第七章 守人二人
「久しいな、ミカエラどの」
オスカーの私室を訪れていたのは一平に勝るとも劣らぬ大男であった。ごつい体格の者の少ないトリトニアには珍しい。
顔や首だけを見ても、その下の筋肉が隆々と盛り上がっているのがわかる。いでたちも勇ましく、武人のそれであった。背には大剣、腰には中剣を佩いている。
名をミカエラと言った。
トリトニア王国の現青の剣の守人である。
オスカー王の命により、トリトニアの北部、ガラリアとの国境付近での小競り合いを収めるため、右宮を空けていた。
右宮と言うのは、王宮の右側の宮、青の剣の守人が住まい、職を兼ねるところだ。反対側の左宮には、白の剣の守人が起居している。赤の剣の守人である国王一家は、真ん中に当たる正宮に身を置いているのだ。
地続きの建物を住まいとするため、顔を合わせる機会は多くなる。国の三大柱であるのでそれも当然だが、それぞれ下に組織を抱えているので終始一緒に、というわけにはいかない。特に公務は頻繁だが、私的な交わりとなるとなかなか時間が取れないものである。
国境付近の報告は帰ってすぐなされていたが、後始末等の雑務があり、ミカエラはやっと自由になった身を旧知のオスカー王と寛ぐために、王の私室を訪れていた。
太っ腹でざっくばらんな性格のオスカー王には私的な友が多いが、オスカー王の私的な空間は王宮の中でも赤の剣の保管場所に最も近いところである。無闇と他人を寄せ付けるわけにはいかないので、そのほとんどは、王自ら友人の元へ出向くことで友好関係を深めていた。王自ら王宮のエリア内に招き入れる事はごく稀である。
「たまには共に飲み交わさねば忘れられてしまいそうなほど忙しそうですからな。このしがない旧友のため、しばしのお時間を頂戴できますかな⁈」
ミカエラは隠しから二匹のウミヘビを取り出して見せた。
既に息はない。ウミヘビの血を口から絞り出して交互に飲み合うのが、ここトリトニアでの酒の飲み交わし方だ。地上でマムシの生き血を精力剤として飲用するのに似ていた。
「無論だ。ちょうどおぬしと話したいと思っていたところだ」
「ほう…。奇遇ですね」
半分は社交辞令だろうと思いながらも、ミカエラは目元を綻ばす。
そうして笑うと、その場の和む雰囲気を醸し出す男だった。ひとたび武具を持てば不敵な笑いを口の端に浮かべる有能な戦士だったが、宝剣を預かるものだけあって、心の広さを感じさせる。
「某にも少々嬉しい…というか、心中複雑な出来事がございましてな。ぜひ王にもご意見を頂戴したい」
「まあ、掛かけるがよい。今日は二人だけで飲み明かそう」
つまみを少々都合させてからは、オスカーは一転して打ち解けた様子になった。下働きの者に対しても国王としての仮面を被り続けなければならない彼の変わり身の素早さにはいつも敬服する。ミカエラとて、青の剣を預かる右宮の主であり、ある程度は威厳というものを保つべき立場にあるものの、この王には及ばない。
ミカエラに対する態度ですら、きっとまだその下に何枚もの仮面を被っているのだ。本当の素のオスカーの姿を知っているのは、おそらく愛妻のシルヴィアだけなのだろうとミカエラは思った。
「…どんな、嬉しいことがあったのだ?」
オスカーが先に口火を切る。
「ああ、実は…」ウミヘビの顎を開いてオスカーに手渡し、ミカエラは話し始めた。「久しぶりに修練所に顔を出してきたら面白いニュースが聞けた。最近青科に入所してきた男に変わった名前の奴がいてな。イッペイと言う。トリトニアではついぞ聞かん名だと思ったら、どうやら他所から移り住んだらしい。言葉に不自由はないのだが、生活習慣にいまいち慣れていないのと、思わぬところで無知だったりする変な奴な
「ふむ…」
オスカーは面白そうにいたずらっぽい光をその瞳に浮かべた。
「が、学習意欲は人一倍あるし、物覚えもいい。体格も立派な上に顔もいいんだ。修錬所では他の科の女の子たちにモテモテらしい」
「なるほど…」
「性格も出すぎず、控えめで礼儀正しい。腹を立てたところなど見たことがないほど穏やかだが、ひとたび剣を持つと凄いんだ。これが」
