第四章 許諾
一平は出鼻を挫かれた。
オスカー王は既に執務時間となり、会議に忙殺されていた。
パールと共に昨日の返事をと思ったのだが、これでは後回しだ。
特に急ぐことでもない。一平は肚を決めたのだ。自分はトリトニアにいる。少なくともパールがここにいる間は。パールが一平を必要としている間は。青の剣の守人となる勉強に励みつつ、パールのそばにいる。パールの幸せを守るため、トリトニアを守る。
動機は不純かもしれない。
パールを妻にするために守人の座を目指すのは。
愛しい娘を自分のものにする手段にしては、より困難な道であり、大それている。
青の剣の守人は一人しかなれないのだ。トリトニアの中で、どれほどの人間が守人の座を狙っているのかは知らないが、ごまんといる国民の中からたった一人しか選ばれない。それもいつになるかは誰にもわからない。一年後か五年後か、十年先かもしれないし、わずか一ヵ月後かもしれない。交代の時期がいつ訪れるのかは神のみぞ知る。
すなわち、パールと守人の座を自分のものにできる確率は恐ろしく低いと言うことだ。
そのための修練所にはいつでも入ることができると言う。
王宮に近い修行の場を一平は見学に行った。王には会えなかったし、特にすることもなかったからだ。
修練所は守人養成のためだけの場所ではなかった。希望すれば老若男女問わず、誰でも入所できる。一般教養を身に付けるための学校でもあった。
学部は大きく三つに分けられる。
一般教養部門、専門教育部門、特殊教育部門である。
一般教養部門の受講者には、年少者が多い。受講科目はすべて必修だ。
専門教育部門には、建築科、政治科、商業科、博識科、医科、芸術科などがあり、専門的な勉強ができる。
特殊教育部門は、宝剣の色に準えて赤科、白科、青科の三科で構成されている。ここが守人養成講座にあたる。
どの部門、どの学科を選ぶのも自由であり、重複も可能である。但し、一つの部門につき一科しか許されていないため、最低で一科、最高三科までしか受講することはできない。それらの説明を聞いて、一平は頭を捻る。守人の講座だけではだめだと思えたのだ。
自分はトリトニアのことを何も知らない。王はおいおい身に付ければよいと言ったが、一平はもうすでに十六。日本では親の脛齧りが当たり前の年齢だが、トリトニアではそうではない。とっくに成人して社会人となっていていい年だ。妻帯し、子どもの一人や二人いたとしても全然おかしくないらしい。
にもかかわらず、一平はトリトニアのことを知らなさすぎる。パールとの会話の中である程度の知識は得ているが、何分先生が先生なので心許ない。子どもでも知っている宝剣のことも耳にしたばかりだし、国の仕組みもどんなところと外交があるのかも、国を守るのであれば知っていなければならないことを何一つ心得ていないのだ。
本来ならとっくに一般教養部門で学んでいたはずのパールは、虚弱だったため家庭教師をつけられていたと言う。弟のキンタは修錬所で一年前にその課程を終了している。現在は政治科と赤科で学んでいる。
学ぶのなら全部だ、と一平は思った。
できることなら、全科に首を突っ込みたい。何でも知っておきたい。
けれど、そういうわけにもいかない。三つに絞らなければならない。
青科はもちろんのこと、一般教養部門も欠かせない。専門教育部門からは政治科を選ぶことになるだろう。
また、バールと一緒に守人になるといっても、試験で試されるのは主に男性の方だけだ。
主に、と言うのは、稀に女性が守人に立候補することもあるからだ。守人は独身でもよいが、夫婦の方がより望ましいと言われていて、その配偶者に対しては審査がある。配偶者は自動的に守人になるとは言っても誰でもいいわけではなく、審査で守人の連れ合いと認められなければ一緒にはなれない。人柄はもちろん、守人の配偶者としての勤めを理解しているか、どれだけ相手を思っているかが重要であり、何か一つ秀でたものがあれば好ましい。そしてもちろん剣に触れることができるかどうかが、最終的な判断の基となる。
パールは青科の副科に入ることになる。副科とは即ち守人の配偶者専門の科である。それと中途で終わっている一般教養部門。もう家庭教師をつける必要はない。
