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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

元聖女のお話

元聖女の婚姻

掲載日:2026/09/13


 第一話 帰る場所


 バルセを発ち、マチュー王国の王都へ向かってからも、ビクトリアの旅は終わらなかった。


 すでに故郷の奥深くまで帰っている。

 それでも、モルガン家の屋敷がある王都までは、馬車を急がせても十日ほどかかる。


 普通に進めば、もう少しかかる。


 そしてビクトリアは、急がなかった。


 十年ぶりの祖国である。

 街道の石畳も、畑を囲う低い石垣も、遠くに見える教会の尖塔も、見覚えがあるようでいて、実際にはほとんど覚えていない。


 十五歳で国を離れた少女は、二十五歳になって帰ってきた。

 その間に国は変わった。

 ビクトリアも変わった。


 変わっていないのは、道の途中に気になるものを見つけると、確かめずにはいられない性分だけである。


「お嬢様。王都へ帰るのでしたよね」


「帰っています」


「街道はあちらです」


「こちらの道も、いずれ街道に戻ります」


「いずれ、でございますか」


 ロッテは、以前と変わらないロッテだった。


 旅の記憶は、アダムとサイモンから伝承されている。

 失われたのは、皇太子の部屋で殿を務め、二人と別れてから自爆するまでの部分だけである。


 その短い欠落について、四人が話題にすることはほとんどなかった。


 モルガン家の者は、安心したからといって、抱きついたり泣いたりするようにはできていない。


 王都まであと三日の場所で、ビクトリアは森の際に建つ館を見つけた。


 街道からは少し離れている。

 葡萄畑の向こうに、灰色の石壁と、深い色の屋根だけが見えた。


 大きくはない。

 王侯の別邸としては、むしろ控えめである。

 左右の均整も完全ではなく、増築したらしい塔が片側に寄っている。


 だが、そこがよかった。


 威厳を示すための無駄な列柱も、富を誇る金色の装飾もない。

 雨を流すための深い軒があり、冬の風を避けるために窓は小さく、森を眺める側だけが広く開かれている。


 必要なものを、必要な場所に置いた結果として生まれた美しさだった。


「あれは、いい館です」


 ビクトリアは馬車を止めた。


 ロッテは何も言わなかった。

 アダムとサイモンも馬車から降りた。


 三体とも、主人が見るだけで済ませるとは考えていない。


 門は閉じられていたが、錠は古い。庭は荒れているものの、建物そのものは定期的に手入れされていた。

 近くのメラニー村で尋ねると、館の名はシャトーハイペリオンといった。


 かつて、マチュー王家が狩りに使った館である。

 今の王族は森へ入ることを好まず、ここ数十年はほとんど使われていない。


 所有者は王家。

 管理者は王家直轄領ブルゴーの代官。

 勝手に住むことはできない。


 ビクトリアは残念に思った。

 残念に思ったので、建物の周囲を一周し、森へ続く小道を確認し、離れた丘から屋根の傷み具合まで眺めた。


「帰ります」


「王都へ、でございますね」


「はい」


 今度こそ、王都へ向かった。


◇


 モルガン家の王都屋敷には、家族全員が集まっていた。


 父ヨナス。

 母エリザベス。

 兄ジュリアンと、その妻アンナ。

 王都にいた姉ケイトも、夫と子供たちを連れて待っていた。


 扉が開いた。

 ビクトリアが入った。


 誰も駆け寄らなかった。

 歓声も上がらなかった。


 父は立ち上がり、母は両手を膝の上で強く組んだ。兄は一度だけ深く息を吐き、姉は少し目を細めた。


 それが、モルガン家の熱烈な歓迎だった。


「ただいま帰りました」


「お帰り、ビクトリア」


 父の返事も、それだけだった。


 十年という時間を埋めるには、あまりに短い。

 けれど、足りないとは思わなかった。


 ビクトリアもまた、満ち足りていた。


 母に抱かれた幼い頃の記憶はある。

 神殿へ送り出された日のことも覚えている。

 その間にある十年は、手紙と贈り物でつながっていた。


 会っていなかっただけで、家族でなくなったことはない。


 問題は、ビクトリアが出ていった時には存在しなかった小さな人間が、五人も増えていたことである。


 姉の子が三人。

 マーク、マルセル、ビアンカ。


 兄の子が二人。

 セリーナとヴィーナ。


 子供たちは元聖女を見に来たつもりだった。

 絵本に描かれる聖女は、白い衣をまとい、光に包まれ、優しく微笑んでいる。


 実際に現れたのは、旅装のままの長身の女だった。

 後ろには、よく似た微笑を浮かべる美しい侍女と、隙のない二人の従者がいる。


 少し怖かったらしい。


 ビクトリアが木片で作った小鳥を飛ばすと、すぐに怖がらなくなった。


 五人の子供が小鳥を追う。

 小鳥は捕まりそうになるたび、わざと少しだけ逃げる。


 その動きを見ながら、大人たちは別のことを考えていた。


 三人の女児には、レムコ王家の血が流れている。

 十三歳の立身の儀を迎えるまで、聖女が発現するかは分からない。


 王家から三親等にあたる少女の発現率は、八分の一。

 十二・五パーセントである。


 ただし、母親が聖女である場合は、三親等以内なら五十パーセントに上がる。

 聖女の力は、その娘へ強く受け継がれる。


 それでも王家から四親等まで離れれば、発現率はゼロになる。

 母親が聖女であっても、その制限を越えることはない。


 三人の姪は、いずれも三親等の範囲にいる。

 可能性は低い。

 だが、三人いれば無視もできない。


「聖女になるのは、つらいこと?」


 ビアンカが尋ねた。


 聞かせたのは姉だろう。

 ケイトは自分では尋ねにくいことを、娘の口から尋ねさせる程度にはモルガン家の人間だった。


「家を離れるのは、寂しいです」


 ビクトリアは正直に答えた。


「ですが、悪いお役目ではありません。大切にされます。いろいろな国へ行けます。大きな催しにも呼ばれます。そして、治らないと思っていた怪我を治すと、とても喜ばれます」