「ほう…」
「基本はできてるんで上達も早く、教え甲斐がある。狙いが性格で剣圧も強い。若い分オレなんかより動きが敏捷だ」
「それはすごい」
オスカーは身を乗り出して大きく頷いた。
「王と違って、オレはもう三十七だ。そろそろお迎えが来ることを考えちまう年だ」
「なんの。とても三十七には見えぬぞ」
「身体は日々鍛えているからな。そう簡単に逝くつもりもないが、代替わりのことを本気で考え始めんといかんと思う」
「そうは言っても、私らが決めることではないからな。すべてはトリトン神のお導きの下でだ」
国の主導者、三つの宝剣の守人たちは世襲でも選挙でもなく選ばれる。交替の時期はトリトニアの守護神トリトンより神官の宣旨を通して人々に伝えられ、試儀によって選ばれる。
候補者を選ぶのは修練所の教授たちだが、真の守人となれるのはただ一人、神の許可を得たものだけがなれるのだ。厳しい試練を経て後、トリトン神に受け入れられた者だけが、宝剣に触れられ、所持することができる仕組みになっていた。
だから、いくら現守人が役職を降りたいと思っても、こいつを後継者にと思っても、それが罷り通る事はない。ただ神の宣旨を待つしか方法はなかった。
「オレも少し長くのさばりすぎた。宣旨が降りるのを今か今かと待ち構えて励んでいた奴らも、もう齢を重ねて他の職に就いている。新人たちも、もう新人とは言えぬほど待たされて諦めてしまった者ばかりだ。若者たちはと言えば、技量が未熟すぎる」
「それは言えるな…」
「今日明日でなくとも、近いうちに宣旨が降りた場合に推薦できるような奴がいないのだ。これは問題ではないか?」
「ところがいた、と⁈」
「いかにも!」
ミカエラはオスカーの指摘にポンと手を打って答えた。
「オレの目に狂いがなければ、あいつは絶対トリトニア一になれる。若造だから当然まだ貫禄もないが、筋がいい。あの雰囲気がいい。涼やかで穏やかな気風がさわさわと漂っているのに、勝負となると別人のように引き締まる。身体中に目がついているかのように隙がない。敵対した相手が例え誰であっても怖気づかない、真の勇気を持った者の目をしているんだ」
ミカエラの口調が熱い。
「まるで、おぬしのことを褒めそやしているように聞こえるぞ」
水を差したくなるオスカーは国王とは思えぬほどお茶目だ。だがミカエラは気にしない。いや、気に止まらないのだ。
「オレとは違う。一平の戦いぶりを初めて見た時震えが来た。伝説の勇者ヴァーンの話を思い出した。イメージが重なったんだ。ヴァーンの姿が一平の姿にダブって見えた気がした」
「一平と言うのか。そのおぬしの惚れ込んだ男は」
「あ…あ。言ってなかったかな?最初に説明したと思ったが…」
「いや、確認しただけだ。…そうか…」
「王⁈」
オスカーの口調に何かを感じ取り、ミカエラは訝しそうな目を向けた。
「…その者は、ラサールの忘れ形見だ。ミカエラ」
「ラサール⁈」
ミカエラの声は太く低い。そして大きい。
「ラサールって…あの?…あの、ラサールか?」
「そうだ。トリトニア軍一と言われた槍の使い手、槍将ラサールだ。一平は遠い地で奴が設けた一粒種だ。日本人という、地上の民との間にできた息子だ」
「……」
ミカエラは溜飲を下した。初めて会ったような気がしないのは誰かに似ているからだとは思っていたが、それが誰なのかを、今まで彼は思い出せずにいたのだ。それがやっとわかって、胸がすっきりとした。それと同時に懐かしさが込み上げる。ラサールはミカエラとは同年代、共に同じ釜の飯を食ったこともある、気の合う仲間の一人だったのだ。オスカーよりも付き合いは古い。
「一平の髪は黒いだろう?ラサールよりも黒い。奴の母親も、黒髪、黒い目の一族だったらしいから、そのせいだろうな」
ぼんやりと言われるままに聞きながら、ミカエラはふと疑問に思った。
「王…。あなたは…知っておられたのか?あの若者を。一平と名乗る、他所から来た男のことを?なぜそんなにお詳しいのです?」
「あれは…」
オスカーは言いかけて口を噤んだ。だが、意を決したように続けた。
「私はあの男を娘婿にと考えている」