そしてパールは芸術科で学びたいとも思っていた。好きな歌をいつも歌っていられそうだし、まだ知らないことをたくさん覚えられそうな気がしたのだ。
もうすっかり二人で修練場に入ることに決めて王宮に戻ってみると、母のシルヴィアが待ち構えていた。
「お帰りなさいませ。お疲れになったでしょう」
王妃という高い立場にも拘らず、一平に対しても丁寧な口を利く。
パールにも声を掛ける。
「疲れませんでしたか?床を用意させてありますからおやすみなさい」
「え?…平気だよ…」
三年前まではちょっと外出が長引くとすぐに熱を出していた娘だ。パールの身体を気遣って言ったのだ。
「生活が変わったのです。無理はいけません。母の言う通りになさい」
おとなしやかに見える貴婦人だが、芯は強い。有無を言わせぬ眼力がシルヴィアには備わっていた。パールは仕方なく母の言に従った。
侍女に付き添われてパールは自室へ戻って行った。中年のその侍女はフィシスと言った。ふくよかで落ち着きと品のある女性だ。パールの身の周りの世話をする役目を数日前より仰せつかっている。
一平には休むことを勧めず、王妃は客人を手招きする。
「一平どのはこちらへ…。王がお待ちです」
―来た!―と、一平は思わず身を硬くした。
男にとって、一世一代の正念場だ。
恋人の親に申し込むのだ。
案内されたのは、昨日訪れた王の私室であった。
「手が空かずに失礼した。…待たせてすまなかった」
開口一番王が謝る。
「いえ…パールと出かけてきましたので…」
「ほう⁉︎」
「…修錬所を見学してきました。学ばせていただきたいと思いまして」
「それは、つまり…決心がついたということかな?」
言外の意味を王は即座に読み取った。
「はい…」
数秒の沈黙が流れる。
「王さま…」一平は口火を切った。「パールを…ボクにください。どんなことがあってもパールを守ります。大切にします。他の奴には任せられない。ボクが自分で守りたいんです」
「……」
「一晩、考えました。パールとも話をしました。ボクのお嫁さんになりたいって言ってくれました。ボクはパールを守るため、トリトニアを守ります。青の剣の守人となって… 二人で…力の及ぶ限り努力します」
「一平どの…」
オスカーは口元に微笑を浮かべて呟いた。
「…こんな…理由ではだめですか?不純な動機で宝剣を守るなど、おこがましいですか?」
「私におぬしを非難する資格などないよ。私も、そう思ったものだ」
「え?」
「のう、シルヴィア。懐かしいな」
オスカーは傍らに佇む美しい妻を見た。シルヴィアは十四でパールを産んでいる。まだ二十六の女盛りだ。その衰えぬ美貌を面に湛えてシルヴィアが微笑み返す。
(王さまも?…守人となる時、そう思ったのか?この美しい人を守るため、と⁉︎)
瞬きを忘れた状態の一平に王は向き直る。
「約束しよう。おぬしが守人の試儀を見事突破したなら、パールを妻とすることを認めることを」
大真面目でオスカーは言った。だが、一平が喜ぶ間を与えまいとするかのように、すぐ言い足した。
「だがそれまでは手を出すなよ。パールはまだ子どもだ」
もちろんです、と言い切りたいところだが、一平は即答できなかった。何しろしっかり抱き締めてキスしてきたのは、その日の朝のことなのだ。
「…申し訳ありません!手ならとっくに出してます…」
こういうところはばかがつくくらい正直だ。真っ赤な顔で頭を下げ困りきっている。
オスカーは目を丸くし、次いで口元を綻ばせた。
「トリトニアの勇者どのは魔法をも嗜むとみえる」
「は?」
どこからそういう話になるのかと、一平は面食らう。
「まだ幼魚のパールのどこをどうすれば、子を作るような行為に及ぶことができるのかな?」
それはこっちが教えてもらいたい。だが、オスカーの言う意味がわかった。オスカーが出すなと言った『手』とはそういうことだったのだ。早とちりと気がつき、また一平は赤面する。
「おぬしたちが毎日口づけを欠かさぬ間柄であることぐらい、とっくに心得ておる」
「……」
事実だが、見張られていたとは思えない。人前でしたこともないはずだ。バールが喋ったとしか考えられなかった。
「もう私らとはキスしないそうだ。おぬしとだけすると決めたと、宣言されたからな」
(やっぱり…)
予想が当たりすぎて、がっくり肩が落ちる。
でも、一体いつ?
