少しの不注意
朝、会社に着くと空気が重かった。
窓際にいるはずの新人がいない。
「遅刻か?」
独り言のつもりだった。
奥から小さな物音がする。
振り向くと、床にしゃがみ込んでいる。
「どうした」
近づくと、彼は腕を押さえていた。
シャツの袖が少し赤い。
「……大丈夫です」
声が震えている。
「大丈夫なわけないだろ」
袖をつかむ。
びくり、と体が強張る。
「見せろ」
「平気ですから」
少し強く引く。
布がめくれる。
細い腕に、擦り傷。
思ったより深い。
「ほら、言っただろ」
俺はため息をつく。
「ちゃんと気をつけないと」
彼はうつむいたまま小さくうなずく。
経理が席から立ち上がる。
「消毒、あります」
小さな声。
いつもよりゆっくりだ。
「ありがとう」
俺は新人の腕をつかんだまま、椅子に座らせる。
「動くなよ」
「……はい」
傷口に消毒液をかける。
彼は肩をすくめる。
「痛いか?」
「……少し」
「我慢しろ。これくらい」
手が震えている。
緊張しているんだろう。
「誰にやられた?」
沈黙。
視線が窓の外へ向く。
「上司か?」
昨日の叱責を思い出す。
あの圧。
あの目。
「……ちが」
かすれた声。
「言えないんだな」
俺は包帯を強く巻く。
「守ってやるから」
きつくなりすぎたかもしれない。
「苦しくないか?」
彼は何も言わない。
大丈夫、という意味だ。
そのとき、ドアが勢いよく開く。
上司だ。
低い声。
「何をしている」
「怪我です」
俺は新人の肩を抱く。
「ちゃんと管理してください」
上司が一歩近づく。
新人が体を縮める。
やはり。
「威圧するのはやめてください」
空気が張り詰める。
上司は何も言わない。
ただ鋭く睨む。
しばらくして去っていく。
羽音のような音がした気がする。
新人はまだうつむいたまま。
「怖かったな」
小さくうなずく。
「でももう大丈夫だ」
俺がいる。
午後。
新人はデスクに戻る。
キーボードを打つ音が不規則だ。
時々、席を立とうとする。
「まだ安静にしろ」
そう言うと、また座る。
言うことを聞く。
素直だ。
夕方。
経理がぽつりと言う。
「包帯、きついかもしれません」
「大丈夫です」
新人がかぶせるように言う。
ほら。
問題ない。
帰り際、床に小さな羽が落ちている。
白くて、軽い。
どこからだろう。
拾って、ゴミ箱に入れる。
今日も、ちゃんと守れた。
新人は弱い。
だから俺が必要だ。
それだけだ。




