第八章 破門
修練所に通い始めて二週間が過ぎた。
一般教養部門はもちろんのこと、政治科でも青科でも、一平は注目の的だった。まずはそのガタイが人々の目を引くわけだが、飲み込みの早さと人柄とで感心と信用を集めた。
政治科で学ぶことは一平の知りたいことばかりだったし、青科という青の剣の守人希望の者ばかりが集まる特殊な科においては、新入りにして既に一平のレベルはかなり上位に食い込むものだった。
青科で学ぶということはトリトニア軍に籍を置くことでもある。青の剣の守人が武の頂点に立つ者なのだから当然だろう。但し、初めのうちはまだ見習いのようなもので、折々の試験に合格して初めて階級を得、同時に正式なトリトニア軍の兵士の一員となることができる。出世をして一定の階級以上にならなければ、青の剣の守人に立候補する資格も得られないのだ。
だが、一平は入所に伴って行われた試験で既に一足飛びに三階級をスキップし、兵長にまでなっていた。大剣が扱えるということは、それだけで十分に人の上に立つ資格があると見做されるのである。
ただ馬鹿力があるだけでは大剣は使いこなせない。危険の程度によって得物の選び方も使い方も変わってくるのだから、適切な判断を下す力や素早く敏捷に立ち居振る舞うための勘、ひいては一寸先の出来事を予測する力までもが必要とされるからだ。
ムラーラのミラの元で身に付けた能力は、旅の間だけでなく、ここトリトニアでも、一平の生き方に大きく影響を与えていた。伸び盛りの才能は今まさに花開かんと手ぐすね引いて持ち構えていたかのように、一層磨きをかけられていった。
青科ではミカエラが講師としてやってくる。本職が別にあるので教授ではない。主に守人としての心構えや体験談などの講師と、節目ごとの実技試験の試験官を担当している。
初めて教授を受けた時、ミカエラは個人的に一平の元へやってきた。父のラサールのことを懐かしげに話してくれて、思いもかけず嬉しかった。また、ミカエラを身近に感じることができて励みにもなった。実際、現時点で一平は軍曹にまで昇格していて、トリトニア軍の兵士として給料まで貰える身となっていた。
給料を初めて貰った晩、一平はパールとその一家に何か心ばかりのものを、と考えに考えて、皆の好きな蛸を調達してプレゼントした。パールにはきれいな貝の飾り物を見つけてきて、寛ぎの時間に渡そうと思っていた。
一平がプレゼントの包みを手に三の庭にやってきた時、パールはまだ来ていなかった。
ここへ来てまだひと月も経たないが、こういうことは珍しかった。いつだって、大抵はパールの方が早いのだ。夕餉を共にした後は、一平が国王夫妻に呼び出されたり、パールが手習いに拘束されていたりする時以外は、三の庭で一緒に過ごすことに決めていた。そのひとときを、パールは一平以上に楽しみにしていたのだ。
そして一平は、そんなパールの姿を三の庭に見出すことを密かに楽しんでいた。
だが、今日はそのパールの姿がなかった。
ちょっと不審に思い、がっかりしながら待つこと五分余り。ようやく現れたパールは元気がなかった。
開口一番、彼女はこう言った。
「パールね…破門されちゃったの…」
「破門…だって⁉︎」
突然の凶報に一平は眉を顰めた。
破門とは穏やかではない。破門とは門下生であることを外されるということだ。職場で言うなら馘首のことだ。
夕餉の時にはそんな様子は微塵も見られなかった。パールはそんな重大なことを素知らぬ顔で隠し通せるような娘ではない。伝令が知らせを持ってパールの元を訪れたのだ。おそらくは、夕餉の終了直後に。
「一体なぜ…」
素行や業績が悪いというのなら頷ける。だが、パールの歌は超一流だ。態度だって、幼い面はあるが、一応令嬢らしい礼儀作法ぐらいは弁えているし、言葉遣いや振る舞いが悪いわけでもない。どういう理由があればそんなひどいことができるのだろうと、よく調べもしないうちから一平は憤っていた。
「パールがいると、授業にならないんだって…」
「だからなぜ?」
パールがしょんぼりと説明しているのに、力づける余裕もなく、一平は声を荒らげる。
「パールが歌うと困るんだって…」
一平が怒っているので、なおさら悲しくて、パールはもう泣きそうである。
「歌う勉強に行ってるんだろうが!」
「だって…だって…みんな眠くなっちゃうの」
「…あ…」
「尊師も、生徒も、パールも、みぃんな…。気がつくと、もう次の授業の時間になっちゃってるの」
