第18話 それでも私は愛と呼んで
夏の名残もすっかりなくなった十月。
目まぐるしいくらい、あっという間に一ヶ月が過ぎていた。
そして今日は文化祭当日──私は少し緊張しながら、賑やかに飾られた校門をくぐった。
この一ヶ月、亮くんと直接会うことはなかった。
屋上にも何度も足を運んだけれど、鍵が空いていたことは一度だってない。
思い出に鍵をかけられてしまったみたいで、その度に胸が締め付けられていた。
──今日、亮くんが思い出してくれなかったら……。
私は、この先どうしたらいいんだろう。
純度百パーセントの恋心は、失恋なんて言葉で片づけられるほど単純なものじゃない。
緊張、興奮、期待、不安──今までに感じたことのない重圧に押しつぶされそうだった。
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「いよいよだな」
星野先生が腕時計をちらりと見やり、呟くように言った。
体育館、ステージの舞台裏。
暗幕の向こうからは、ざわめく生徒たちの声がかすかに聞こえてくる。
開演は正午。私の出番まで、あと三十分を切っている。
ステージにはすでにアンプやドラムセットが組まれていて、すぐにでもライブが始められそうだった。
私はシークレットアクトとして名前を伏せられている。
そんなの緊張が増すだけだと思ったけれど、どうやら亮くんが「みんなを驚かせたい」と、こっそり企んでいたものらしい。
先生から聞いたとき、なんて彼らしいんだろうと思わず笑ってしまった。だから私も彼の意図を汲んで、このことは誰にも話さなかった。
「応援してる」
「……はい」
「そんなに緊張するな、綾瀬なら大丈夫だから」
先生と何度か練習を重ねていた。
亮くんがギターを弾いている動画を音源にして、メロディの細部を調整してくれたり、ステージの環境を整えてくれたり──本当に献身的なくらい支えてくれた。
「大丈夫」と言った先生の言葉の中には、“ライブがうまくいく“という励ましだけじゃなく、“きっと思い出す”という祈りのような願いが込められているんだろう。
「お守りってほどじゃないけど……」
先生はポケットに手を入れて、私に手のひらを出すように促した。
手の上に置かれたのは、家で使われるような銀色のシンプルな鍵。
「これって……」
「屋上の鍵。今日は、綾瀬が持っているべきだと思うんだ」
小さな鉄の塊が乗っただけなのに、手のひらはどんどん熱を帯びていく。
──そうだ……。
思い出の鍵を開けられるのは、私だけ。
私から開いていかなければ、亮くんの記憶はずっと閉ざされたまま。
だから、私から動かなくちゃいけないんだ。もう一度、あの扉を開けるために。
「ありがとうございます……」
自然と涙腺が緩んだ。けれど、泣くわけにはいかない。
ライブが終わるまでは絶対に泣かないって決めたから。
私の気持ちと想いは、全部──歌詞と歌に乗せる。この想いは、涙なんかに変えたくなかった。
「じゃあ、俺は佐久間を連れてくる」
先生の声もかすかに震えている気がした。緊張と覚悟を滲ませた先生の言葉は、私に願いを託しているかのように届く。
「客席から見てるから。頑張れ、綾瀬」
そう言って、先生は舞台裏から離れていった。
開演まで残り十分。胸が張り裂けそうなくらい緊張しだす。
結末は、誰にもわからない。
わからないから、わからないまま終わらせたくないから、私は歌う。
鍵をぎゅっと握りしめて、スカートのポケットに押し込む。
やがて暗幕がゆっくり上がり、そのときが訪れた。
──やるしかない……!
もう迷わない。
深く息を吸い込んで──私はステージに足を踏み出した。
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目の前には、たくさんの見知らぬ顔。
私が出ることは友だちにも内緒にしていたから、ここにいる生徒たちは、これから出演する軽音楽部の仲間なのだろう。前座だから客席はまばらだけど、それでも心臓は早鐘を打つ。
そのざわめきの中、私は亮くんを探した。
──あ……。
後ろのほう、星野先生の隣にいる彼の姿がすぐに目に入った。右腕に三角巾を巻いている──亮くんだ。
心臓が跳ね上がって、息が止まりそうになる。マイクを握っている手が震えて、おまけに足も震え出す。喉は締まりきって、声が出せない。
手に汗握った瞬間──スピーカーからキーンとハウリングが響いた。
「わっ……! ごめんなさい!」
慌てて謝ると「だいじょぶ」「あるある」と笑い声や励ましの声が飛んできた。亮くんも、くすりと笑ってくれているのが見える。
少しだけ、緊張の糸が解けた気がした。
「あの、こんにちは……二年の、綾瀬莉緒です」
歓声と拍手が返ってくる。軽音楽部の人たちは、バンドをやるくらいだからやっぱり根も明るくて、あたたかい人が多いんだろう。
ほっとするような空気が広がっていくのがわかった。
「えと、本当は二人でステージに立つ予定だったんですけど……いろいろあって、私一人で歌うことになりました」
小さく息を整え、ポケットにしまった屋上の鍵をスカートの上から握りしめる。
後悔はしたくない。今、この瞬間が、私にとっての運命の扉。
「この歌が、あなたに届きますように……。そう願いを込めて、歌います」
そう告げたあと、体育館に亮くんが弾いたアコースティックギターの音が響き始めた。