「娘婿?」
ミカエラの驚きはさっきの比ではなかった。
「…パールティア姫の?…でも、姫はまだ…」
パールの帰還はミカエラの留守中の出来事だった。伝令で情報としては入ってきていたし、帰ってすぐの謁見の時にも王には確認と喜びの言葉を述べてある。だが、肝腎のパールとはまだ再会を果たしてはいなかった。修練所で勉学中だったからだ。
十三になったと聞くが、まだ成人には達していないはずだ。おまけに病弱で、見た目も中身もひどく幼いというのは国民の誰もが知っている話だった。もちろん、ミカエラはかつて何度か会ったことがある。当時も同年齢の子どもに比べて恐ろしく幼く映った。三年の年月が経ったとは言え、子どもの頃のイメージが早々激しく変わるものではないと、今までの経験からミカエラは知っている。おそらくらとても結婚相手をあてがうという考えが思い浮かぶような娘ではないだろう。
だが、その子どもそのものの王女に、この王はあの存在感のある大男を娶せたいと言う。俄かには信じられぬ。
「おぬしの言いたいことはわかる。だがな、ミカエラ。人は見た目ではないぞ。子どもはいつまでも子どもではない。あれでもパールティアはちゃんと恋をしている。それも真剣に。あの男のことしか頭にないくらいに」
(恋⁉︎)
(…そんな…一体どこで⁉︎…)
そうか、とミカエラは腑に落ちる。
「姫を…護衛して連れ帰った勇者というのはもしや…」
「一平のことだ。彼はパールティアの恩人だ。そして奴の方も、娘のことをこれ以上ないほど大切に思ってくれている」
一平が時折見せる優しげな表情。その視線の先にいたのはパールティア姫だったのだと、ミカエラは今悟った。
「…意外か?」
オスカーが訊いた。
「そりゃもちろん…」全然話が結びつかない、と言おうとして、はたと思い直す。
「…似てますね。空気が…。気がつかなかったが、言われてみれば、ぴったりだ…」
「そうだろう?」
我が意を得たりと微笑むオスカーを、ミカエラは不思議に思った。
「…そんなに…嬉しいもんですか?最愛の娘に男ができたことが?普通は頭から角出して、湯気立てて、怒りまくるものなんじゃありませんか?」
「あの男なら、話は別だ。話をふっかけたのは私の方だからな」
「なんと!」
「もちろん二人の気持ちが手に取るように見えたからだが、私もあの男に惚れたのだ。おぬしと同じく、このトリトニアを背負って立つ、ただ一人の男になれると睨んだ。いくらパールが熱を上げていたとしても、一介の風来坊、身元も知れぬ無能のただ人にほいほい娘をやるほどお人好しではないさ」
「そりゃあまあ…」
「奴はパールを諦めようとさえしたのだ」
「は?」
「自分がパールには相応しくないと思い込んで、そっとトリトニアを出て行こうとした」
「……」
「私の所に暇乞いに来たところを、餌を吊り下げることで何とか思い止まらせた」
「餌⁉︎」
「パールと二人で青の剣を守るつもりはないかとな。守人となれればパールをやろうと」
「それは願ってもない…ことでもないですね。事はあまりに重大だ。大抵の男なら尻込みする」
「だが、あいつはしなかった。この国の事など何もわからんくせに、前向きに考えて、そして結論を出した。パールのことを守りたいから頑張る、と。動機は不純だが、やってみたいと」
「動機不純ねえ…」
にやにやと、ミカエラはオスカーを見る。今でこそどっしり構えているこの王の、赤の剣の守人となる際のきっかけも不純な動機だったことを、ミカエラはよく知っているのだ。
「奴は自分のするべきことを探していた。うってつけだったのだ、私にとっても。…一平を手放したくなかった。この国の安泰ため。娘の幸せのために」
「そういうことなら…頑張ってもらいましょうや。未来の守人どのに」
ミカエラはふむふむと意味ありげに頷いた。
「立場上贔屓するわけにはいかないが、目を掛けてやりますよ。うんと、鍛えてやる。トリトニアの安泰と姫の幸せのため。そしてこのミカエラが安心して老後を過ごすためにね」
二人はウミヘビの頭同士を差し交わした。
乾杯の意味であった。




