最終話 君じゃないとさ
歌い終えたとき、目の奥が熱くなった。
拍手が波のように押し寄せてくる。誰かが「よかったよ!」と叫んでくれた声が遠くから聞こえた。
泣かないように、ぐっと唇を噛んで頭下げる。
「……っ、ありがとうございました!」
顔を上げた、視線の先。
亮くんの姿を見た瞬間、胸がいっぱいになって涙がこぼれそうになる。
だけど、ちゃんと最後まで笑ったままステージを降りられた。
舞台袖に入ると、急激に意識と感覚が現実に戻ってきた。ライトの熱も、手の震えも、拍手の音も、全部がまだ身体の中に残っている。
鼓動が速い。息が浅い。それでも、心は満たされていた。
──私の歌、亮くんに届いたかな……。
痺れるような手で、ポケットの中にしまった屋上の鍵を握る。
──行こう……。
気づいたら足が動いていた。
体育館を出て、お祭り騒ぎのように賑やかな廊下を小走りで駆け抜ける。壁に貼られたたくさんの装飾品が風に揺れて、模擬店の食べ物の匂いが漂っている。
でも、もう何も目に入らない。
ただ、あの場所へ──。
屋上に残された想いが、私を呼んでいる気がした。
♬⋆.˚♬⋆.˚♬⋆.˚
ポケットの中の鍵を取り出し、震える手で鍵穴に差し込む。金属が擦れる音がして、ガチャリと軽い音が響いた。
ドアノブを回すと、眩しいくらいの光と秋の色を帯びた風が一気に流れ込んでくる。
文化祭の喧噪が遠くに霞んで、ここだけ時間が止まっているみたいだった。
──懐かしい……。
潮の香りが風に混ざって届いた。
秋の気配をまとった海風は、夏の出来事を連れ去るように通り過ぎていく。
誰もいない屋上は、なによりも自由だと思った。
手が届きそうなほど近くに感じる、海を反転させたような澄み切った空。世界中に私一人だけみたいだと錯覚するような開放感と孤独感。
初めて亮くんと出会った日の屋上は、世界が輝いて見えたのに──今は、海と空の青だけしか残っていない。
頬を撫でていく風は、あの頃とは違う風だった。
泣きそうになるのを堪えて、そっと目を閉じる。まぶたの裏に浮かんだのは、会ったばかりのころの記憶。
それをなぞっていくうちに、唇から自然にメロディがこぼれ出た。歌うつもりなんてなかったのに、胸に残っていたフレーズが勝手にあふれてくる。
──亮くんの好きな曲、だから。
口ずさんでいたのは、アジカンの「Re:Re:」だった。
亮くんのギターと合わせるために、何度も歌って覚えた歌詞。そのひとつ一つが、息に乗って流れていく。
これほどまでに、歌に自分を重ねたことがあっただろうか。同じ曲なのに、あの頃とはまるで違って聴こえる。
今の私のために書かれた歌だと思えてしまうくらい、痛いほどに心と重なっていた。
──ねえ。あなたにこの声は、届いていますか?
