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第五章 幸せの予感

「なんだかおかしいね」

 パールはそう言って口元を押さえ、くすくすと笑い出した。

 話の流れが掴めず、一平は面食らう。

「一平ちゃんの方がパールの下級生だなんて」

 二人は修練所への入所手続きを済ませてきたところだった。

 確かにそうだ。年齢だけで言えば、一平はパールよりも三歳も年上である。癒しの力などのパールの特殊な能力を除けば、体格、その他において上回っていることの方が圧倒的に多い。その頼りがいのある一平を差し置いて、自分の方が四級も上の(クラス)に入ったのである。病弱だったのと、三年も国を空けていたせいで、通常よりも進みが遅れているのにもかかわらず。

 故のないことではない。三年どころか、一平は生まれてこの方十六年も、故国であるトリトニアで暮らしていないのだから。同種族の世界ならともかく、地上という異世界での常識は、海の底では九十九パーセント通用しない。

 それもだいぶ慣れたつもりだったが、一平にとってここは見知らぬ国だ。国の成り立ちや政治の仕組み、人々の生活様式から考え方まで、日常茶飯で当たり前のことが皆目わからない。(まつりごと)の要となる要職を目指すにしては、あまりに無知すぎ、無謀だった。

 それでもやらなければならない。自分の望みを叶えるために。

 最愛の女性を手に入れるために。

 一平の進むべき道は、もうここにしかないのだから。

 後戻りはできないし、する気もなかった。もう彼は心を決めたのだ。

 そのために避けては通れない道だった。オスカーに頼めば専門の優秀な家庭教師をあてがってくれただろうが、一平は敢えて修練所へ入る道を選んだ。広く深くこの国のことを知りたい一平には、より多くの人々と関わり、幅広い年齢層の人々と接する必要があったのだ。たとえそれが著しく年の離れた者たちの中で、ただ一人異色の存在と注目されることになろうとも。

 だが同時に、パールの為でもあった。

 修練所に通える身体ではなく、家庭教師との勉強に終始するしかなかったパールにとって、修練所で学ぶ事は夢のひとつであり、憧れでもあったのだ。それが可能になった現在、友達ができるかもしれないという期待に加えて、敬愛する一平と一緒に学べるということで、この上ない喜びに包まれていた。

 パールの期待を台無しにするような行為をする気にはなれなかった。そして一平自身も、パールと同じ所で送る学生生活を楽しみにしていたのだ。

 パールは純粋に面白がっている。期待と希望に胸を膨らませて、来るべき明るい未来に夢を抱いている。

 劣等感の塊であるパールにとっては、絶対の存在である一平よりも自分が上だということが、単純に嬉しくておかしいのだった。


 三年の間パールのことだけを見てきた一平には、彼女の気持ちが痛いほどわかる。決して一平を見下して言っているのではない。日々の生活の中に少しでも面白いことを見つけて共有しようとする素直な心の表れなのだ。

 一平は目元を綻ばす。 

「…そうだな。…これからは…パールの方が先輩になるのか」

「先輩⁉︎」

 その言葉の響きも嬉しかったらしい。パールは満面に笑みを浮かべて顔を輝かせた。

(すごいすごい!すごおい‼︎『先輩』だって。パールが『先輩』。しかも、一平ちゃんの『先輩』‼︎)

 声にならぬほど誇らしげに喜んでいる。

「同じ講義じゃないのは残念だが…。なに、すぐに追いついてやるさ。待ってろよ」

 待ってろと言われて反射的にパールは「うん」と

言おうとする。

 だが、珍しく思い留まった。

「いやだもーん。パールだってお勉強頑張るもん。一平ちゃんになんか負けないよ」

 これまた珍しい憎まれ口だが、かわいいものだった。

 一平はゆったり微笑んで『せいぜい頑張れ』という気持ちを送ってから、思い直した表情をした。

「だけど…。だいぶ先になりそうだな。おまえと結婚できるのは」

「えっ?」

「一般教養部門だけでも、普通は六年かかるって言うじゃないか。それまでに守人の試験がなければいいが…」

 人の上に立つ守人が無教養というわけにはいかない。どんなに少なくとも一般教養部門を終えていなければ一人前と認めてもらえないのだから、それまで青の剣の守人の宣旨が降りないでいてくれることを祈るばかりだ。おそらくチャンスは一生のうちただ一度きりだろうから。