「楽しかった?」


「はい」


 それも本当だった。


 聖女の十年を奪われたとは思っていない。

 人の欠けた手足を戻し、失われた目を開き、歩けなかった者を立たせた。

 求められ、感謝され、自分にしかできない仕事をした。


 嫌な者にも会った。

 面倒な儀礼も多かった。

 それでも、あの十年を不幸だったことにはしたくない。


 何より、聖女にならなければロッテたちとは出会えなかった。


「聖女になっても、帰ってこられる?」


「帰ってこられます。寄り道をしなければ、もう少し早く」


 ロッテが静かにビクトリアを見た。


 子供たちは笑った。

 大人たちも、ほんの少しだけ笑った。


 それからしばらく、ビクトリアは何もしなかった。


 姉や義姉と茶を飲んだ。

 子供たちに人形を作った。

 母に頼まれて、神殿での暮らしを話した。

 市場へ出て、見たことのない香辛料を買い、必要のない古道具を買い、使い道の思いつかない歯車を買った。


 帰るとは、こういうことなのだと思った。


 何かを成し遂げる必要がない。

 次の町へ向かう必要もない。

 朝になっても、同じ家にいてよい。


 ビクトリアは十年ぶりに、自分の予定が何もない生活を手に入れた。



第二話 聖公女


 予定のない生活は、十二日で終わった。


「国王陛下から、褒賞がある」


 父ヨナスが告げた。


 ビクトリアは首を傾げた。


 聖女の務めに対する報酬は、レムコ聖王国からすでに受け取っている。

 これから働く予定もない。


「私は何もしていません」


「何もしないで帰ってきたからだ」


 マチュー国王は、ビクトリアが祖国に帰ったことを喜んでいた。


 現レムコ聖王の姪であり、十年間世界に名を知られた元聖女であり、さらに大商人モルガン家と、古いポガチャル家の血を引く。


 本人が望むかどうかとは別に、存在そのものに政治的な価値があった。


 タデイ帝国の皇太子は、その価値を奪おうとした。

 マチュー王国の国王は、自国に根を下ろさせようとした。


 方法は違う。

 目的は、あまり違わない。


 ただし、マチュー国王は保護者である。

 ビクトリアが嫌がれば諦める程度の良識もある。


「聖公女という爵位を新たに設ける。公爵と同格の一代爵位だ。領地も与えられる」


「いりません」


「そう言うと思った」


 ヨナスは驚かなかった。


「だから陛下は、お前の希望を聞くようにと仰せだ。領地を支配しろという話ではない。この国で暮らす場所を選べ、という意味だ」


 暮らす場所。


 ビクトリアの頭に、灰色の石壁と深い色の屋根が浮かんだ。


「シャトーハイペリオンが欲しいです」


「どこだ、それは」


「ブルゴー領にある、王家の狩猟館です」


 父はしばらく黙った。


「帰ってくる途中で、また寄り道をしたな」


「祖国の地理を確認しただけです」


 ヨナスはそれ以上尋ねなかった。


◇


 謁見の日、ビクトリアは元聖女の礼装を着なかった。


 もう聖女ではない。

 そのことを、最初に明らかにしておく必要があった。


 選んだのは、モルガン家の娘として仕立てられた濃紺の衣装だった。

 胸元にはレムコ王家を示す銀の枝を飾り、腰には祖母から借りたポガチャル家の古い飾り紐を結んだ。


 一人の女に、三つの家の名が重なっている。

 それがビクトリアだった。


「ビクトリア・レムコ・モルガン。長き務めを終え、よくぞ我が国へ帰った」


 国王の言葉は、儀礼として用意されたものだった。

 その後に続いた言葉は、伯父としてのものだった。


「もう、どこかへ行くな」


 命令ではなかった。

 願いだった。


「しばらくは、この国にいるつもりです」


「しばらくか」


「一生とは、まだ申し上げられません」


「正直で結構だ」


 国王は苦笑した。


 聖公女の爵位。

 ブルゴー領。

 領内の王家直轄ワイナリー。

 そしてシャトーハイペリオン。


