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第二十章 トリーニの罠

「疲れたかね?」

 パールに同行してくれた医科の助教授イカロスが尋ねた。

「少し。…でも、大丈夫です」

 旅に出るのは久しぶりだ。トリトニアの中心部トリリトンから北部のトリーニまでは二千五百アリエル。行程には最低でも五日はかかる距離だ。

 かつて一平が宿泊を伴う任務に出た時、一日でも離れるのは嫌だと言ってだだをこね、困らせたパールだったが、その後も急速に出世をしてゆく一平は王宮を空けることがどんどん増えていったため、そういう面での我慢を覚えることを学んでいた。もちろん離れていて寂しくないはずはないのだが、『癒しの力』が人々の間に認められてゆくにつれ、パールの方も力を請われることが多くなり、一平の立場をも理解するようになっていたのだ。

 相変わらず離れていた分の穴埋めは要求していたが、それもかっちりと計算したものではなく、心の赴くままにキスをして抱き締めてもらって終わることも珍しくなくなっていた。

 それが今回は逆の立場に立たされた。

 パールにはそれが妙に嬉しくて面映い。一平と離れる寂しさよりも、他人に必要とされている喜びの方を強く感じていた。

 とは言え、二千五百アリエルはパールにとっては遠い。

 地球を半周以上の旅を経験したことはあるが、常人なら五日で着ける距離もパールには八日かかってしまう。体力不足は否めない。

 イカロス助教授もそこのところはよく心得ていて、行程を急いだり急かしたりすることは決してしなかった。


 パールに施術の依頼をしてきたのはトリーニで隠遁生活をしているサクサと言う老人だ。海人には珍しく、齢五十を数えている。いつお迎えが来てもおかしくない年齢で、さすがに足腰が弱ってきている。持病の咳―地上で言うなら喘息だ―が思わしくなく、夜も眠れぬ日が続くという話だった。

 トリーニ方面は人口も少なく、それに比例してかお医師も少ない。従って診療所は盛況であり、サクサ老人のように距離のある家への往診は思うに任せない。診察といっても薬を処方するくらいしかできることはなかったから、サクサの主治医は二、三ヶ月分の薬を渡して様子を見ていた。

 五十の誕生日を迎え、老い先の短いことを痛感したサクサ老人は、一度でいいから噂の『癒しの力』を見てみたい、世にも心地好い歌声を己が身体で体験したいと家族に申し出た。

 せっかくこの年まで生き長らえ、百年に一度とも二百年に一度とも言われる『癒しの力』の主の出現と時を同じくできたのだ。冥土の土産にどうか望みを叶えてほしいと言われ、家族は意を決してパールの所属する医科と連絡を取ったと言う。

 高齢の老人の願いを足蹴にするような心ない者は医科にはいない。特に、請われた本人のパールはその最たる者だった。同情心に篤く、すぐに他人の心に同調してしまう。

 患者の年齢を鑑みて、すぐにも出発しようということになった。

 家族も一平も、意欲満々のパールを見て共に喜んでくれた。遠方まで一人で行かせるのは心配だったが、助教授が付き添ってくれると言う。オスカー王も激励して娘の門出を祝った。

 一平はついて行きたいと思ったが、彼は彼で別の任務があった。一平は既に大尉の地位にまで登り詰めていた。一般教養部門は半年前に終了し、政治科の勉強と並行して青科のメニューをこなしている。ぶっちゃけた話、めちゃくちゃ忙しいのだ。

「気を付けろよ。トリーニは寒いらしいからな。それから、あんまりきょろきょろするんじゃないぞ。尊師(せんせい)の手を煩わすことになるんだから。あと、くれぐれも無理をするな。きついと思ったらそう言って休ませてもらえ。自分の体が一番だからな。おまえが倒れたら助かる人も助からないんだから」

 口うるさいぐらいに注意事項を(あげつら)うのは、一緒にいられない一平としては心配でたまらないからだ。彼と旅をしていた頃よりは丈夫になったとは言え、パールはやはりか弱く小さい。お医師がついているのが唯一の安心材料だった。

「サクサどのの家はこの岩山の裏手らしい。あと少しだ。頑張りたまえ」

「はい」

 

 イカロスに励まされて到着した老人の家では大歓迎を受けた。

 当然だろう。王女ともあろうものが、一老人のため、わざわざ二千五百アリエルの距離を越えて治療に訪れてくれたのだ。しかも、その者は世にも稀なる『癒しの力』を携えている。これが浮かれずにいられようか。