私の歌声は風と一緒に、波音の彼方へと溶け込んでいった。
一人きりの屋上で歌い終わったとき、堪えていた涙がついにこぼれ落ちる。
──私には、亮くんじゃないとダメなんだよ……。
花火大会の日に「好きです」と告白できていたら。
事故に遭った日、少しでも別れる時間をずらせていたら。
亮くんと一緒に文化祭に出られていたら。
後悔ばかりが波のように打ち寄せて、痛みに変わっていく。どうして、あのときの自分は何もできなかったんだろう。
大粒の涙が地面についた──その瞬間。
「綾瀬……」
聞き慣れた声に、心臓が跳ねる。涙を拭って振り向けば、屋上のドアのところに彼が立っていた。
「亮、くん……」
「ライブ見させてもらった。綾瀬って、歌上手いんだな」
亮くんは、少し照れたようにぽつりと呟いた。
歌が上手い──懐かしいセリフだった。初めて一緒に歌った日の、あの笑顔がよみがえる。
「……ありがと」
「泣いてる?」
「あ、うん。なんか緊張が解けたせいか、涙が……。ライブ大丈夫だったかなって」
苦しい言い訳だったけれど、それ以外に弁解のしようがない。そんな私の心情など露知らず、亮くんは「大丈夫、すごくかっこよかった」と満面の笑みで言ってくれた。
「綾瀬は、なんで屋上に?」
「ここは……私の大切な場所だなら、かな」
「俺もさ、綾瀬の出番が終わったあと、自然に足がここに向かってた。理由はわかんないけど……ここに行かなきゃって」
「うん……」
はっきり言ってしまえば──少しショックだった。
亮くんは記憶を取り戻したわけではないのだから。
それでも、こうして屋上へ来てくれたことが嬉しくてたまらない。恋心より複雑な感情は言葉では言い表せず、自然に涙となって流れていった。
「また泣いてる?」
「あ、ごめんね。なんか、ほんとすごく緊張してたから……つい?」
涙を拭って、冗談めかして笑ってみせる。
本当の理由なんて言えるわけなかった。
「綾瀬さ……」
亮くんの低い声が落ちて、風が私たちの間をすり抜けていく。
彼は少し迷ったように視線を泳がせたあと、真剣な顔で私を見つめた。
「右腕が治ったら……俺と一緒に、歌ってくれない?」
その言葉が身体中に染み込んでいく。亮くんのまっすぐな瞳が、私を捉えて離さない。
───あの日と、同じ……。
屋上で初めて歌ったときも、こんなふうに真剣な目をしていた。懐かしさと嬉しさと、どうしようもない切なさが胸を満たしていく。
「……私で、いいの?」
「綾瀬がいい」
短く、迷いのない声。
そして私の歌声をたくさん褒めてくれた、あの優しい笑顔。
──ほんとに、ぜんぶ一緒……。
胸がいっぱいになって、息が詰まりそうになる。喉元のすぐそこまで言葉がこみ上げてくるのに、声にならなかった。
必死に涙を堪えて何も言えずにいると、沈黙が気まずくなったのか、亮くんは慌てた口調で場を和ませるように口を開いた。
「あ、ほら。なんか聞き惚れたっていうか。俺ギター下手だから、上手い人に歌ってもらったほうが雰囲気出るかなって」
それから頬をかいて、照れくさそうに苦く笑う。
「ごめん……。一人でテンション上がってたかも」
少し申し訳なさそうな言葉尻に、頬をかく仕草。それがまた懐かしくて、涙があふれそうになる。
「ううん……私、やるよ。亮くんとまた歌いたい」
「さんきゅ」
亮くんの声と笑顔は、あの日の記憶をそのまま連れてきたみたいだった。
──そうだよ。
音楽がある限り、私たちは何度だってやり直せる。
歌が私たちを繋いでくれる。
だから、ここからまた私たちは始めればいい。
手を伸ばせば、目の前には彼がいるから。
「なあ……」
亮くんは視線を少し下に落とし、言葉を選ぶようにゆっくり口を開いた。
「綾瀬の下の名前、なんだっけ?」
とくん、と胸が鳴った。
その音を合図に、景色が全部塗り替わっていく。止まっていた時間が動き出すように、脈打つ鼓動が新しい世界の始まりを告げてくれる。
私は小さく息を吸って、笑顔で答えた。
「……莉緒。私の名前、莉緒だよ」
その瞬間、風が頬を撫でて──あの日と同じ、夏の匂いがした。
はじめまして、葉南子と申します。
このたびは『Re:海辺の君と青に溶けるような恋をする』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
各話タイトルは、すべてアジカンの曲からもじってます。それとロキノン厨らしく、至る所にあの頃に聞いていたであろう名曲の歌詞のオマージュがあったりしております。
最後に、ロキノン厨の方も、そうでなかった方も、ブクマや評価を入れていただくと大変励みになりますので、ぜひよろしくお願いいたします★★★★★
またいつか、別の物語でお会いできましたら幸いです。本当にありがとうございました。
葉南子