 すべてがビクトリアへ下賜された。


 公爵と同格でありながら、領地は男爵領ほどしかない。

 奇妙な釣り合いだったが、そのために反発は少なかった。


 広大な領地も、大軍を養う権利もない。

 元聖女を敬うための爵位であり、王位継承に関わるための爵位ではないと、誰にでも分かる。


 何より、ビクトリアは十年間、各国の貴族や騎士を治してきた。

 王都の貴族の中にも、本人や家族が恩を受けた者は多い。


 祝福は、思ったより温かかった。


 ビクトリアは聖公女になった。


 これでようやく、誰にも文句を言われずにシャトーハイペリオンへ入れる。


 本人が最も喜んだのは、そこだった。


◇


 ブルゴーは、よい土地だった。


 南向きの緩やかな斜面には葡萄が育つ。

 平地では麦が取れる。

 領都には粉ひき小屋があり、メラニー村には古いが上質なワイナリーがある。


 領地の運営は、王家から引き継いだ代官と官吏が続ける。

 ビクトリアが毎日帳簿を見なくても、税は集まり、道は直され、裁判も行われる。


 領主として最初に何をすべきか。


 兄ジュリアンなら、葡萄酒の販路を調べただろう。

 父ヨナスなら、麦の収量と倉庫の容量を比べただろう。


 ビクトリアは森を見た。


 館の北に、広大なブルゴーの森がある。

 浅い場所には兎、鹿、猪。

 奥にはボア、カウ、ベアと呼ばれる大型の魔物。


 森は食料庫だった。


「農業より、まず狩りです」


「領主が最初に確認するものではございません」


「食料の確認は大切です」


「でしたら、麦の収量をご覧ください」


 ロッテの意見には一理あった。

 ビクトリアは麦の収量を確認してから、戦闘訓練を始めた。


 槍。

 剣。

 斧。

 短剣。

 扇。

 徒手格闘。


 そして、大型のハンマー。


 ビクトリアは、優美な武器より下品な武器を好んだ。

 小細工をせず、重さと力で相手を壊す道具には、分かりやすい誠実さがある。


 人形が作る包囲からの突破。

 狭い廊下での多人数戦。

 暗闇での奇襲。

 一対一の正面戦闘。


 城を一つ襲った経験によって、足りないものも見えていた。

 次に同じことがあれば、もっと安全にできる。


「お嬢様は、聖女であった頃から女性騎士に匹敵する身体能力をお持ちです」


 アダムが訓練の記録を見ながら言った。


「加えて、百七十センチの長身と長い手足。人形から得られる複数方向の視野。戦略級思考による予測。現在のお嬢様の戦闘能力は、すでに人外の領域です」


 サイモンが補足した。


「人外の私どもが申し上げるのですから、間違いございません」


「私は、平和に暮らしたいだけです」


 三体の人形は答えなかった。


 主人のいう平和が、世間一般の平和と同じものなのか、判断できなかったからである。



第三話 奴隷商の爆弾


 館の生活を整えるには、人手が必要だった。


 領政は代官に任せられる。

 ワイナリーにも職人がいる。


 だが、館そのものを動かす使用人がいない。

 館の直轄農地を管理する者も必要である。


 ロッテたちだけで、仕事を回すことはできた。

 三体は疲れず、眠らず、普通の人間より正確に働く。


 だからこそ、任せすぎるわけにはいかなかった。


 彼らが人形であることは、秘密である。

 人間そっくりの古代魔道人形が三体存在し、その製法をビクトリアが理解していると知られれば、欲しがる者は必ず現れる。


 タデイ帝国の皇太子一人で、十分に学んだ。


 館を訪れる者の前では、ロッテは侍女であり、アダムとサイモンは従者でなければならない。

 掃除、洗濯、炊事、給仕、厩舎、庭、畑のすべてを三人で片づけていては、かえって不自然だった。


「使用人を雇いましょう」


 ロッテは、ごく普通の提案をした。


「秘密を守れる人が必要です」


「教育を施し、十分な給与を与えればよろしいかと」


「いくら注意しても、秘密は漏れます」