 実力が能わなかったとしても、間に合わなかったとしても、青の剣の守人になれなかった一平をオスカーの娘の伴侶として認めるかどうかは全く読めなかった。確約できているのは、一平が守人試験に通ったらパールを妻にしてもよいということだけだ。飄々としていたずらっけのある眼差しで言われ、もし通らなかったらどうなのかという問いを向けることはできなかった。発したらその時点でこの話自体もオシャカになるような気がしたのだ。

 一平の言葉を聞いて、パールは指を折った。

「… 六年も経ったら…パールは十八歳だよ⁉︎」

「ボクは二十二だ。ひょっとしたらもっとかかるかもしれない…」

 そうだ。現守人のミカエラの治世はあと何年と限られたものではないのだ。ミカエラは現在三十七歳だと言うからそろそろ引退時だと思うのだが、四十歳の平均寿命など強戦士には当てはまらないかもしれない。うかうかしている間に十年二十年あっという間に過ぎ去って…。

「じいさんばあさんになるまで結婚できなかったらどうする?」

 不意に浮かんだ疑問を口にしてみた。

「やだ!そんなの!」パールは即答だ。「守人になれなかったら駆け落ちする!」

 どこでそんな言葉を覚えてきたんだと思いながら、一方で一平はちょっと嬉しかった。パールは守人になることより、王宮で王女をやっていることより、一平と共にいることを優先するのだ。面と向かってそういう意味のことを言われて、嬉しく思わない方がどうかしている。

「お嫁さんのドレスが似合わなくならないうちに守人の試験があるように、ピピア女神様にお願いする!」

 次にそう言われて少しがくっときた。

(そういうことなのか?)

 そう思いながら、彼は言う。 

「いくつになったって似合うさ。パールなら」

「だめなの!だって、パール赤ちゃん産まなくちゃ」

 また出た。

 パールはよく口にする。聞いている方は非常に落ち着かないというのに。少し前ならばともかく、この場合パールは一平と自分との赤ちゃんと言う意味で言っているのに違いないのだ。そこへ至るまでの過程をわかっていないからこそ口にできるのだろうが、一平としてはこっぱずかしくてたまらない。


 パールは王族だ。 

 高貴な血筋の継承者だ。

 幼い頃から言い含められているのだ。 

 トリトニア王家の血筋を絶やさぬことが、王女としての務めのひとつであることを。必ず残さなければならない。できるだけ多くの子どもを。

 だが、その話題は一平には困る。

 当事者であるが故に困る。

 だから一平は話を逸らそうとする。

「わかってる。だけど守人の試験がいつになるかは神のみぞ知るで誰にも決められないんだ。だからそのことを思い悩むのはよそう。いつその時が来てもいいように、一日も早く課程を終えるように頑張ることしかボクらにできる事はないじゃないか」

「うん…」

 一平の言うことは、いちいちもっともだ。パールは簡単に陥落する。

「どこまでやれるかわからないけど…とにかく頑張るさ。おまえもメーヴェさんについて学んだことがあるからわかるだろうけど、勉強は楽しいぞ。今まで知らなかったことがどんどんわかるようになって、自分が変わっていける気がしてくるんだ」

 日本にいた頃の一平なら思ってもみなかっただろう。与えられた勉強をこなすことで精一杯の普通の中学生には、学校の勉強もテストも苦痛でしかない。勉強が楽しいなどと口にする中学生は希少価値である。

 一平はムラーラで心の底から強くなりたいと思った。武力を身に付けることを心から欲した時、彼の身体はスポンジが水を吸うように、枯渇した大地が驟雨をたちまち吸収するように、新しいことを己のものとしていけたのだ。

 それは武術に限ったことではなかった。

 海のことを何も知らない―漁師の家に生まれたので、都会の子どもよりは知っていたかもしれないが―ことは、この先の生を海で過ごしていく上で大きな障壁となっていた。一平一人ならともかく、傍らには何よりも大切な幼い少女を随行していたのである。

 他の生物や海人に出会う度、必要なことも重要ではなさそうなことも、全て一平は見逃さず、聞き逃さないようにしていた。意識してではなく、そうすることがごく自然であり、また目から鱗が落ちるような新鮮な驚きとして、すんなり心身に溶け込んでいったのだ。