一平はよく知っていた。パールの歌にそういう効果があることを。健康な者には快い眠気を導き出し、寛がせる力があることを。
身の危険を心配しなくてよい、ここトリトニアへ着いてから、そのことを忘れていた。平和な生活にどっぷり浸かって、大きな怪我をすることもなく、具合の悪い生き物に会うこともなく、従ってパールがその癒しの力を発揮する場はまずなくなっていたから。
修練所で学ぶ科目を何にするかを選ぶ時にも、パールはただ純粋に好きな歌をもっと上手に、思うように歌いたいと、ただそれだけを選ぶ基準とした。
「パールだけじゃないの。パールも寝ちゃうんだけど、他の人も寝ちゃうから。みんなの勉強する大切な時間を、パールが奪っちゃってるんだって…。パール…みんなに迷惑かけてるの…」
滲み出る涙を拭き拭き、パールは言った。
入所してしばらくは実技がなかったので、今頃になって問題になったのだろう。パールの歌の効用を知っている者は厳密に言えば一平だけで、家族すら話には聞いていても、実際にどの程度のものなのか、明確には把握していなかったのだ。
「それは…教授に言われたのか?」
「…うん…」
言いたくなさそうだったが、嘘のつけないパールは返事をしてしまう。
(理不尽な…)
一平は思ったが、どうしようもない。
パールのその力は決して悪しき力ではない。怪我や病気を治し、心の傷をも癒す偉大な力だった。滅多に生まれ持つことのない、神秘の力だった。それなのにその力が仇になるとは…。
パールはずっと自分を卑下していた。身体が弱いこと、小さいこと、思うように生活ができないことは、外見も中身も成長する機会を逸することに繋がる。それ故のコンプレックスがパールにはたくさんあった。そんな中でただひとつ、パールの誇れることは、歌うことしかなかったのだ。
幼い中にも研ぎ澄まされた天性の響きを持った声。
それに一平は魅せられ、ストレートに感動を伝えて少女に自信をつけさせた。
一平自身は気づいてはいないが、そのことがパールの小さな力の可能性をぐんぐん引き上げて行ったのだ。確かにパールの力は以前より格段と強まっていた。三分も歌い続ければ、誰もが例外なく睡魔の底に引きずり込まれてしまうくらいに。
教授にしても、そうするしか道はなかったのだろう。
いかに一生徒だとは言っても、修練所では誰しも平等だとは言っても、バールは王女なのだ。破門の通告などして国王の怒りを買っては己の不利益になることは否めない。それでもなおかつ、そうせざるを得ない状況になっているのだという想像は容易にできる。教授にとっては授業妨害であり、生徒たちにとっては、勉学の機会の損失なのだ。
パールだってそのことはわかっている。わかっていてこぼしているだけなのだ。一平に訴えて何とかしてもらおうと思っているわけじゃない。ただ、ひとりでは堪え切れないので、慰めてもらいたいだけなのだ。
一平は黙ってパールを抱き寄せる。
ふんわりと。
髪を撫で付け、よしよしする。
抱き寄せられて、パールの身体の力が抜ける。
一平の胸は暖かい。一平の胸は優しい。一平の胸は気持ちがいい。
そしてさらに、一平は小声で優しく呼びかける。
「ボクは…パールの歌が好きだ。大好きだよ…」
(一平ちゃん…)
「迷惑だなんて言う奴には聴かせてやることなんてないさ」
(一平ちゃん…)
「いいじゃないか。…本当はボクだって誰にも聴いてもらいたくなんかないんだ。ボクだけのために歌って欲しいよ…」
(一平ちゃん…)
一平の声にこそ、パールを安らがせる力があることを、彼は知らない。
そうするしか策がないので無意識にしているだけだ。
でもそれだけで、パールの小さな胸はいっぱいになる。
―うん…うん…―と、パールは心で思う。
これからは一平ちゃんのためだけに歌うよ、と。
「そうだ!」
急にパールは思いついた。
「医科があったよ。一平ちゃん、パール医科に行く」
「え?」
あまりに唐突だった。
「そうだよ。なんで気づかなかったんだろう。パールのこの力はお医師さまの仕事だよね?医科に行けばもっとよく身体のことがわかるし、他の人の役に立てるよ。お師匠さまに教わったことをもっと詳しく知ることができるよ。きっと」
うん、うん、そうしよう、と喜ぶパールを、一平は呆気に取られて見ていた。
なんて立ち直りの早い…。
破門されちゃったの、とめそめそ泣いていたのは二、三分前のことなのに、この変わり身の早さはどうだ?
