1 はじまりの夜
愛しいほど、切ない。
そんな感情が、貴方と出会って私の心に生まれた。
「え?」
目の前に積まれた金貨の山を見て、少女は紺色の瞳を大きく見開いた。
懐から取り出した巾着から金貨を寝台の上にばらまいた男は、空の巾着の口を逆さにぶら下げたまま口角を引き上げた。
「これだけあれば、お前の兄を保釈できるだろう。どうだ、取引に応じるか?」
少女は丹花のような唇を引き結び、息を呑んだ。迷いの色が、人形のように長い睫毛に縁取られた双眸を過ぎる。
「どうして……私に?」
儚げに細い少女の声に、身なりのいい三十頃の男が薄ら嗤う。
「お前が一番、悲愴な瞳をしていたからだよ」
甘い薔薇の香りに満ちた部屋の中、寝台に横たわり、男は整った口ひげを白い手袋をした手でさすりながら同じ寝台の上に座る少女を見上げた。
高級娼婦になるような女は、身持ちも固い上に矜持も高い。何か大きな理由や願いがあるからだろう」
役人のような高慢な物言いと値踏みするようなその目付きに、少女は顔を背けた。ひいきの客ではないのに妙に馴れ馴れしいのが不快だった。
「そのためなら、何でもやるのだろうと思ってな」
金貨の山を見せつけるように男は指でシーツの上に慣らし、弄ぶ。金属の擦れ合う音に少女の聴覚が過敏に反応する。
「そのために私を指名したの? 人殺しをさせるために――」
「そうだ」
「……他にも娼館はたくさんあるわ」
「とびきりの美姫でなくてはいかんのだよ。そして穢れのない――。他の安娼婦ではだめだ」
男はそう言って、宙で指を動かしながら艶やかな赤のドレスを纏う少女の姿をなぞっていく。蛇のような男の細い目が、さらに細められる。
「その輝く金の髪、白い肌、深く澄んだ青の瞳、幼気な赤い唇、どれをとっても君は完璧だ。その美しさで、あの若僧を――クレイヴランスを誘惑して失墜させ……そして息の根を止めてくれ。その暁には、お前の兄の冤罪を晴らし永久牢獄から救ってやろう」
男の言葉に少女は愕然と目を瞠った。
「あなた何者なの……!? 兄さんが冤罪だと何故……!」
何度も退けられてきた訴えだった。この二年間ずっと聞き入れられなかった少女の嘆きだった。それを抱くことの出来ない自分を気まぐれに一晩買ったこの酔狂な男が、どうして知っているというのか。
「金が必要だからからここにいるんだろう?……おれにはそれが出来る。さあどうする?」
質問には答えず答えだけを求めてくる男を、少女は睨みつける。
「……信用できる保証はないわ」
「おれは約束は守る男だ。お前が協力しさえすれば」
語調を強めた少女を冷たい鳶色の瞳で一瞥して、男は寝台から起き上がった。
「出来ないというならこの話はなしだ。おれもそう悠長に返事を待っている余裕はないのでね」
「待って」
金貨を袋に戻そうとした男の手を、少女は上から押さえて引き止めた。爪が食い込むほど強く。
「やるわ。その代わり、必ず約束は守ってもらう」
「……お前が努めを果たせばな」
男が不敵に笑った。
「お前じゃないわ」
少女の深海色の瞳から迷いの揺らぎが消えた。
美しいその顔は、体温を持たない人形のようだった。
「私の名は、ティティーリアよ」