一平がパールにそう言われてから、パールはオスカーには会っていないはず。顔を合わせたとすれば、朝餉の前しかない。では、朝の挨拶時か。全く、やめてほしい。
「よっぽど気持ちよかったのだろうな。お見事と言うほかない」
「王さま…」
からかわないでほしい、と一平は身の置き場がなかった。求婚相手の父親にこんなことを言われるのは拷問にも等しい。たっぷり皮肉がこもった嫌味だ。
だが、オスカーに関して言えば明るさがある。それでずいぶんと刺々しさは緩和される。
「…重ねて言うが、それ以上は許さんぞ。少なくとも、成人するまではな」
(成人してしまえばいいのか?)
疑問が浮かんだが、とても口に出して言える状態ではないと思えた。
「それまで溜まるものもあるだろうが、まあ我慢するんだな。少女に惚れ込んだ報いだとでも思っておけ。必要なら遊ぶところも紹介しようが、おぬしなら女に不自由はすまい?」
「け…結構ですっ‼︎」
いくら溜まってもパール以外の女をあてがわれたくはなかった。浮気を奨励するようなオスカーの発言にも驚いたが、心の内を見透かされたような気もしてうすら寒くなった。この口車に乗ってしまったら、一気に一平の株は下落する。アブナイアブナイ…。
オスカーの方は相当に楽しんでいる。ニヤニヤ笑いが消せぬまま話の先を続けた。
「今使っている寝所をそのまま使うといい。パールも喜ぶだろう」
意味ありげなセリフだ。
また試されているのだろうか。
パールの部屋からは、ふた掻きもすれば到達できる位置にあるのだ。どこまで自分の理性が保てるか、自信はまるでなかったが、培わねばならなかった。これは自分との戦いだ。
(王さまも意地が悪いや)
―当然だろう。かわいい一人娘をかっ攫っていこうという男にいい顔ができるはずがないではないか―
愚痴ればこんなセリフが返ってくるのに違いない。
先が思いやられる、と部屋を辞した一平は大きなため息を吐いた。
「…さま…」
誰かが呼んでいる。
「…アさま…」
だんだん声が近くなる。
「…ティアさま」
誰を呼んでいるのだろう。
「…パルティアさま…」
パールはパチっと目を開けた。
呼ばれているのは自分だった。
パール付きの侍女のフィシスが少し遠慮がちにパールを起こしている。
「…お目覚めになりましたか。お時間でございます。お手伝いいたしますので、お支度くださいませ」
パールはむくっと起き上がった。
「…今、何時?」
「六時を少し回ったところでございます。お食事には充分間に合うかと…」
最後まで聞かず、パールは寝台を飛び出した。
まっしぐらに部屋の外へと向かっている。
「パールティアさま?」
驚いて侍女が振り返る。慌てて後を追った。
パールが向かった先は一平の部屋だった。フィシスが止める間もなく、パールは扉をくぐり抜け、一平の寝所へと滑り込んだ。
「パールティアさま!」
フィシスは真っ青になる。
男性の寝所に断りもなく婦女子が潜り込むなど、破廉恥の極みだと教え込まれている。高貴な血が流れている王女がしていい行為ではない。こんなことが知れたら監督不行き届きで自分の首が飛びかねない。フィシスは慌ててパールの後について室内に飛び込んだ。誰にも見つからないうちに連れ戻さねば。
果たして室内では、一平が目を丸くして立っていた。
彼はもう既に起床し、部屋着を脱いで、いつもの服に袖を通そうとしていた。そこへ何の前触れもなく、パールが飛び込んできたのだ。びっくりして手を止め、侵入者を見た。侵入者がパールとわかると破顔した。
「やあ、パール、おは…」
「あああっ‼︎やっぱりぃぃ…」
パールの大声に、一平の声がかき消された。
ついでに、身体も押し倒された。
「???」
着ようとしていた服はその辺を漂い、むき出しの胸の上にのしかかるようにして、パールは一平を押さえ込んでいる。
「パールが起こしてあげるって言ったのに!」
「……」
「もう一回やり直してぇ」
パールの主張と行動に呆れ果てたフィシスは思わず顔を覆って嘆いていた。なんとはしたない。あられもない…。
「……いいんだよ。そんなこと気にしなくて」
バールの行動を理解して、一平は静かに言った。