「では、どうなさいますか」


「奴隷を買います」


 ロッテは少し黙った。


「お嬢様。もう少し、人に馴染む生活をなされては?」


「私は普通の人形遣いでありたいのです」


「ご自分が普通ではないと理解しておいでなので、何も申しません」


 奴隷契約は、秘密を完全に封じるものではない。

 しかし、主人に明白な害を与える行動は制限できる。

 少なくとも、酒場で面白半分に話すことはできなくなる。


 ビクトリアは王都へ戻り、信用のある奴隷商を訪ねた。


 破産した商家から売られた娘たちがいた。

 借金奴隷であり、犯罪者ではない。

 読み書きができ、礼儀作法を知り、家事の教育も受けている。


 ビクトリアは、その中から六人を選んだ。


 エマ。

 エレナ。

 ルナ。

 アリア。

 エミ。

 メル。


 選んだ基準は、若さや容姿ではない。

 説明を聞く時に相手の目を見ること。

 分からないことを分かったふりをしないこと。

 そして、他の娘が選ばれた時に、妬むより先に安堵することだった。


 六人には、館で働くこと、給与を支払うこと、借金を返し終えれば契約を解くことを告げた。


 娘たちは戸惑った。

 奴隷に給与を払う主人は少ない。

 自由になった後も働いてよいと言われ、さらに戸惑った。


 次に、渉外と出納を任せられる者を探した。


 ルークという若い男がいた。

 商会で横領した罪により、囚人奴隷へ落とされたという。


 帳簿を見せてもらうと、数字の扱いは正確だった。

 本人の供述と判決記録には、いくつか不自然な食い違いがある。

 同僚に嵌められたという話は、おそらく本当だった。


 何より、目が死んでいなかった。


 悔しさを飲み込み、機会を待っている目だった。


 ビクトリアはルークも買った。


「ほかに、農地を管理できる者はいますか」


 そう尋ねたことが、間違いだった。


 奴隷商は、奥の部屋へビクトリアを案内した。


 そこに、一人の若者がいた。


 二十歳を少し過ぎたほどに見える。

 長く伸びた髪は汚れていたが、その下にある色はプラチナブロンドだった。

 伏せられていた目が上がる。


 淡い水色だった。


 整いすぎた顔立ちには、疲労が浮かんでいる。

 それでも、首の傾け方や、こちらを見る時の視線に、育ちのよさが残っていた。


 ビクトリアの頭の中で、警報が鳴った。


 これは、買ってはいけない。


 正体を確かめてはいけない。

 関われば、静かな生活から遠ざかる。


 そう判断した。


 同時に、たいへん美しいと思った。


「あの者は、愛玩用として預かった商品でして、少々お高くなります」


 奴隷商は、ビクトリアの視線を商談の合図だと思った。


「ただ、辺境の村で農作物を育てていたそうです。品種の選別にも詳しい。農地の管理役としても、決して悪くは――」


「今日の商談は、ここまでにします」


 ビクトリアは説明を打ち切った。


 六人のメイドとルークの契約だけを済ませ、店を出た。


 一度も振り返らなかった。


 振り返れば、買ってしまう気がした。


◇


 その日のうちに、姉の夫であるアーベルマート伯爵へ面会を求めた。


 伯爵はマチュー王国の外務大臣である。

 他国の王族に関する厄介事は、身内ではなく、外務大臣へ渡すべきだった。


「奴隷商の店で、エイコ連合王国の第一王子を見つけました」


 伯爵は、手にしていた書類を置いた。


「なぜ、そう思う」


「破門される前のヘンリー八世を見ています。あの髪と目は、見間違えようがありません」


「本人に名を聞いたのか」


「聞いていません」


「では、別人かもしれない」


「別人なら、それが一番です」


 プラチナブロンドと呼ばれる髪色自体は、ほかの国にも存在する。

 だが、その言葉をそのまま形にしたような、銀とも金ともつかない色を持って生まれるのは、スチュアート家の直系男子だけだった。


