呼び声
夕方。
会社の帰り道。
足取りは少し早い。
理由はない。
路地の奥。
いつもの場所。
「たける」
呼ぶ。
少し間があって、物陰から顔を出す。
痩せた少年のように見える。
細い体。
左耳のあたりに小さな傷。
目は警戒している。
「今日は遅いな」
たけるは近づいたり、止まったりを繰り返す。
距離を測るみたいに。
しゃがむ。
手を差し出す。
「大丈夫だ」
少し考えるように首を傾けてから、そっと近づいてくる。
指先が触れる。
冷たい。
「……怪我、まだ痛むか?」
たけるは目を細める。
何も言わない。
でも体は少し強張っている。
昨日よりも歩き方がぎこちない。
後ろ足をかばうように。
「逃げるからだ」
優しく言う。
責めてはいない。
事実だ。
そっと背中を撫でる。
骨が浮いている。
毛は少し逆立っている。
「落ち着け」
たけるが小さく声を漏らす。
人の言葉にはならない。
腕の中に抱き寄せる。
最初は抵抗する。
すぐに動きが大きくなる。
「大丈夫だって」
少しだけ力を強める。
暴れなくなる。
呼吸が早い。
胸が小刻みに上下している。
「ほら」
ゆっくり撫でる。
何度も。
そのうち、動きが止まる。
落ち着いた。
「いい子だ」
たけるは目を逸らす。
路地の奥を気にしている。
遠くで足音。
誰かが通る。
たけるの体が一瞬こわばる。
「怖くない」
口から出る。
自分に言っているのかもしれない。
“怖いです”
あの声が、ふっと混ざる。
違う。
怖いのは、外だ。
だから守る。
「俺がいる」
たけるをもう一度抱き直す。
少し強く。
細い体がきしむ。
「逃げるな」
小さく言う。
たけるの爪が、腕に食い込む。
でも離さない。
しばらくして、力を抜く。
地面に下ろす。
たけるはすぐに距離を取る。
振り返る。
目が合う。
そこにあるのは信頼だ。
……たぶん。
「また来る」
たけるは答えない。
暗がりに溶けるように、姿を消す。
路地に一人残る。
腕に細い引っかき傷。
血が滲んでいる。
「しつけだから」
小さく呟く。
風が吹く。
遠くで、誰かの家のドアが閉まる音。
胸の奥が、また少しだけざらつく。
でも問題ない。
まだ、問題ない。




