を出て行った。扉が閉まると同時に、マラウクはティティーリアに向き直った。
「さて、まずは君に謝らなくては。手荒な真似をして申し訳なかった。手っ取り早く君をあそこから連れ出すには、ああするしかなくて」
「私を……助けてくれたというの?」
なぜ、という思いを込めて、ティティーリアは清廉と高潔を示す白の長衣が嫌味なほど似合う、一部の乱れもない完全たる貴公子を見据えた。
「そうとってもらえるとうれしい。巡回の途中でアローザに立ち寄ったら君を見かけてね。気になって追いかけた」
「! 後をつけていたの? まさかずっと――?」
「偶然だよ、誤解しないでくれ」鼻先で頬を突付いて気を引こうとしているブランカの首元をさすりながら、マラウクが遮った。
「だが逆に感謝してもらいたいところだが? もし俺が気にかけていなければ、君は“イーター”の餌食になっていたんだからな」
晴れ渡る空が翳るように、マラウクの目元から表情が消えた。物柔らかな口振りから一変、急に横柄さを含んだ物言いにティティーリアは即座に言い返した。
「お言葉ですが、助けてと頼んだ覚えはありませんわ、クレイヴランス卿。感謝の押し付けは筋違いではありませんの?」
怯んだ気配を見せたのも束の間、上掛けを押し退け身を乗り出した少女の気丈さに、マラウクは両腕を組んで小さく息をついた。
「奴等の凶悪さを知らないからそんなことが言えるんだ。あれは人の心を持たない亡者だ。狙った獲物は取り殺すまで諦めない」
「――亡者?」
意味がわからずティティーリアは眉をひそめた。身を翻し窓辺へ寄ると、マラウクは微風にそよぐカーテンの前に立った。
「人の世に生きる、人ではない異形の者たちだ。かつては神殺しの異名をとった邪神の眷属の末裔で、残忍非道な性質を持つ。人の欲心にとり憑き、それを糧とする」
不気味な咆哮をティティーリアは思い出した。地底の底から響いてくるような、低く戦慄を呼ぶ声。
「魔物……ということ? 異端諮問会は魔物の組織だというの?」
確かにあれは人間ではなかった。
化け物、その呼び名がしっくりと当てはまる醜悪な姿は今思い出してもぞくりと寒くなる。あんな恐ろしいものを見たのは生まれて初めてだった。
「彼らにはもともと実体はない。憎悪や強欲などの負の感情を好み、罪深き人間の魂を食らい具現化する。言い換えれば、どんな形にもなりうるということだ。イーターは残酷無比な魔物だが、無差別に人を襲いはしない。誓主の命令に従い動いている。総督府は誓約を利用してイーターを犯罪者の捕縛に利用しているんだ。奴等は鼻が効くから」
震え出した手をティティーリアは握り締めた。
異端諮問会の名は“粛清”の代名詞として民間に知れ渡り、恐れられている。だが隠密的な組織であるため、その正体は一般には知られていない。だがまさか得体の知れない化け物だとは誰も想像していないだろう。
「人が……殺されたわ、目の前で。黒い大きな獣だった。突然襲い掛かってきて、それで――あれも命令だったと?」
黒い化け物がマリードに飛び掛った後に聞こえたバキバキという不気味音。あれはきっと骨の砕ける音だ。間違いなく、マリードはもう生きてはいないだろう。
「いや、そんな話は聞いていないな。粛清の履行には総督と高等院の認可が必要だ。帝都の治安を預かる我が騎士団にも容喙する権利はある。勝手な真似は許されない」
「じゃあどうして無防備な人間が殺されなくてはならないんですの!?」
「あれは“暴走”だ」
カーテンの縁を捕まえて、マラウクが引き開けた。ほのかに赤みを帯びた陽射しがバルコニーから差し込む。いつの間にか外はもう夕暮れに近付いているようだった。
「イーターは狂気の塊だ。服従の誓約でも縛り付けられず、暴威を振るうものもいる。アローザのような罪匿街は奴等にとって格好の餌場だ。運が悪かったな。だがすでに部隊を派遣し収拾に当たらせている。すべて処理済みだ」
端的な役人口調でマラウクが振り返る。ティティーリアはひらりと寝台を降りた。
「あの魔物が総督府のものなら、マリードが殺されたのは貴方方のせいだわ! それを処理済なんていう簡単な言葉で済ませるなんて……邪魔者は消えても構わないということなのね。貴方たち騎士団の仕事はお偉方の尻拭いっていうわけ」
