10 警 鐘
「何の音?」
辺りを振動させるほどの大音響に、ティティーリアは天井を振り仰いだ。
「て、手入れだっ!! 諮問会の奴等だっ!!」
誰かが叫んだ。たちまち酒場は騒然となる。客たちは血相を変えて酒杯を放り出し、押し合いながら我先にと店の出入り口に雪崩れ込んでいく。
「……また来やがったか」
混乱に陥った周囲を睨み据えながら、マリードが忌々しげに舌打ちした。
「どういうこと? なんなのこの音!」
あからさまに心を追い立てるように鳴り響く鐘声に眉をひそめて、ティティーリアは爪を噛み出した薄汚れた身なりの男を見た。
「異端諮問会の取り締まりだ。アローザ(ここ)は始終目をつけられているからな。犯罪者が逃げ込むたびに検挙に乗り込んできやがる」
「――諮問会!? 誰かを捕らえに来たってこと?」
息を呑んだティティーリアの後ろで、ローグが立ち上がった。
「……面倒ごとはごめんだぞ、と。ちょっと様子を見てくる。ここにいろよティティ」
「えっ」
ぽんと肩を叩かれて振り返ったが、声をかける間もなくローグは身を翻してあらかた客を吐き出したドアの方へと向かっていく。そして男たちに紛れて外へ出て行ってしまった。
「さてと」
唖然とするティティーリアの傍で、マリードがだるそうに立ち上がった。
「オレもずらかるぜ。もうすぐ謹慎が解けるってのに、目ぇつけられたんじゃたまんねえ」
急く様子もなく悠揚と伸びをして、マリードは背後の壁際に積みあがる予備の椅子をひょいひょいとどかし始めた。
「待ってよ、まだ話が」
止まない警鐘に顔をしかめたまま、ティティーリアは立ち上がった。振り返り、マリードが冬空のような冷涼な瞳を向けた。
「聞きたきゃ付いてきな。ただし、あの兄ちゃんは置いてな。役人はどんな奴だろうと信用ならねえ」
経験上な、と付け足してマリードは最後の椅子を放り投げた。
椅子が覆っていた壁の下部には、四角く切り抜いたような跡がついている。マリードが片足で蹴飛ばすと、その部分は外側へ抜け落ちて人が一人通れるほどの穴が開いた。
「待って!」
出て行くマリードを追って、ティティーリアも壁に開いた穴をくぐり抜けた。ローグと離れるのは心配ではあったが、諦めたくないという気持ちが勝った。
――やっと探し当てた手掛かりだもの。手放すわけにはいかない!
そこは店の裏側を通る路地だった。ここへ来るまでに通ってきたよりもさらに狭く曲がりくねった通りをマリードは足早に進んでいく。
空から降り注ぐ警告に紛れて聞こえる表の喧騒をティティーリアは振り返った。だが躊躇いを振り切りローブのフードを被ると、マリードの後を追った。
「どこへ行くの?」
「ねぐらさ。前は支部に使われてた場所だ。この先にある」
振り返らずにマリードが答えをよこす。声は落ち着いているように聞こえるがその足は急かされているように速まって行く。スカートの裾を持ち上げて、ティティーリアは小走りに続いた。
「……この街ははずいぶん複雑な造りなのね。これじゃ迷いそう」
両側には薄汚れてひび割れた白壁が圧し掛かるようにそびえている。まるで四方から監視されているような閉塞感を覚えて、落ち着かない心地がした。
「そうなるように複雑になってる。簡単に見つからないようにするための知恵さ」
右に左に蛇行を繰り返す路地を行き次いでいくマリードの背中が答えた。やがて行き止まりでマリードは立ち止まった。
「ここだ」
乱雑に積まれた木箱や樽に隠れるようにして、地下への階段があった。先に降りたマリードがドアを開けた。入れと顎で促され、ティティーリアは扉をくぐった。
「汚いとか文句はなしだぞ」
扉を閉めて掛け金を下ろすと、マリードは手近にあったランタンに明りを灯した。掲げられた明りで、荒れた廃屋のように散らかった暗い室内の様子がぼんやりと浮かび上がる。
「こんな生活になってから、こだわりがなくなってな」
部屋の中央にある十人は座れそうな長テーブルの上に、マリードはランタンを置いた。
琥珀色の明りの中に埃が大きく舞い上がる。その臭いを吸った気分になって、ティティーリアは息を詰めた。
「適当に座ってくれ」
振り返りそう言うと、床に転がる酒瓶を蹴飛ばしながら奥の棚へ行き、マリードは戸の中を漁り始める。
「他の人たちはもういないの?」
その場に立ち尽くしたまま、ティティーリアは室内を見渡した。ポン、とコルクを抜いた音とともに、マリードが振り返った。
「ああ、今は皆マリオンか他の街に移っちまった。誰も謹慎には付き合ってくれなくてな」
