出社
朝。
ネクタイを締める。
少し曲がっているが、結び直す。
鏡の中の自分は、いつも通り会社員だ。
廃墟ビルに入る。
鉄の扉が重く鳴る。
中は冷たい。
「おはよう」
声をかける。
天井の梁のあたりで、小さな影が揺れる。
落ち着きのない新人は、いつもそこにいる。
今日は姿がはっきりしない。
床を見る。
昨日渡したパンくずが散らばっている。
いくつかはなくなっている。
「来てはいたんだな」
返事の代わりに、ぱさ、と音がする。
高いところで何かが移動する気配。
上司は突然来る。
黒いコートのような影が、窓枠に止まることがある。
今日も外の縁に黒い影が見える。
じっとこちらを見下ろしている。
「おはようございます」
鋭い鳴き声のような音が、風に混じる。
叱責の合図だ。
新人の“席”の近くに、灰色の羽が落ちている。
細くて柔らかい。
拾い上げる。
「無理するなって言っただろ」
天井近くで、ばさばさと不安定な羽音。
すぐに止む。
階段の踊り場に、引きずったような細い跡。
足跡にも見えるし、何かを擦った跡にも見える。
「……怪我か?」
答えはない。
奥の壁際。
経理は今日も椅子に座っている。
白い顔。
丸い目。
いつも同じ表情。
だが、少し横に傾いている。
「ちゃんと座れよ」
そっと体を起こす。
軽い。
背中は冷たい。
埃がついている。
払ってやる。
彼女は何も言わない。
でも、責めない。
いつもそうだ。
「報告する」
椅子に腰かける。
天井で、黒い影が一度だけ大きく羽ばたく。
新人が慌てて飛び立つ音が重なる。
ぶつかる音。
何かが落ちる。
思わず立ち上がる。
「落ち着け!」
声がビルに反響する。
階段を上がる。
踊り場。
灰色の羽が数枚。
窓が半分開いている。
外の光が差し込む。
縁に黒い影が止まる。
こちらを見ている。
「追い込むなよ」
小さく言う。
黒い影は、低く鳴くような声を残して飛び立つ。
静かになる。
遠くで、新人の弱い羽音。
飛び方が不安定だ。
「飛べるだろ」
自分に言い聞かせるように。
下の階に戻る。
経理は微笑んでいる。
何も変わらない顔。
「問題ない」
風が吹き抜ける。
紙切れが転がる。
羽が揺れる。
人の声は、ほとんどない。
でも会社は、ちゃんと動いている。
俺がいるから。
……いる、はずだ。