 加えて、あの淡い水色の目。

 現在、その二つを併せ持つ者は、国王ヘンリー八世と第一王子クリスしかいない。


 顔を隠すことはできる。

 名も捨てられる。

 しかし、髪と目を生涯隠して暮らすことは難しい。


 エイコ連合王国では、聖教会派と清教会派の対立が深まっている。


 国王ヘンリー八世は、側室バルメと、その子である第二王子ゲラントを寵愛している。

 側室を認めない聖教会と対立し、ついには破門された。


 国王は国内にエイコ清教会を立ち上げ、その保護者となった。

 一方、聖教会派は正妃の子である第一王子を担ぎ、国を元の教会へ戻そうとしている。


 第一王子クリスは、王位を望んでいない。

 辺境の村で農業に没頭していた。


 それでも、血筋だけで旗にされる。


 国内対立が激しくなり、国王はクリスを王都で軟禁することにした。

 移送中に姿を消したという情報までは、マチュー王国にも届いていた。


 その王子らしき男が、王都の奴隷商にいる。

 愛玩用として売られている。


 外交問題としては、十分すぎる爆弾だった。


「分かった。こちらで確認する」


「お願いします」


 ビクトリアは席を立った。


「待て。お前はどうしたい」


「どう、とは?」


「助けたいのか」


 考えた。


 あの美しい顔を、もう一度見たいとは思う。

 愛玩奴隷として誰かに買われることを想像すると、不愉快でもある。


 けれど、それを助けたいという美しい感情に言い換えるほど、ビクトリアは自分に嘘をつけなかった。


「厄介事の芽を見つけたので、お知らせしただけです」


「そうか」


 義兄は納得していない顔をした。


 ビクトリアは納得していた。


 不発弾も、掘り出さなければ、ただの石である。


 石がその後どうなるかは、外務大臣の仕事だった。



第四話 元聖女の婚姻


 ビクトリアはシャトーハイペリオンへ戻った。


 六人のメイドのうち、四人を館へ置いた。

 二人は本人たちの希望と適性を見て、ワイナリーの事務と直轄農地の管理所へ回した。


 ルークには、館とワイナリーの出納を任せた。

 外との交渉にも同席させたが、最初から商売を始めさせることはしなかった。


 彼は有能だった。

 有能であることを急いで証明しようとする。


 おそらく以前の職場でも、それで目立ちすぎた。


 急ぐ必要はないと理解させることが、最初の教育になった。


 ロッテ、アダム、サイモンが人形であることは、七人にだけ明かした。


 秘密を守る契約を結び、三体には人間と同じように部屋を与え、給与を定め、休暇も作った。


 人形に休息は必要ない。

 欲しいものも、ほとんどない。


 しかし、人間として暮らすなら、必要がなくても持たなければならないものがある。


「私たちの不自然な点を見つけたら、教えてください」


 ロッテが七人へ頼んだ。


 最初は誰も何も言えなかった。


 三日後、エマが勇気を出して、アダムは同じ姿勢で長く立ちすぎると指摘した。

 五日後には、ルナがサイモンは食事をおいしいと言う時も表情が変わらないと告げた。


 二人は真剣に記録した。


 人間の使用人が人形へ人間らしさを教え、人形が人間の使用人へ仕事を教える。


 奇妙だったが、館は動き始めた。


 ビクトリアは森で鹿を追い、猪を仕留めた。

 葡萄酒を飲み、姪たちへ新しい人形を送り、何の事件も起こらない日々を過ごした。


 たいへん満足していた。


 奴隷商で見た男のことは、考えないようにした。


 考えないようにしている時点で、かなり考えていた。


◇


 一か月後、国王から呼び出しがあった。


 私的な面会だった。

 部屋には国王と父ヨナス、義兄アーベルマート伯爵がいた。


「ビクトリア。婿を一人、紹介したい」


 国王が言った。


「いりません」


「まだ相手を見せていない」


「夫を必要としていません」