「ねえ⁉︎、一平ちゃん」
同意を求めて振り向いたパールの瞳がキラキラと輝いていた。
一平はあまり賛成ではなかった。
ムラーラでメーヴェの元へ通っていた時も、できればそんなことをして欲しくなかった。パールの身体のことを心配したのだ。ただでさえ身体が弱いのに、パールはすぐ無理をする。調節がうまくできない。あの頃は大事件があったせいもあって、それまでになくパールは頻繁に倒れた。
神獣に執刀してみて、医療行為がいかに神経をすり減らす行為であるかということを実感している。このあまりにも華奢でか弱い少女には荷が重過ぎると思うのだ。
修繕所の専門教育課程は、技を突き詰めて探求するところだ。仮にも王女という身分の者が、わざわざのめり込んで習得することもないような気もする。
だが、パールは輝いている。新しい道が開けてとても嬉しそうだ。
ムラーラの時もそうだった。あの時の大義名分は一平のためだった。度々命に関わる怪我に至る一平の助けになりたいがために、パールはメーヴェの下について勉強したいと主張したのだった。
毎日新しいことを覚え、できることが増えていく度、パールは生き生きと一平に報告した。
練習台にさせられることは日常のことで、幾度となく一平はまごつかされた。
だが、それも楽しくもあった。今にして思えばいい思い出だ。
その頃のパールを彷彿とさせる様子が今のパールに見られる。
先ほど破門を言い渡されてあんなに落ち込んでいたのに、もうすっかり忘れてしまったかのようにはしゃいでいる。
悲しい事は早く忘れてしまうに限るというのがパールの処世術だった。伏せることの多かった身には、考え、思い煩う時間はありすぎるほどだ。そんな時いつまでも負の感情を引きずっていては良くなるものも良くならない。そういうことを身体が自然に覚えてしまったのだ。
何はともあれ、パールの気持ちが前向きになったのは喜ばしいことだ。医科での勉強が夢中で打ち込めることになるのならそれもいいかもしれないと、パールの笑顔を見て一平は思った。彼女にとって荷が勝ちすぎるようであれば、やめさせるのはそれからでも遅くはない。
今現在の希望に満ちたウキウキした心に水を差すことはない。
一平は言った。
「じゃあ…申し込んでみるか?その前に王さまたちにも相談しないといけないし、今夜のうちに許可をもらって、明日一番で手続きに行こうか」
「うん!」
真摯で無垢な瞳が満面の笑みの中でひときわ輝いた。
翌日、医科での手続きのため修練所に入ろうとした一平とパールの二人は、偶然エスメラルダに出食わした。
「あら…」エスメラルダは級友であるパールを無視し、一平の方だけにお辞儀をした。「ご機嫌よろしゅう、一平さま。一体どうなさいましたの?今日は青科は休講と窺っておりますけれど⁉︎」
「よく…ご存知ですね…」
既に一平はエスメラルダのことを見知っていた。パールに紹介されたわけではない。あの翌日、エスメラルダは一般教養課程の講義室にまで出向いて行って、自分から声を掛け、近づきになろうと画策したのだ。それ以来、何とかもっと自分を印象づけようと、またライバルと見做すパールのことを蹴落とそうと、あの手この手で自分を売り込んでくる。修錬所を一平と接触できる唯一の機会と捉えて、自分には関係のない青科や政治科、果ては一般教養課程のクラスの時間割まで調べて会える機会を捻出しているのだ。
一平はそういうことに関しての勘は鋭い方ではなかったが、これだけあからさまだと気づかないわけにはいかない。
第一に王女であるパールを平然と無視できる神経そのものが不快だったし、こういう積極的なアプローチをしてくる女性に好感を持てない質でもあった。海人の男としては些か奥手過ぎると言ってもいいほど女性経験がない。それに自分のことを朝から晩までつけ狙われていい気持ちでいられる人はそうはいないだろう。
そういう身勝手を通してしまう性格には、エスメラルダの身分というものが関係していた。彼女は王族の血を引いていたのだ。
トリトニアの国王は基本的には世襲制だが、もう一つ条件がある。赤の剣の守人として認められなければならないのだ。第一王位継承権を持つ者が守人に選ばれなかった場合は、第二第三の継承権を持つ者が試される。現国王のオスカーは前回の宣旨が降りた時、第六番目の継承権しか持っていなかった。前国王の嫡子ではなかったのだ。そしてエスメラルダの父は第三王位継承継者であった。身分的には下の者が五人の人間を飛び越して王位に就いたのだ。しかも、十四歳という異例の若さで。
トリトニアではよくあることだが、五人を廃して、ということは近来稀に見る大判狂わせで、十四年前、トリトニアの王宮は紛糾を極めた。