皮肉っぽく笑い、マリードは手にした瓶の中身をあおった。飲むか、と聞かれてティティーリアは首を横に振った。
「それより話を聞かせて。兄さんは何を知っていたというの?」
「――はっきりと断定出来るわけじゃねえ」
瓶の中の酒を飲み干して、マリードは袖でぐいと口元をぬぐった。
「ただ掟破りはいつの時代も歓迎されねえってことさ」
「掟……?」
「暗黙の了解とも言うな。行き過ぎた干渉を政府は好まない。特に上層部のやつらはな。だから異端諮問会なんてものを作り上げて無謀な粛清を繰り返してる。必要以上のことを知らないように、喋らせないように――な」
「干渉って、いったい何に対して?」
瓶を振って空であることを確かめると、マリードはそれを棚に置いた。テーブルを挟んでティティーリアと向かい合う。
「――聖地イザヴェルにまつわる秘密の保持だ」
「秘密?」
「聖地の伝説を知っているか?」
「女神と四人の騎士の伝説のこと? 昔よくおばあ様が話してくれたわ」
この国の者ならば、女神イクレシアや聖地の起源にまつわる伝承や伝説を知らぬ者はいないはずだ。祖母は信仰に厚い人で、毎晩寝る前によく昔話をしてくれた。それは今も一般的な常識程度に、ティティーリアの記憶に焼きついている。
「そうだ。かつて邪悪なる民と神々が大陸を脅かしていた騒乱の世、大地は崩壊の危機に見舞われた。人々を救うため立ち上がった四人の騎士は光の女神とともに邪悪なる者たちに立ち向かい、死闘の末勝利した。最後の力で女神は大地を繋ぎとめ、四人の騎士に後を託してイザヴェルの丘で息絶えた。やがてその骸から一輪の花が咲き、そこから大地は息を吹き返した。四人の騎士は女神の遺志を継いで大陸を統一し、イザヴェルに神殿を建て女神の亡骸を埋葬し聖地とした」
「おとぎ話でしょう? それが触れてはならない聖地の秘密?」
フードを外し顔にかかる髪を軽く首を揺すって払い、ティティーリアは微苦笑を浮かべた。
「確かに巷間で広まるうちに脚色されてはいるんだろうが、まんざら嘘だってわけでもねえぜ。現に四人の騎士は実在した。ロジスティ・フリスト、ファラット・クレイヴランス、サンジャック・コレッティ、ルピシエール・ヘルヴォル、言わずと知れた四大侯爵家の当主たちがその後裔だ。フリスト家はその長として、大陸の秩序と聖地を守り続けている。イザヴェルは総督の許可なしには立ち入れん禁忌区域、国家機密にも値する場所だ。――ち、まだ止みやがらねえのか」
上目遣いに天井を一瞥し、マリードがうんざりした様子で低く吐き捨てた。警鐘はまだ鳴り止んでいないようだ。かすかに天井の方から響いてくる。
「だから……深追いはすることは許されないっていうわけね」
そうだ、とマリードが頷いた。両腕を組み、小刻みに足を踏み鳴らし始める。どこか落ち着きが欠けてきた様子だった。
「セイクは書物や記録を漁るだけじゃ飽き足らず、裏を通じて情報を引き出そうとしていたようだった。だからオレはそれ以上関わるなと言ったんだ。イザヴェルに手を出すのは、総督府に喧嘩を売るようなもんだ。行き過ぎれば目をつけられる。だがセイクは笑って言った。“父と同じ轍を踏む覚悟は出来てる”ってな」
暗がりに滲むランタンの明りが、膨張するように大きく揺らいだ。
「お父さん……?」
その呼び名を口にするのはいつ以来だろう。驚きとともに忘れていた懐かしさがじわりとティティーリアの胸に甦る。だが味わう余裕もなく、淡い思いはすぐに疑念に移り変わっていく。
「妙な言い方だろう?」マリードが上目遣いに問い掛ける。ティティーリアは静かに頷き続きを待った。
「セイクの事件の後、オレなりに少し調べたことがある。あの言葉が気に掛かってな。……それに近頃よく思うんだ――どうもこの国には胡散くせえ話が多いって。表面上は平穏でまんべんなく覆われているが、何が大事なことを忘れているような――まあ、それはいいとして、贔屓にしてる情報屋にセイクの足取りを辿らせたんだ、あの日のな。事件の起こる前、セイクはカーツにあるレディク神殿に行ったらしい。そこで人と会ってる」
「それは誰?」
「それがな――」
そこまでマリードが言いかけた時、突然扉を激しく叩く音がした。
「なに!?」
殴りつけられているように四肢に響く凄まじい音に、ティティーリアの鼓動が飛び跳ねる。入り口を振り返れば、蝶番が外れそうな勢いで寄木の簡素な扉ががたがたと震え動いていた。
「ち……誰だ、こんな時に!」
棚を離れ、マリードが扉へ向かう。だが尋常でない激しい開扉要求に、一端扉の手前で立ち止まったその時だった。
――ダアァァンッ!!