「お前の自由は約束する。結婚を強いるつもりもない。相手がお前を望んでいる。会ってから断ってもらいたい」


 断るために会う。

 それならば、断る手間が少し増えるだけである。


「分かりました」


 扉が開いた。


 男が入ってきた。


 整えられたプラチナブロンド。

 淡い水色の目。

 痩せてはいるが、背筋は伸びている。


 奴隷商の薄暗い部屋で見た時にも美しかった。

 身なりを整えると、もはや誰が見ても王子だった。


 ビクトリアの中で、止まっていた警報が再び鳴り始めた。


「クリス・スチュアートです」


 男は名乗った。


 義兄の調査によって、正体は確認されていた。


 エイコ連合王国第一王子。

 国王ヘンリー八世の嫡男。

 聖教会派が次の王として望み、現国王が最も恐れている男。


 クリス本人は王位を望んでいない。

 ただ土を耕し、よりよい作物を作りたいと願っている。


 しかし、本人の望みは政治において最も軽い。


 マチュー王国が王子を保護したと公表すれば、聖教会派は接触を求める。

 エイコ国王は引き渡しを求める。

 密かに帰せば、途中で殺される可能性が高い。


 マチュー王国の貴族として庇護するには、誰かの家へ入れる必要がある。

 並の貴族では、第一王子という血の重みに耐えられない。


 王家の一員でありながら王位を求めず、他国にも名を知られ、本人の自由を守れるほど強い者。


 条件に当てはまる女が、一人だけいた。


「奴隷契約は解除してある」


 国王が説明した。


「身分を戻せば外交問題になるため、今のクリス殿は、我が国が保護する一人の亡命者だ。お前が断れば、別の保護先を探す。それで不利益を与えることはない」


 逃げ道は用意されていた。

 クリスにも。

 ビクトリアにも。


 それでもクリスは、ビクトリアを見たまま動かなかった。


「奴隷商で、あなたを見ました」


「私も見ました」


「あなたは、私を買わなかった」


「買えば面倒になると思いました」


 部屋にいた三人が、わずかに目を伏せた。


 クリスは傷つかなかった。

 むしろ、初めて少し笑った。


「あの時、あなたが女神に見えました」


 かなり疲れていたのだろう。


 元聖女ではあるが、女神になった覚えはない。


「私を見て、正体に気づき、それでも手に入れようとしなかった。あなたが知らせなければ、私は今も商品でした。あるいは、別の誰かに買われていた」


 クリスの声は静かだった。


 感謝を述べる声ではない。

 もっと重いものがあった。


 追われ、捕まり、名を奪われ、値をつけられた者が、最後に見つけた一本の綱へ全身を絡ませようとしている。


「自分を救えるのは、あなただけです。生きながらえることができるなら、私の人生はすべてあなたに捧げます」


 健全な求婚ではなかった。


 人生をともにしたいのではない。

 自分の人生そのものを差し出そうとしている。


 依存である。

 執着である。

 救いを一人の人間に定めるのは危険だった。


 ビクトリアには、それがよく分かった。


 分かった上で、嫌ではなかった。


 自分もまた、正常な感性を持っているとは言い難い。

 人形を家族のように愛しながら、大切な道具であるとも考えている。

 平和を望みながら、必要と判断すれば一人で城を襲う。

 人を救う聖女であったのに、目の前の男を助けたいと思った理由の半分以上は、その顔が美しかったからである。


 危険な男だった。

 だからやめる、とは思わなかった。


 危険なものなら、手元に置いて管理すればよい。


 何より、その美貌を他人に渡したくなかった。


 ビクトリアは席を立ち、クリスの前まで歩いた。


「お前が老いさらばえて朽ちるまで、その美貌を私は愛でます」


 クリスが目を見開いた。


「私のものになってください」


 部屋にいた三人は、今度こそ完全に言葉を失った。


 救われた者の重すぎる求婚に対し、元聖女は所有欲で答えた。


