『甘い汁の終着駅(ラストステーション)』
『甘い汁の終着駅』
『甘い汁の終着駅』
「静かに見守ってください。もう、行くべき場所が見つかりましたから」
お隣に住んでいた木村さんがそう言って微笑んだのは、ある晴れた朝のことだった。
毎朝、公園のラジオ体操で見かける彼は、いつも穏やかで、知的で、近所の誰からも好かれる老人だった。
しかしその翌日、彼は長年住んだ借家を引き払い、忽然と姿を消した。
逝去ではない。
彼は、自分を受け入れる「次の場所」へと移動したのだ。
近所の噂では、彼は生活保護や障害年金、かつて得た書籍の印税など、あらゆるセーフティーネットを駆使して、誰にも追えない場所へ安住の地を求めたらしい。
元々賢い人だった。
だから、役所とのコミュニケーションも、新しい土地への同化も、何一つ困らないのだろう。
「……あっち側から戻ってこれた人は、まだマシなんだよ」
ベランダで煙草をふかしながら、俺の先輩であるケースワーカーの佐藤さんが呟いた。
「あっち側、ですか」
「そう。巨大な『宗教マインドコントロール』の蟻地獄さ。あの集団は狡猾だ。最初は信者に甘い汁を吸わせる。現世利益、絶対的な肯定、心地よい仲間。だが、信者が社会問題を起こしたり、組織に泥を塗ったりすると、トカゲの尻尾切りみたいに冷酷に見捨てる。ストレートに会話ができるうちはまだ甘い汁の余韻があるが、必要以上に元の場所に戻ろうと縋り付くと、最後は『恐怖』で当事者を突き放すんだ」
佐藤さんの目は笑っていなかった。
「足掻けばあがくほど、沈んでいく蟻地獄。問題行動を起こさない普通の信者グループにとって、狂信的に縋り付く元信者はただの『厄介者』でしかない。切り捨てられた人間は、恩と洗脳の狭間で必死に元の場所に帰ろうとするが、戻れない。結果、社会の底が抜けた場所へと落ちていく」
生活保護。
自立支援。
あるいは、借金。
ローン。
果ては、誰もやりたがらない汚い仕事、命を削る危ない仕事。
それが、彼らが最後に流れ着くセーフティーネットという名の、あるいは底なし沼の、新たなパーツだ。
「集団催眠から抜け出すには、今の医学じゃ内科、神経外科、心療内科、入院、リハビリ……ありとあらゆるアプローチが必要だ。何より『自分の考え方を変えられるか』にかかっている。でもな、残念ながら大半の奴は変えられない。人としてやっていいことと、ダメなことの境界線さえ麻痺しちまうからな」
佐藤さんは煙草の灰を落とした。
「だから俺たち一般人にできるのは、彼らを救うことじゃない。『離れる』ことだ。近づいてきたら、お断り、お断り。それしかない」
ーー最後は、自分との戦い。
木村さんはその戦いに勝ち、歪んだマインドコントロールを普通の健常者の思考へと書き換え、静かに去っていったのだろう。
元々コミュニケーション能力が高かったから、新しい街でもうまくやれるはずだ。
だが、世の中にはコミュニケーションが苦手なまま、組織の「パーツ」としてしか生きられない人間もいる。
支え合い、持ちつ持たれつで形成されていた集団催眠の歯車から、パーツが一つでも欠ければ、彼らは一瞬で自立した会話の能力を失う。
そして、また社会問題を繰り返す。
切り捨てられ、壊れたパーツたちは、最後はどこへ行くのだろう。
ふと、スマートフォンの画面を見た。
ニュースでは、ある新興宗教の凄惨な内部粛清の事件が報じられていた。
社会問題を起こし、教団に見捨てられ、暴走した男の末路。その時、玄関のインターホンが鳴った。
「ピンポーン。」
荷物の予定はない。
ドアスコープを覗くと、丁寧にお辞儀をする、見知らぬ若い男の姿があった。
手には、引っ越しの挨拶用らしき小さな洗剤の箱。
「あ、恐れ入ります。隣に引っ越してきた、鈴木と申します。これからよろしくお願いいたします」
男の笑顔は、やけに爽やかで、理知的だった。
完璧なコミュニケーション。
しかし、俺は気づいてしまった。
男の持つ洗剤の箱の裏、握りしめた指の隙間に、あの教団のシンボルマークのタトゥーが、不自然に隠されているのを。
彼は姓名を変えたのだろう。
危ない仕事や、汚い仕事や、あらゆる網をすり抜けて、ここに移動してきたのだ。
考え方を変えられた「木村さん」のような生存者か?それとも、人としての境界線を失ったままの「厄介者」か?
最後は、自分との戦い。
男は静かに、俺のドアの向こうで微笑んでいる。
怖いね。
(了)
気楽に読んで。
少し怖い内容。