「だって…約束したのに!」
「だからいいんだって。ボクは赤ちゃんじゃないんだからひとりで起きられるよ」
「でも‼︎」
せっかく自分がしてあげられることを見つけたのに。これを取り上げられたらまた逆戻りだ。しかしうまく言えない。
「お寝坊さんに起こされるのを待ってるようじゃ、これからボクは毎日遅刻だよ。それでもいいの?」
「……」
自分が寝坊したのは事実である。正直言って守れる自信はパールにはなかった。自分のせいで一平が遅刻するのも嫌だった。
でも、パールの方には負けられない拘りもあった。
「だって…そうしないと、一平ちゃんに一番に会えないもん」
朝一番に会えないからなんだと言うのだろう。そんなくだらないことでこんなにハラハラさせられるのはごめんだわ、とフィシスは二人のやりとりを聞きながら思っていた。
一平は目を細めてパールを見ている。ひたむきなパールの思いが伝わってくる。
「そうしないと…一平ちゃんにおはようのキスできないもん。パールが一番にするんだ。昨日言ったでしょ?」
一番にするとは聞いていなかった。他の誰ともしないと宣言されただけだ。だが、一平はそれを指摘してやり込めるような野暮な真似はしなかった。
パールの思考回路がどう働くか、彼には大体わかっていた。ちょっとだけ向きを変えでやれば納得してくれるのだ。
一平は言う。
「…わかったよ。毎朝パールに会えるまで誰ともおはようのキスはしないよ。だから安心しておやすみ」
「ホント?」
「ほんとだ」
「約束だよ⁉︎」
「約束だ」
きっぱり言われて、パールの表情が明るくなる。
「おまえもだぞ」
「?」
「おまえも…他の誰ともするんじゃないぞ」
そんなこと当たり前だと言わんばかりに微笑んで、パールが唇を寄せてきた。
「姫さまっ‼︎」
フィシスは頭から湯気を立てた。
半裸の男性を寝台に押し倒して接吻を迫るなど、王女にあるまじき振る舞いだ。いくら子どもだとは言え、王女だとは言え、していいことと悪いことがある。もちろんフィシスの常識に当てはめれば、これは悪いことの方に所属する。
「離れてくださいましっ!王妃さまに合わせる顔がございません。一刻も早くお部屋にお戻りになられて、朝のお支度にかかるようお願いいたしますっ」
フィシスが喚き立て始めてはじめて、一平は第三者の存在に思い至った。
「これは…。確か…パール付きの侍女の…」
「フィシスでございます。御無礼をお詫びいたします。私、パールティアさまの身の回りのお世話と共に、お行儀をお教えするよう申しつかっております。このような状況は立場上見過ごしには致しかねます」
フィシスは凛として抗議した。目の前にいるのが彼女の主人であるパールの命の恩人であり、一週間ほど前より勇者の再来と噂される強者であることを知ってはいたが、だからといって許せるものではなかった。
国主直々にこの職を賜ったのだ。認めてもらえるチャンスであり、逆に言えば、小さな失敗も大事に繋がる。へまはできなかった。
教育するべき王女も幼いが、その王女の失態の原因を作ることになった男もフィシスから見ればまだまだ若輩の青二才である。このことで図に乗り、大きな顔をされる懸念もあれば、今後の王女の躾の差し障りになる恐れもあると思えた。いかに恩人とは言え、ここはある程度厳しく言い含めておかなければならないと気を引き締めたのだ。
ところが、フィシスの予想に反して、一平は照れて頭を掻いた。いたずらを見つかった子どものように悪びれてパールを押しやる。
「…すみません。…どうも、気楽な二人旅気分が抜けませんで…」
恥ずかしさに紅潮した顔が、若く可愛らしい。
フィシスはおや、と思った。勇者などともてはやされているけれど、本当は純情な若者なのかもしれないと考えた。
「やんっ‼︎」
押しやられたことが不満で、パールは再び一平に抱きつこうとする。
素肌に抱きつかれただけでもドキッとするのに、加えて人が見ている。一平は余計に惑乱した。
「こらっ!離れろって…おまえのお付きが怒ってるぞ」
普段なら決して一平はこんな言い方はしない。目の前のフィシスに対して失礼至極だ。失言してしまうのも、一平が動揺している証拠だった。
