第17話 つまりエンドじゃなくてリスタート
五分くらい泣いていただろうか。
やっと呼吸が整ってきたくらいのころ、私はぺこりと頭を下げて謝罪した。
「本当にすみません……。みっともなく泣いてしまって……」
先生は小さく首を横に振りながら、「そんなことない。気にするな」と声をかけてくれた。
「これ以上話を続けていても……綾瀬には、つらい思いをさせるだけかもしれない」
「それでも……聞きます。聞きたいんです」
「そうか」
短く頷いた先生の声色が、少しだけ硬くなった。
「佐久間の親とも話をしたんだ。だけど、脳に損傷や異常は見られないし、経過も良好だという診断が下ったみたいだ」
「異常が……ない?」
私は先生の言葉を素直に呑み込めなかった。
「そんなわけないです……! 記憶がなくなってるのに、そんなのおかしいです!」
身を乗り出して、声を荒げていた。自分でも驚くほど感情的になっていることに気づく。
目の前で戸惑うような先生の表情を見て、はっと我に返った。
「……すみません」
先生はまた首を横に振る。それから目を伏せて、言葉を探すようにしてから口を開いた。
「綾瀬の気持ちもわかる。俺だって信じられないし、ショックだった。でも……医者がそう判断した以上、俺たちにできることはないんだ」
「亮くんの親とか、病院の先生には……話したんですか?」
「いや、余計な混乱を与えたくなくて、今はまだ。それに、本当にギター以外のことはちゃんと覚えている。生活に支障もない。佐久間にだって……無理に思い出させようとすれば、かえって混乱して苦しめることになるかもしれない。だから、黙っていようと思ったんだ」
先生の言うことは、きっと正しいのだろう。
だけど、一つだけ訂正するのなら。亮くんはギターのことだけじゃなくて──私のことも忘れてしまっている。
ぐずっと、引っ込んだはずの涙がまつ毛の手前まで迫り上がっていた。
しばらく沈黙が落ちたあと、先生がゆっくり口を開く。
「綾瀬と佐久間は……どんな関係だったんだ?」
「え……」
思いがけない問いに、息を呑む。
先生の声は優しかった。責めるでも、詮索するでもなく、ただ知ろうとしている響き。
──先生だけが、わかってくれるのかもしれない。
私のことを忘れてしまった亮くんのことも、その痛みも。
痛みを分かち合える誰かが、この世界に一人でもいてくれる。それだけで、ほんの少しだけ呼吸が楽になった気がした。
「友だち……でした」
声が上擦った。
本当は“友だち“よりも近くて、“恋人“というには遠い人。だけど、今は「友だち」以外の言葉が浮かばなかった。
それから私は、屋上で出会ったあの日のことから話し始めた。
雨粒がポツポツと降り始めたように、少しずつ言葉を紡ぐ。やがて、それは水たまりのようにあふれ──涙に変わっていった。
彼が私の歌声を好きだと言ってくれたこと。
そうして、音と歌を合わせたこと。
莉緒と呼んでくれたこと。
花火を見たこと。
約束を交わしたこと──。
一つひとつを思い出すたび胸が軋んで、歪んでいく。それでも、捨てられない。忘れたくない。
「佐久間は……綾瀬のこと大切に想っていたと思う」
先生の言葉には優しさが宿っていて、同情や慰めのような、その場しのぎの類ではなかった。
「それこそ、佐久間の記憶がなくなった辺りからかな。ギターへの熱も、音楽への情熱も、そして誰かを想う気持ちも……」
言葉が途切れ、先生は少し間を置いてから続ける。
「たぶん事故に遭う瞬間……佐久間は自分の人生の中で、一番大切なものを思い出していたんじゃないかな。それが轢かれた衝撃で消えてしまった。いや、衝撃や痛みを忘れるために、奥底に眠らせた……そんな感じがするんだ」
そんなことがあるのだろうか。
だけど先生の言葉は、妙な説得力があった。
それは、私がそう思いたかったからかもしれない。なぜなら、他に説明がつかないのだから。
「……綾瀬は、文化祭どうしたい?」
「どうしたいって言われても……。亮くんがいないんじゃ……」
たった一人で、ステージになんて立てるわけない。
たとえマイクの前に立ったとしても、隣に彼のギターの音がなければ歌うことなんて──できるはずがない。
「音源は?」
「ギターを弾いてる動画ならありますけど……」
先生は自分の中で何かの答えを出したように、小さく、でも力強く頷いた。