 よく似合っていると考えた者は、その場には二人しかいなかった。


 クリスと、ビクトリアである。


◇


 婚姻は、急いで整えられた。


 クリスはエイコ連合王国の王位継承権を放棄した。

 スチュアートの家名も捨てた。

 マチュー王国は彼を王子として迎えたのではなく、聖公女の配偶者として保護した。


 エイコ国王へは、第一王子と見られる人物が自ら継承権を放棄し、マチュー国内で私人として暮らすとだけ伝えた。


 それで問題が消えたわけではない。


 スチュアートの名を捨てても、あの髪は消えない。

 淡い水色の目も変わらない。


 聖教会派にとって、正妃の子であり、その血を外見だけで証明できるクリスは、生きているだけで旗になる。

 王位を望まないという本人の言葉も、継承権を放棄したという他国の証書も、彼らには意味を持たない。


 清教会派にとっては、国外へ逃れた危険な対立候補である。


 爆弾は処理されたのではない。

 ビクトリアが持ち帰っただけだった。


 本人は、そのことを理解していた。

 理解した上で、考えないことにした。


 恋は盲目である。


 クリス・スチュアートは、クリス・ポガチャルとなった。


 祖母マリアは、自分の家名が再び次代へ続くことを静かに喜んだ。

 ビクトリアも、ビクトリア・レムコ・モルガン・ポガチャルを名乗ることになった。


 モルガンの名を捨てず、ポガチャルの名を継ぐ。

 王家の血を示すレムコも残す。


 長い名前になった。


 これ以上は増やさないつもりである。


◇


 クリスの農業知識は、本物だった。


 ジャガイモ、玉ねぎ、人参、キャベツ、レタス。

 土地に合う作物を選び、種を分け、よい性質を持つものを残す。


 鶏を飼い、家畜の糞を堆肥にし、畑へ戻す。

 作物を売るだけでなく、食卓へ上げ、領民に味を覚えさせる。


 ブルゴーの食卓は、少しずつ豊かになった。


 ビクトリアは、人参がおいしい野菜だと初めて知った。

 それまでは、煮込みの中で色を添えるための根だと思っていた。


 クリスには木人を十体貸した。

 戦略級思考は封じ、選択級まで能力を落としてある。


 その程度なら、命令を正確にこなす便利な魔道人形として、人々にも受け入れられる。


 客人の前で木人に茶を運ばせると、最初は驚き、次には喜んだ。

 賢すぎる人形は恐れられる。

 少し不器用で、命じられたことだけをする人形は愛される。


 人が受け入れられる知性には、上限があるらしい。


 ある日、クリスは木人を並べて畑を耕していた。


 隣の畑では、玉ねぎの苗を植えさせている。


「二列に、真っすぐ並べるんだ。株の間隔は同じに。そう、機械のように正確に」


 木人たちは、言われたとおりに動く。


 麦わら帽子の下から、プラチナブロンドがのぞいている。

 淡い水色の目は畑へ向けられ、奴隷商の部屋で見た時にはなかった光を帯びていた。


 クリスは笑っていた。


 王子としてではない。

 誰かの旗としてでもない。

 自分の畑で、自分の好きな作物を育てる一人の男として笑っていた。


 ビクトリアは木陰の椅子に座り、その姿を眺めていた。


 美しい。


 畑も。

 等間隔に並ぶ玉ねぎも。

 そこで働く夫も。


 たいへん満足していた。


 遠いエイコ連合王国では、聖教会派と清教会派の対立が続いている。

 聖教会派が、プラチナブロンドと水色の目を持つ正妃の子を諦める理由はない。

 タデイ帝国の皇太子も、受けた傷と屈辱を忘れてはいないだろう。

 問題の種はいくつもある。


 だが、まだ芽を出していない。


 今日は玉ねぎを植える日だった。


 ビクトリアは、夫の美しい横顔を眺めながら、何も起こらない午後を楽しんだ。


 元聖女は、ようやく家に帰ったのである。


                 完


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