一際強烈な打撃音に、留め金が弾け飛んだ。勢いよく開いた扉の向うから黒い何かが飛び込んでくる。
「ぐあっ!!」
短い叫び声を上げて、マリードの体が弾き飛ばされた。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げ、ティティーリアは両手で口元を覆った。長テーブルの表面に背中を打ち付けて跳ね返り、マリードはそのまま向こう側に転がり落ちた。
爆煙のように埃が舞い上がる。弾かれたランタンが床に落下し、破裂音とともにガラスの破片と炎が飛び散った。
「マリード!!」
名を叫ぶがマリードが起き上がる様子はない。恐る恐る打ち壊された扉の方を見て、ティティーリアははっと目を瞠った。
早鐘の音はさっきよりも大きく部屋の中で鳴り響いていた。自分の心音が速度を上げ、それに追いついていく。
「だれ……なの……?」
漆黒のローブに全身を包んだ長身の人影が一つ、そこに佇んでいた。先程の暴挙が嘘のように、寂夜のようにひっそりと。
亡霊のような影が、ティティーリアの方を向いた。室内が薄暗い上に目深にフードを引き下ろしているため定かではないが、目が合ったような気がした。
『……ニオイガスル……』
不気味な声だった。複数の獣が低く呻いているような、濁った響きだ。
『……アレト、オナジニオイガスル……』
ゆらり、と影が動いた。外套の擦れる音がゆっくりと近付いてくる。
「こ……ないで……」
恐怖に声が引き攣る。
震える足を後ろに引きずっていく。だがすぐに壁に行き当たり逃げ場をなくした。
「こないで……っ!」
背中を壁に貼り付けたまま、ティティーリアは掠れた声を必死で張り上げた。杭で打ちつけられたように、視線を離すことが出来ない。
『……アレトオナジだ……アレヨリモ……ミツケタ……!』
のらりくらりと迫り来る影が、腕を振り上げて大きく伸び上がった。フードの下にあるその顔をティティーリアは間近で見た。
――それは異形の化け物だった。
真っ黒な皮膚に覆われた、醜く歪んだ面貌。
頬の辺りまで避けた赤い口。
炯々とぎらつく血を吸ったような真紅の双眸。
牙を剥く大きな口の端が、目の下まで裂け上がった。
「きゃあああっ!!」
鋭い鉤爪のついた黒い手がティティーリアに伸びる。目を固く瞑ってその爪先が肌に食い込む瞬間を覚悟した。
『グぁッ……!』
だがその瞬間は訪れなかった。何かが割れる音とつんとした甘い香りにティティーリアは目を開いた。
「逃……げろっ!」
マリードの声だった。テーブルにしがみつくようにして身を起こし、酒瓶を黒いローブの侵入者に向かって投げつける。
『コシャクナマネヲ……!』
飛んできた瓶を腕で払い落とすと、凄まじい勢いで化け物がマリードに向かって跳躍した。
「うわあぁっ……!」
「マリード!!」
テーブルの向うへ黒い塊と共にマリードが消えた。酒瓶や本や食器が棚から崩れ落ちていく音に紛れて、バキバキと何かが砕ける音がした。
「いやああっ!!」
恐怖の呪縛を振り切ってティティーリアは走り出した。
扉の外れた戸口を飛び出し、階段を駆け上がるとトンネルのように暗い路地を走り出す。
――なに……!? あれは何……!?
囲い込むように壁がそびえる狭隘な路地に、靴音が追いかけるように響く。溝に躓きそうになりながら、ティティーリアは振り返らずに必死に走った。
――何が起きたっていうの!?
あれは何。あの化け物は。
かろうじて人の形をしていたが、あれは人ではなかった。マリードを軽々と弾き飛ばし、そして……
獣の遠吠えのような声が後方から聞こえた。
――追ってくる……!
恐怖がティティーリアを急きたてる。呼吸も鼓動もどんどん乱れていく。
出口はどこ?
出口はどこ?
だががむしゃらに走っても一向に光は見えてこない。まるで同じ場所をぐるぐると回っているように似たような景色が続く。
――ローグはどこなの……!?
自分がいなくなったのに気づけば探しているはずだ。
だがそれ以前になぜ通りに誰もいないのか不思議だった。
行き止まって別の路地に入ってもそれは同じだった。汚染にまみれひっそりと息をひそめて並ぶ家々の扉は閉ざされ、どの窓にも人の気配はない。まるで廃墟の街だ。悪い夢の中を彷徨っているようだった。
獰猛さを含んだ低い咆哮もう一度空に伸びた。
さっきよりも近い。振り返っても姿はまだ見えない。けれど気配は迫っていた。
カーン、カーン、カーン、カーン
危険を知らせるためなのか、それとも、招いているのかーー飛礫のように降り注ぐ鐘音が街中を埋め尽くしている。
――助けて……!!
――息苦しさと恐怖に気が遠のきそうになったその刹那だった。
突然横から荒々しく腕を掴まれ、ティティーリアは家と家の間にある隙間へと引きずり込まれた。後ろから抱え込まれるようにして手袋をした手で鼻と口を塞がれる。
「!!」
体がびくりと痙攣した。状況を悟る間もなく脳裏が真っ白に染まり。
そのままティティーリアは意識を失ったのだった。