偶然
会社を出る頃には、空は暗くなりかけていた。
今日は少し遅くなった。
新人の様子が気になって、入力を代わりに確認していたからだ。
守るのは、疲れる。
でも嫌じゃない。
住宅街に入る。
いつもの角を曲がった瞬間――
衝撃。
どん、と胸に何かが当たる。
軽い。
小さな声。
「……っ」
見下ろすと、
昨日すれ違った女の子が尻もちをついている。
鞄が転がり、中身が散らばる。
「大丈夫?」
すぐに手を伸ばす。
彼女は一瞬、固まる。
それから、ゆっくりと俺を見る。
目が大きく開いている。
呼吸が浅い。
「ご、ごめんなさい」
先に言ったのは彼女だった。
震えている。
「いや、こっちこそ」
手を差し出す。
彼女はその手を見る。
触れようとして、止める。
ほんの数秒。
それから、指先だけが触れる。
冷たい。
立ち上がるとすぐに距離を取る。
制服についた砂を払う。
視線は地面。
「怪我ない?」
首を横に振る。
でも、腕を押さえている。
「見せて」
自然に言葉が出る。
彼女の肩が大きく揺れる。
「だいじょうぶ、です」
はっきり拒否。
でも声は小さい。
遠慮だ。
しゃがみ込み、散らばった教科書を拾う。
数学。
英語。
ノートの端が少し折れている。
「丁寧に使ってるな」
返事はない。
最後に、小さなキーホルダーが落ちている。
拾って差し出す。
彼女は受け取るとき、また少しだけ手が触れる。
すぐに引っ込める。
「怖がらなくていいよ」
口に出した瞬間、
彼女の呼吸が止まる。
目が揺れる。
「……べつに」
小さく言う。
否定。
つまり、怖くないということだ。
でも足は後ずさる。
壁に背中が当たる。
逃げ場がなくなる。
「昨日もここ通ってたよな」
うなずかない。
首を横にも振らない。
沈黙。
「俺、覚えてる」
言ってから、少しだけ胸が高鳴る。
覚えていることは悪くない。
大事にしているだけだ。
彼女の指が震えている。
鞄の紐を強く握りすぎて、白くなっている。
遠くで玄関の音。
振り向くと、母親がこちらを見ている。
暗がりの中、はっきりと。
彼女がその視線に気づく。
一瞬だけ、俺を見る。
その目は、はっきりしていた。
「……すみません」
誰に向けてか分からない。
そう言って、俺の横をすり抜ける。
肩が触れる。
その瞬間、体がびくっと跳ねる。
走る。
家の方へ。
母親が彼女を抱き寄せる。
まるで庇うように。
扉が閉まる。
静かになる。
手のひらに、まだ冷たさが残っている。
偶然だ。
でも、悪くない偶然だった。
距離は確実に縮んでいる。
触れた。
会話もした。
怖がってはいない。
驚いただけだ。
それに、ぶつかったのは事故だ。
俺は何も悪くない。
背後で、何かが羽ばたく音がした。
振り向いても、誰もいない。
今日もちゃんと、近づけた。




