いない
朝。
ネクタイを締める。
少し曲がっている。
直さない。
廃墟ビルの扉を押す。
音が、やけに大きい。
「おはよう」
返事はない。
天井の梁。
灰色の影はいない。
羽も落ちていない。
床にパンくずもない。
何も残っていない。
窓枠を見る。
黒い影もいない。
静止した空気だけ。
「……会議か」
誰もいない空間に言う。
足音が響く。
やけに広い。
壁際。
白い顔の人形は、まだ椅子に座っている。
だが、倒れている。
横向きに転がっている。
片腕が外れている。
床に落ちている。
「……誰だ」
拾い上げる。
軽い。
埃が付いている。
「ふざけるな」
腕を差し込もうとする。
うまく入らない。
何度も押し込む。
うまくいかない。
白い顔は、何も言わない。
いつもなら、黙って笑っている。
今日は、ただ無表情。
「ちゃんとしろ」
声が少し荒い。
梁に向かって見る。
いない。
窓枠を見る。
いない。
ビルの奥に向かって叫ぶ。
「出てこい」
風が吹き抜ける。
鉄が軋む。
それだけ。
立ち尽くす。
会社はある。
建物もある。
席もある。
なのに。
誰もいない。
胸の奥が空洞みたいに軽い。
「……俺だけか」
その言葉が、やけに響く。
白い顔を椅子に戻す。
腕はつけられないまま。
無理やり膝の上に置く。
「問題ない」
言ってみる。
空気が動かない。
ここは会社だ。
上下関係があって。
指導があって。
評価がある。
あるはずだ。
なのに。
何も返ってこない。
静かすぎる。
昨日まで、確かに動いていた。
奪われた。
たけるも。
会社も。
奪われた。
「……残ってるのは」
ゆっくり目を閉じる。
浮かぶのは、二階の窓。
カーテンの隙間。
震える目。
あれだけは、まだある。
守るべきものが。
守らなければいけないものが。
立ち上がる。
ネクタイを締め直す。
今日は、早く帰ろう。
会社はもう、落ち着いた。
俺がいなくても、回る。
だから大丈夫だ。
守る仕事が、もう一つある。
それだけだ。




