こない
夕方。
路地は昨日と同じ匂いがする。
湿ったコンクリート。
ゴミ袋。
細い風。
「たける」
返事はない。
いつもの物陰を見る。
何もいない。
しゃがむ。
昨日と同じ場所に、餌を置く。
「もう怒らない」
小さく言う。
静かだ。
遠くで車の音。
どこかの家のテレビの笑い声。
ここだけ、空白みたいに静か。
「たける」
少しだけ声を強める。
出てこない。
昨日の光景が浮かぶ。
小さな体。
落ちる音。
違う。
あれは事故だ。
俺は悪くない。
立ち上がる。
路地の奥まで歩く。
段ボールの裏。
室外機の隙間。
いない。
「……連れて行ったな」
誰が?
母親か。
保護しただけだ。
保護。
守る。
守るのは俺の役目だ。
壁に手をつく。
冷たい。
地面を見る。
小さな足跡は、もうない。
昨日の雨で消えたのか。
いや。
消された。
胸の奥がじわじわ熱くなる。
俺が世話していた。
俺が抱いていた。
俺が落ち着かせていた。
それなのに。
奪われた。
「……勝手に」
風が強く吹く。
置いた餌が転がる。
拾い上げる。
握る。
潰れる。
粉が手に付く。
遠くで窓が閉まる音。
見ている。
向かいの二階。
カーテンは閉じている。
でも気配はある。
あいつも。
何も言わないくせに。
怖いと言って。
奪って。
俺は間違っていない。
守っていただけだ。
静かにするために。
安心させるために。
たけるは今、どこにいる。
狭い箱か。
知らない家か。
震えているかもしれない。
俺がいないから。
「……俺がいないと」
喉の奥がひりつく。
路地の奥がやけに暗い。
空っぽ。
何もない。
初めて気づく。
ここには、もう誰もいない。
俺だけだ。
ゆっくり振り向く。
向かいの家。
二階の窓。
あそこに、まだいる。
守るべきものが。
一つだけ。
「大丈夫だ」
誰もいない路地で言う。
「今度は、ちゃんとする」
風が止む。
静寂。
足音だけが響く。
帰り道が、少しだけ短く感じた。