フィシスは怒鳴りつけたいのを懸命にも抑えて言う。
「パールティアさま。姫さまはこのトリトニアの尊い血を受け継ぐお方。そして未婚の女性でございます。無闇やたらと殿方に抱きついたり迫ったりしてはなりません。品性を疑われます。このようなお振る舞いは、いずれ旦那様となる方の耳に入っては困ることです。お慎みくださいませ」
フィシスの言うことは大体わかったが、パールには知らない言葉もあった。
「ヒンセイってなーに?」
いつものようにパールが訊く。
「品位、性質などが本来よりも悪く誤解されると申し上げているのです。姫さまばかりでなく、お父上やお母上にも恥をかかせることになるのですよ」
「……」
自分のしたことが父母にも迷惑がかかるのだとは思ってもみなかった。
でもわからない。旦那様になるのは一平なのに、一平にしたことを一平の耳に入っては困ると言うのはどういうことなのか。その旨を口にすると、フィシスはあんぐりと口を開けた。
「なんと…仰せられました?」
「パールは一平ちゃんのお嫁さんになるのに、どうしていけないの?」
そんな事は聞いていない。そんな事は初耳だ。
パールティア王女には三年前から求婚者がいたが、それは一平ではない。王からも王妃からもそんな話は伝わっていなかった。フィシスは呆気に取られて二の句が継げなかった。
見兼ねて一平が言った。
「お聞き及びでないのは当然です。昨日の今日ですから…。実は昨日…オスカー王にはきちんと話をしました。いずれパールをボクの妻に迎えたいと…」
言いながらも照れているのがありありとわかるはにかみ顔だった。
「青の剣の守人の試験に通ればそれもよしとのお言葉をいただきました。この子の先程の主張も、王の耳には届いています」
「………」
「けれどさっきのはいただけませんね。あなたの言う通りだ。バールはもっと女性としての嗜みを身に付けなければいけない。それはボクには教えることは不可能のようだから」
パールは一平の顔を見上げてじっと話を聞いていた。
(一平ちゃんにも教えられないことなんてあるの?)
「フィシスどのの言うことをちゃんと聞いて。覚えることは沢山ありそうだぞ。守人の勉強の前に、まずそれだな」
先程の一件はあれはあれで心地好いものでもあったが、それ以上に理性が保てなくなりそうで困る。昨日王に釘を刺されているだけに、こういう不意打ちはなるべくあって欲しくない。
本音と建前を弁えているかいないかで、大人と子どもに大きく分けられる。そういう意味で、この女性がパールを慎み深い大人の女性に育ててくれるのなら、一平にとっても万々歳なのだ。
(若いくせに悟ったようなことを言う…)
またしてもフィシスは意外に思った。懸念していたようなチャランポランさや図々しさは持ち合わせない男なのだと感じた。言っていることが口先だけでないことは、真剣な目の色を見ればわかる。
落ち着きを取り戻した一平は、自分の姿に目を落として言った。
「ご婦人の前でこんな格好で失礼しました」
失礼したのはこちらの方である。それをさも自分が悪いかのように言うさりげない優しさが垣間見えた。 フィシスは恥じ入った。
王女を止めるためとは言え、自分のしたこともはしたないことだったのだと、己を省みることのできる女性であった。
「私の方こそ取り乱しまして、お見苦しいところをお目にかけました。あなた様のことは、姫さまの婚約者との認識の上で接することにいたします。しかしながら、パールディアさまはまだ成人前。くれぐれも越境した行為には及ばれませんよう心してくださいませ」
「…心得ました…」
一平は一瞬目を見張ったが、すぐに頷いた。
不思議そうな様子のパールに部屋へ戻るよう促して、共に帳まで移動する。
フィシスにパールを受け渡し、一平は言った。
「ひとつ、訂正しておきましょう…。ボクはまだパールの婚約者ではない。守人となれるまでは…ただの求婚者に過ぎません。出過ぎた真似だと思ったら注意していただけるとありがたいのですが…」
腰の低いこの申し出に、フィシスは心が洗われたような気がした。
どこまでも清々しい男だ。この幼い王女は人を見る目があると、改めて感心した。