その遺恨が現在も残っているということだ。世が世
なら王女と呼ばれたのはエスメラルダであったかもしれないと、彼女は小さい時から母に聞かされて育ったのだ。どう見ても自分より優れているようには見えないパールが、王女であるだけではなく、幼い頃から憧れていた『勇者』に求婚されているという事実がどうしても許せなかったのである。
トリトニアのみならずポセイドニアには勇者の伝説は数多い。世代世代で現れる『勇者』と呼ばれる人間は、その偉業の内容こそ違え、いずれも勇敢で雄々しく、人々の称賛と憧れを一心に集める存在であった。 人々は幼い頃からそれらの伝説を耳にし、耳にタコができるほど聞かされて育つ。エスメラルダもその例に漏れずそうだった。おまけに誕生した時、『この子は、いずれ勇者と薄からぬ縁を結ぶだろう』と占われてしまったのだ。『薄からぬ縁を結ぶ』ということを『結婚して子どもを設ける』と理解して有頂天になったエスメラルダの両親は、娘にもそのように告げてちやほやと娘を育てた。
そうして育ったエスメラルダがパールに対して敵愾心を燃やすのは、当然と言えば当然だったかもしれない。パールにとってはいい迷惑だ。
「ほほほ…一平さまのことでしたら私、どんな小さなことも見落としませんわ。だって、未来の妻ですもの」
一平にとってもいい迷惑だった。そういう大事を一方的に決めつけられては困る。彼にはその命を捧げても惜しくない大事な女性が既にいるのだ。
一平の傍らでパールも固まる。思って思って思い続けて、やっと叶った己の願いを、手に入れかけている望みの場所を、エスメラルダは遠慮会釈もなしに脅かしているのだ。
パールの動揺を感じ取った一平は言う。
「申し訳ないが、その話はオレには寝耳に水だ。オレはこのパールに求婚している。はっきり言って、あなたを妻にする気はないと申し上げなければならない」
こうまではっきり断っても、エスメラルダは怯まなかった。
「今はね。でもまだ宣旨は降りていませんわ。一平さまの希望が叶わないことだって可能性としてはかなりの割合でありますのよ。その場合陛下のお許しだって出るかどうか…。私は諦めずにお待ちしますわ。幼魚では子どもを産むこともできませんのよ。その辺をよくお考えになって。私ならいつでもオーケーですから」
妖艶とも言える秋波を飛ばし、エスメラルダはその肢体を誇示するように、一平にしなを作って見せながら去っていった。
「あの野郎、最初から最後までバールを無視しやがって」
いつになく乱暴な言葉を使う一平を驚いて見上げ、それでもパールはエスメラルダを庇った。
「エスメラルダは一平ちゃんがとっても好きなんだよ。パールの出来が悪くて釣り合わないから腹立たしいんだよ。きっと」
「だからといって人の心を傷つけてもいいのか?一口に王族といってもぴんから切りまであるんだな。おまえの両親とはえらい違いだ。それに…」一平はパールの前に屈み込んで正面から顔を見つめた。「自分のことを出来が悪いなんて思うな。おまえには他人にはできない素晴らしい才能がある。他のことで同い年の奴より遅れていようと、そんな事は関係ない。オレは今のおまえそのものが好きなんだから」
(…一平ちゃん…)
「成人できない人魚なんていやしないさ。あまり早く大人になられても、オレの方の準備が追っつかなくなるしな」
一平の優しい慰めがパールの心を揺さぶる。涙が出てきそうだ。
「泣くな。しみったれた顔で手続きしなきゃならなくなるぞ。幸先が悪い」
「…うん…」
ぎこちない笑顔を浮かべ、パールは頷いた。だが、ふと思い出したように尋ねた。
「一平ちゃん、なんかいつもと違ってたよ。ちょっと怖かった」
「そうか?そう思ってくれたなら、成功かな。エスメラルダに嫌われるように少し高飛車に出てみたんだが…」
「『オレ』なんて言ってたっけ?自分のこと」
「青科で必要なんだ。言葉遣いひとつでも士気の高揚に影響するんだってさ。だから心掛けるようにしてるんだが、自然に出てきたとなると少しは身に付いたのかな?」
「ふーん…」
「なんだ?」
思うところがありそうなパールの応えが引っかかった。
「ちょっと、一平ちゃんじゃないみたいだった」
「…嫌か?嫌ならおまえの前では使わないようにするが…」
「ううん、そんなことないよ。オレでもボクでも一平ちゃんは一平ちゃんだよ。パールは好きだよ」
「そうか…」
「うんっ」さっきよりは元気な笑顔を浮かべ、パールは一平の腕を引っ張った「ね。行こう。遅くなっちゃった」
「ああ、そうだな」
二人は当初の目的を果たすべく修錬所の出入口を潜った。