せり上がってきた感情にまかせてティティーリアは声を荒らげた。ブランカがびくりと身を竦め、マラウクの首の後ろに隠れた。
「……なかなか言うね」
マラウクが口角を上げる。容姿にそぐわない、俗っぽさのある皮肉めいた笑い方だった。
「でも君こそ穏便に済まさないと困ることになるんじゃないのか? 貴族の令嬢が罪匿街をうろついていたなんて。しかも男と会っていたなどと知れたら、家名に泥を塗ることになるのでは? それとも」
形のいい唇がもったいぶるように言葉を止める。
「そのお嬢様が偽物だということが露呈する方が痛手かな? わざと貴族のふりなんてしなくてもいいよ――ティティーリア」
「なっ……!」
右足を後ろに退こうとして夜着の裾に躓いてよろめき、ティティーリアは花瓶の載った丸テーブルに手をついた。大輪のオラフの密集した濃厚な香りに、くらりと眩暈がした。
「それが君の本当の名だろう。ティティーリア・フロス、年は十六。二年前、神官殺しの罪で投獄されたセイクリッド・フロスの妹」
「調べたの……!?」
「双薔街では評判の高級娼婦だったそうだな。それがつい最近貴族風の男に身請けされて姿を消したが――なぜか俺を殺そうと晩餐会に現れた」
窓辺からマラウクが離れた。テーブルを挟んでティティーリアと対面する位置に立つと、花瓶から薄青色の薔薇を一本抜き取り、鼻先に近づけた。
「本来なら、あの場で斬り捨てられても仕方ない非礼極まりない行為だ」
長い睫がすっと持ち上がる。夕暮れに向かう空とは逆に、瞳の内の蒼空はますます青みを増していくようだった。
「そうすれば……いいわ。下手に情けをかけられるくらいなら、死んだ方がマシよ」
「フフ、顔に似合わず気が強いな」
「兄さん……セイクリッド・フロスの妹と知って口封じのために連れて来たの? 総督府にとってばれたらまずい一件だから?」
「落ち着いてくれ。詮議するつもりで助けたわけじゃない。目的は保護だ」
「保護?」
茎を短く手折り、マラウクが花をテーブルに置いた。それを見とめたブランカが瞬時にテーブルに飛び移り、花びらに噛り付いた。
「コレッティのもとから離れろ」
ブランカに気をとられた隙に、マラウクが迫り寄る。
「え?」
「コレッティに買われたんだろう。そして俺を毒殺するよう命じられた。おそらく兄上の釈放と引き換えにでも」
追い詰められる感覚は昨晩とまったく同じだった。視線を絡めとられる。深い水底に誘われるように引き寄せられて行く。
「答える義務はないわ……貴方には」
「あの男は危険だ。約束を守るような信実な人間じゃない。死んだマリード・ロトレックに会うように仕向けたのもあいつだろう? 褒美に見せかけた腹いせだ、信用するな」
「何のこと? 突然何を――。誰に買われようが関係ないじゃない! 貴方より信用できる人間かもしれないわ!」
「罪に手を染めろと言われて? 無駄だ、あいつを信じたところで兄上は戻ってこない」
「取り戻すわ! どんな手を使ったって……! 貴方を殺してでも、あの人を殺してでも!」
衝動的に振り上げた拳を、マラウクに掴まれる。ブランカが非難するように「みゅうっ」と鋭く鳴いた。
「はなして!」
「君に俺は殺せないし、そうしたところでどうにもならない」
「なぜよっ!」
「君の兄上は永久牢獄にはいないからだ」
力ずくで手を振り払ったのと、その言葉を聞いたのは同時だった。何がなんだかわからなくなって、ティティーリアは寝台を乗り越えて走り出した。
「ティティーリア!」
マラウクの声にも耳を貸さず扉へと急ぐ。
混乱で前が見えなくなりそうだった。とにかく外に出なければ、焦りに急きたてられて、部屋の二枚扉両手で思い切り押し開いた。
「えっ……うわっ!?」
だが扉の向こうはあいにく無人ではなかった。
マラウクと同じ白い軍服を見たと思った瞬間、ティティーリアはその人物の胸の中に飛び込み――
そしてそのまま回廊の床に倒れ込んだ。
更新遅れていて大変申し訳ありません!
スピードアップ目指して努力していきます。