「俺は、綾瀬にはステージに立ってほしい」
「……無理です」
「だよな」
先生は苦笑したけれど、その笑みにはどこか諦めきれない色が浮かんでいた。
「オープニングアクトで頼んでたから、もともと持ち曲は一曲だけなんだ。その一曲が、佐久間が作ったオリジナル曲の予定だった」
「……はい」
「せっかく仕上げた曲を披露せずに終わらせるなんて、もったいないと思わないか?」
「でも、亮くん……忘れてるんですよ?」
自分で言っていて、つらくなる。その現実を一番認めたくないのは、他の誰よりも私自身だ。
「綾瀬にも思い出の曲ってあるだろ? あの曲を聴くと、あのときを思い出す、みたいな」
先生の言葉に、ふと日常の断片が浮かんだ。
米津玄師の『パプリカ』を聴けば、小学生のときに踊った体育館の匂いがよみがえる。Adoの『私は最強』を聴けば、中学のカラオケで笑い転げた放課後が思い出される。
「色濃く記憶に残ってる曲ってさ、不思議と忘れないんだよな。それどころか、あの頃の景色や匂いや感情まで、鮮明に残ってるんだ」
たしかに、先生の言う通りだと思った。音楽には時間を越えて心を揺さぶる何かがある。記憶よりも深い場所に触れて──世界線すら超えてしまう何かが、あるような気がする。
先生は「つまり……」と言葉を区切り、眼鏡の奥の瞳をこちらに向けた。
「綾瀬が歌えば……もしかしたら、思い出すかもしれない。自分が初めて作った曲、それも大切な人と一緒に。そんなの、忘れるはずないと思わないか?」
先生の微笑みと言葉が、胸にあたたかく染みていく。凍りついていた心が、少しだけ動いた気がした。
──そうかもしれない……。
暗闇の中で見つけた光は頼りないほどか細くて、今にも消えてしまいそうだったけれど。それを「希望」と呼ぶのには、じゅうぶんすぎるほどの光だった。
「……はい。私も、そう思います」
小さく息を呑み込む。ぎゅっと膝の上で拳を握りながら、私は顔を上げた。
そんな私を見た先生は安堵したように微笑み、ゆるく息を吐いた。
「俺も、初めて作った曲は今でも覚えてるんだ。青くさくて、だけどあの頃の自分じゃないと作れない曲だった。好きなバンドのパクリみたいな曲作ったっけ」
そう話しだした先生は目尻にしわを寄せて、懐かしそうに笑っている。
眼鏡の奥にある瞳が少しだけ幼く見えて、音楽の話をしているときの亮くんと重なった。
──いつか亮くんも、こんなふうに笑う日が来るのかな。
大人になって、あの頃の音や景色を懐かしむように一緒に話せたら──そんな未来を願う気持ちが、キャンドルの灯のように胸にともった。
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「ありがとうございました。なんか、すっきりした気がします」
「俺も。正直、本当にショックだったんだ。だけど、綾瀬と話していたら……奇跡が起こるかもしれないって思えた。こちらこそ、ありがとう」
二人で軽く頭を下げ合う。
会議室に案内されたときの重たい空気は、霧が晴れたように消えていた。
「文化祭も全力でサポートするから、困ったことがあれば何でも言ってほしい」
「はい、ありがとうございます」
「絶対に、俺が責任を持って佐久間を会場に連れていくからな。約束する」
教師としてではなく、ひとりの大人としての誠実さを感じさせる言葉だった。
だから私も単なるお礼の言葉ではなく、ひとりの音楽好きな人へ向けた感謝の言葉を紡いだ。
「先生……アジカンって、かっこいいですよね」
一瞬だけ、先生が目を見開いた。どうして私がそのバンドを知っているのか──その理由をすぐに悟ったのだろう。
それから腕を組んで、誇らしげに微笑んだ。
「だろ」
軽やかな響き。先生がこんなふうに笑っている顔は、初めて見たかもしれない。
──あの人の笑顔を、もう一度見たい。
好きなことを語る亮くんが、私は大好きだった。また、あの笑顔に会えるかもしれない。もしそれが叶うなら──。
家に帰ると、私はすぐに机に向かった。
亮くんから送られたメッセージを紙に書き写して、じっくりと目で追う。
記したのは、彼が作詞した歌詞の一番。彼の想いが、ぎっしり詰まった詞。
その想いに応えるように、私は感情のままペンを走らせた。




