少しだけ近く
朝は静かだった。
ネクタイを締めながら、鏡の前で軽く深呼吸する。
結び目は少し曲がっているが、直すほどでもない。
リビングに行くと、母が味噌汁をよそっていた。
「今日は帰り遅いの?」
「いや、たぶん普通」
「無理しないでね」
「してないよ」
そう言うと、母は少しだけ笑った。
家を出ると、曇り空だった。
隣の塀の前で足を止める。
「たける」
少し間があって、ひょこっと顔がのぞく。
「おはよう」
「……おはよう」
小さな声。
「今日は早いな」
「うん」
短い返事。
「ちゃんと朝ごはん食べたか?」
首を横に振る。
「ほら」
ポケットから小さなパンを差し出す。
彼は少し迷ってから受け取った。
「ありがと」
それだけ言って、また少し距離を取る。
「人見知り、直さないとな」
軽く笑うと、彼は困ったように視線を逸らした。
会社に着くと、新人が窓際で立っていた。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
今日は声が出た。
「早いな」
「……ちょっと、落ち着かなくて」
「慣れれば平気だよ」
デスクにパンを置く。
「朝食べてないだろ」
「え、でも」
「いいから」
少し間があって、「ありがとうございます」と言った。
その声は本当に小さい。
奥の席の経理がこちらを見る。
「おはようございます」
「おはよう。昨日の数字、どう?」
「まとめました。確認お願いします」
ファイルを差し出す。
指先が少し冷たい気がした。
「いつも助かります」
そう言うと、彼女は小さく笑った。
「いえ」
声はかすかだが、確かにある。
午前中は資料整理。
新人に説明する。
「ここはこうやって入力する」
「はい」
「焦らなくていい。間違えても大丈夫」
「……はい」
彼は何度かミスをする。
「すみません」
「大丈夫だって」
肩に手を置くと、少し強張る。
すぐに「ありがとうございます」と言う。
距離は、悪くない。
昼前、物音がした。
振り向くと、経理の椅子が倒れている。
「大丈夫ですか?」
近づくと、彼女が床に座り込んでいた。
「すみません、ちょっとバランス崩して」
「怪我は?」
「平気です」
手を貸して立たせる。
体は軽い。
「椅子、ぐらついてましたよ」
新人がぽつりと言う。
「ああ、直しておく」
そう言いながら椅子を戻す。
誰かがぶつかったのかもしれない。
気をつけないと。
午後、上司が現れる。
ドアが勢いよく開く。
「進捗は」
低い声。
「順調です」
新人が緊張している。
「報告は?」
「……まとめています」
声が震えている。
上司はしばらく睨み、俺を見る。
「指導は任せたぞ」
「はい」
その一言で、空気が少し重くなる。
小雨が降り始めた帰り道。
曲がり角の先で、
昨日すれ違った女の子が立ち止まっている。
視線は地面。
鞄の紐を強く握っている。
近づくと、彼女の肩がぴくりと揺れた。
「あ……」
小さく息をのむ音。
俺は足を止める。
「こんにちは」
少し間が空く。
彼女は一歩だけ後ろへ下がる。
濡れた前髪が頬に張りついている。
「……」
唇が動く。
声は聞こえない。
でもきっと、
“こんにちは”と返してくれている。
そう思うと、胸が温かくなる。
「傘、ないの?」
彼女は視線を合わせないまま、首を横に振る。
鞄を抱きしめる腕に力が入っている。
きっと、遠慮しているんだ。
「途中まで一緒に行こうか」
彼女はすぐに答えない。
通りの向こうを確認する。
家の方を見る。
それから、ほんのわずかにうなずいた。
怖がっているわけじゃない。
慎重なんだ。
真面目なんだな、と思う。
傘に入ると、彼女は端に寄る。
肩は触れない。
でもこれは、
距離を大事にするタイプなだけだ。
「学校どう?」
沈黙。
雨音。
彼女の呼吸が少し早い。
「……」
小さな声が聞こえた気がする。
“普通です”
たぶん、そう言った。
「嫌なことないか?」
今度ははっきり、首を横に振る。
違う。
これは“ない”の合図だ。
大丈夫だと言ってくれている。
「優しいですね」
――そう聞こえた。
実際には、彼女は何も言っていない。
ただ唇が震えただけだ。
でも、俺にはちゃんと伝わる。
言葉にしなくても分かる。
分かり合えている。
家の前に着く。
彼女は深く頭を下げる。
その動きは早くて、どこか逃げるようだった。
でもそれはきっと、
礼儀正しいからだ。
扉を閉める音が、少し強かった。
それもきっと、雨のせいだ。
悪くない。
昨日より、確実に距離は縮まっている。
彼女は慎重なだけ。
ゆっくりでいい。
守ってあげればいい。