 はっきり意識したのはミラに武術の手解きを受けた時だった。年下のナムルに完膚なきまでに痛めつけられたことがショックで、それを克服するために意図して己の心身を鍛えあげた。幼い幼いと思っていたパールが、他でもない一平自身のために医術の習得に励んでいる姿に刺激されてもいた。

 学ぶことの大切さ、学ぶことの面白さを一平は確かに実感していたのである。


 パールもムラーラのことを思い出していた。

「お師匠さまかあ…。ミラ姉さんもナムルも元気かなあ」

 メーヴェやミラのことならともかく、ナムルのことは一平はあまり思い出したくない。いや、パールに思い出して欲しくない。

 一平は吐き捨てるように言った。

「あの人たちなら元気に決まってる。でも…」それでも彼らのことは懐かしい。「どうしてるだろうな、今頃…」

「ミラ姉さんはお母さんになってるよ、きっと。それで、お師匠さまの方が赤ちゃんたちの世話してるの」

 ニコニコとまるで見てきたように言う。

 そのことにも驚いたが、もっと驚いたのはミラとメーヴェの二人が好き合っているのをパールが知っていたということだ。口振りからそう窺える。

 一平にしても、はっきり二人の口から聞いたわけではない。メーヴェとは少し立ち入った話をしかけたが、ミラの方は何を考えているのか全くわからなかった。

 それでも一平は二人は好き合っていると思った。根拠などない。ただ、そう直感したのだ。

 おそらくパールの方もそうなのだろう。単純に、感じたことをただ口にしている。

 それともわかるのだろうか。彼らの今の姿がパールには見えるのか?霊の声を聞いたり予知夢らしきものを見たりできるパールならそういうこともあるかもしれないと一平は思った。

「…知ってたのか?おまえ…」

「え?何を?」

 パールは何のことを言われたのかわからないらしい。

 そうなると、こちらから言っていいものかどうかも疑わしくなる。

「いや、…その…」

「⁉︎」

「…どうしてそう思うんだ?ミラがお母さんになってるって…」

 仕方なくそう訊いた。

「そんな気がしただけだよ。一平ちゃんがどうしてるんだろうって言った時、お師匠さまに赤ちゃんを放り投げてるミラ姉さんが頭に浮かんだの」

 それは一般的には恐ろしい光景だが、ミラに関して言えば、やりかねないと納得させられるものがある。よくよく考えればこれほどしっくりする風景はないかもしれない。

「因みに、その赤ちゃんのお父さんは誰だと思うんだ?」

「さっきから言ってるじゃん、お師匠さまだよ」

 さっきから言ってはいないはずだが、と一平は思い、しかしそのことには目を瞑って指摘しないことにする。

「…パールもそう思うんだな…』

「うん!お似合いだよね」

「ああ。本当にそうなってればいいなと思う…」

 一平の同意を得て、パールは嬉しそうに笑う。


 パールの無邪気な笑顔は一平の心を蕩けさせる。安らかで幸せな気持ちになり、彼は言った。

「ボクも早く、おまえと一緒になりたいよ…」

 パールは遠回しな言い方でしかプロポーズされていない。好きだとか愛してるとか結婚してくれとかいう直接的な言葉はひとつして言われていない。

 だからこれが初めてだった。お嫁さんにしてくれることになってはいても、本当に一平が自分のことを妻として欲してくれているのかどうかは、実はとても不安だったのだ。コンプレックスのたくさんあるパールには、どう欲目に見ても、敬愛する一平に自分が釣り合うとは思えなかった。ただのお情けかもしれないと思わないではなかったのだ。

 だから嬉しかった。

 一平が本音―らしきもの―を、口に出して告げてくれたことが。

 本当に嬉しい時、人はどうやらすぐに喜ぶことができないらしいと、バールは初めて悟った。嬉しいのに、幸せなのに、身体が震えて声も笑いもうまく出てこないのだ。

 涙が溢れそうになって初めてパールは行動を起こせた。一平の首っ玉に手を回し、固く、そして柔らかくしがみついた。

「パールも…」

 一平も手を回す。首の後ろと背中を支え、優しく抱き締める。

「パールにも頂戴ね。ミラ姉さんみたいに、赤ちゃんが生まれるように、必ずしてね」

 さっきの難題を蒸し返されたわけだが、今の一平は無視したりはしなかった。

 彼は言った。

「うん。ボクも…おまえに産んで欲しい。ボクたちの子どもを…」

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