第16話 ぐちゃぐちゃになって境目が曖昧
最初は、なんとなく違和感があった。
話す声も、笑い方も、たしかに亮くんのものなのに──何かが違う。
お互い向き合っているはずなのに、全然視線が合わない感覚が続いていた。
「スマホばきばきに割れて、データも全部吹っ飛んでさ。マジで最悪だよな。親は『スマホが代わりになってくれた』って言ってたけど」
「ほんと無事でよかったよ。事故に遭ったって聞いたとき、心臓止まりそうになったんだから」
「綾瀬は優しいな。去年同じクラスだったってだけで、見舞いに来てくれるんだもん」
──え……。
息が止まった。頭は真っ白になって、すぐには理解が追いつかない。ただただ、違和感だけが膨れていく。
言葉を返せずにいると、亮くんは「あれ?」と不思議そうに首を傾げた。
「俺たち、一年のとき同じクラスだったじゃん。もしかして……覚えてない?」
悪気なんてない、純粋なあどけない顔。
膨れ上がった違和感が、じわじわと胸を締め付ける。
──まさか……。そんな、はず……。
違和感が壊れないことを祈りながら、私はたどたどしく口を開いた。
「もちろん……覚えてるよ。それで、えと、その、文化祭には……間に合いそうなんだよね?」
「もち。言ったじゃん、数日後には退院だって。まあ、右腕はまだ動かないかもしれないけど」
「じゃあ、ギターは……」
「ギター?」
彼は訝しげに、眉間にしわを寄せた。
「綾瀬……なんで俺がギター弾いてること知ってるの?」
──ああ……どうして……。
私の祈りは、届かなかった。
その言葉を聞いた瞬間、膨れ上がっていた違和感が音を立てて崩れ落ちた。
彼と過ごした日々の記憶が、鋭い刃に形を変えて身体中を抉っていく。残された真実だけが、痛いほど鮮明に突き刺さる。
容赦なくナイフでぐちゃぐちゃにされて──そうして、このまま感情なんて無くなってしまえばいいのに。
「星野先生?」
それしかないよね、とでも言いたげな軽やかな声で問いかけられて、はっと意識が戻った。
「……あ、うん。そう、星野先生」
「なんかさ、星野先生にも文化祭のこと聞かれたんだよね。『ライブどうする?』って。どうするも何も、この腕じゃ弾けないし、そもそもライブできるほど上手くないのに」
亮くんは照れくさそうに笑う。でもその笑顔は、記憶の中の彼と重ならない。
「もしかして、綾瀬も実はギター弾いてたとか?」
軽く冗談めいた調子。
けれど、その一言で──ぷつりと糸が切れた気がした。
「ごめん……このあと用事があって。私、もう帰るね」
そのあとの彼がどんな顔をしていたのかなんて、もう覚えていない。
病院の廊下を、来たときよりもずっと速い歩調で通り抜けた。
──違う……。違う……。そんなの、あるわけない……!
だって面会の前、受付の人は「とても元気で、お話も普通にできますよ」と言ってくれた。
言ってくれたのに──。
全然、普通じゃなかった。
世界線が変わってしまったように、彼の記憶からは屋上で出会ったあの日から、これまで私と過ごした日々の全部が消えていた。
──なんで? どうして……?
悲しい。つらい。苦しい。痛い。
涙なんて、止められるはずがなかった。
♬⋆.˚♬⋆.˚♬⋆.˚
その足で学校に戻ってきた私は、職員室に向かっていた。目的は、星野先生に会うこと。
涙のあとを隠して、私は真実に近づく扉を開けた。
「綾瀬……か? どうした?」
先生は一年のときの記憶を探るように、少しだけ目を細めて私を見た。
「先生……亮くんのこと、なにか聞いてますか?」
「佐久間のことか?」
「……はい」
亮くんの顔が浮かんで、涙がまた出そうになる。浅い呼吸が喉の奥で絡まって、声が震えるのを抑えきれない。
「概ね、みんなと同じだと思うぞ。事故に遭って入院、数日後には退院できるって」
「他に……ありませんか?」
「他?」
「夏休みのギターとか、文化祭、とか……」
私の言葉に先生の表情が一瞬だけ曇る。
その反応は、もう答えみたいなものだった。
「そうか……。相手は綾瀬だったのか」
「……え?」
先生は少し考え込むように眉を寄せ、ため息をついた。
「ここじゃ話しづらいな」
そう言って、先生は職員室から少し離れた小さな会議室へと案内してくれた。
♬⋆.˚♬⋆.˚♬⋆.˚
一枚の机を挟んで、先生と向かい合う。
「なにからどう話せばいいのやら」
先生の表情は柔らかかったけれど、それとは反対に言葉には重みがあった。
「その様子だと、綾瀬も佐久間の異変に気づいてるんだよな」
「……はい」
ぐっと息を呑んで、話の続きを待つように相槌を打った。
「俺も最初は、いつもの佐久間と変わらないと思っていた。だけど、話していくうちに気づいたんだ」
先生は眼鏡を直して、ふうとひと息つく。その仕草には、これから話す内容の深刻さが滲んでいるように見えた。
「六月頃から事故に遭う前までの記憶が抜け落ちてる。それも、ギターに関することだけ。俺が夏休み中にギターを貸したことも、オリジナル曲を作ったことも、全部覚えていなかった」
私の感じた違和感と先生の感じた違和感は、どうやら一致していたようだ。
そして、はっきりした。
──やっぱり、亮くんは私との記憶を失くしてるんだ……。
屋上も、私の歌声を褒めてくれたことも、夏休み中に会っていたことも、花火大会も、一緒に曲を作ろうと言ってくれたことも──全部。かけがえのない思い出の全部を、あの人は忘れてしまった。
いや、今の彼にとっては、最初から存在していないものなんだろう。
どうしようもない現実を受け入れたとき、意図せず涙がこぼれた。
「……あ、ごめんなさい。泣くつもりはなかったんですけど……」
先生の前で泣くなんて、小学生みたいで恥ずかしい。だけど一度あふれてしまった涙を止める術なんて、持ち合わせていなかった。
先生は何も言わずに机に視線を落としている。それが先生なりの優しさなのかもしれない。下手な慰めも、同情も──今の私には、なんの意味もないとわかっているんだ。
その代わりに、先生は私の気が落ち着くまで泣かせてくれた。