 サクサ老は小康状態を保っていたので、まずは旅の疲れを取るようにと、馳走と床が供されていた。もちろんパールは疲れていたが、自分はトリーニに観光旅行に来たわけではない。ご馳走を振る舞ってくれるのはありがたいが、まずは患者の状態を診ることだ。自分は癒しの力を請われてここに来ているのだから。

 そう主張し、イカロス助教授にも後押しをしてもらって、サクサ老人の診察に入った。『診察』などとは、パールにとってはおこがましい言葉だ。自分にはまだお医師の資格などないのだから。看板を掲げられるような認定こそ受けていなかったが、お医師として必要な身体の中を診る術はパールは取得していた。ムラーラにいた十二歳の頃からだ。

  心を落ち着けて目を瞑り、心眼で老人の体内を診た。五十という高齢にもかかわらず、内臓はしっかりとしていた。咳を発生させる喉の部分は炎症を起こし、かなりくたびれている。薬を調合し、鎮静させる必要があった。イカロスもそれには同意見であり、早速持参した薬の調合を始める。

 大抵の医師にできるのはここまでだ。身体の状態に合わせ、処方した薬の行方を見定めて、徐々に快方へ向かう手伝いをする。海人が本来生まれ持つ回復力を呼び覚ますのが医療の基本であった。

 パールはそれを薬ではなく歌うことでやってのける。

 自分でもその仕組みはわからない。

 患者の回復を願うことで各々の状態に即した歌が浮かんでくるのである。心を込めて歌い上げると大抵の病や傷は癒えている。心を病んでいるのであれば元気が戻り、生きる力を取り戻す。ついでに周りの者の疲れを取るが如く、気持ちのよい眠りに誘い込む。本人もまた然り。自分の症状は治せないが、自分が歌った歌で眠くなってしまうことはあるのだ。疲労のためか、癒しの力の効果なのかはわからないが。

 そのことを思い出したイカロスにより、歌の施術は明日へと持ち越された。これで皆が眠ってしまうと、せっかく用意してもらった食物が無駄になってしまうからだ。

 そして翌朝、サクサ老の施術は恙なく行われた。息苦しさが嘘のように消えてなくなり、感謝しまくる老人と家族に別れを告げ、パールとイカロスがサクサの家を後にした。

 見送りの人々の姿が見えなくなった時、聞き慣れた声がパールを呼び止めた。


「久しぶりだね、パール。元気そうじゃないか」

 シェリトリであった。

 パールは目を瞠く。まさかこんな所で会おうとは夢にも思わなかった人である。

「シェ…シェリトリ⁉︎」

 名を呼ばれ、ニヤリとシェリトリは口の端を歪めた。

「覚えててくれた?ようこそ、トリーニへ」

「あ…あの…」

 パールは何と言ってよいかわからない。あの一件以外一度も顔を合わせることなく、シェリトリは父親のペニーノの転勤先へと旅立って行ったのだ。

 それがここトリーニであったことを、パールは今思い出した。

「どうしたのさ。『癒しの主』様。ずいぶん有名になったじゃない?」

 シェリトリの言葉にどことなく棘があるように思うのは、こちらに疚しい気持ちがあるからだろうか。人を突き飛ばしておいて謝る機会を得なかったパールはそう思う。

「あの時、その力を使ってくれればよかったのに」

 シェリトリはやはり怒っている。無我夢中だったパールはシェリトリがどういう状態に陥ったのか自覚していないのだ。

「ご…ごめんなさい。パール、ずっと謝りたかったんだけど…。悪気があってしたんじゃないの。しようと思ってしたんじゃないの。本当にごめんなさい」

「本当に謝る気があれば謝れたと思うけどね。こうやってご老人のためにわざわざトリーニまで来れるんだから」

 ひどい皮肉だが、パールは一言も言い返せない。

 状況が険悪なのをイカロスは察した。この場であまり好ましいやりとりではないと判断し、間に割って入った。

「シェリトリ君だね。ペニーノどのの息子さんの。パール君は今任務を終えたところだ。積もる話があるのなら、場所を移さないか」

「いいよ。じゃあ、こっちへ来いよ。いい所へ案内してやるよ」

 シェリトリに促され、二人はその場を後にした。


 シェリトリについて泳ぎながらイカロスが尋ねた。「以前に何か揉め事でもあったのかね?」

 察しのいい人物である。

 パールも黙って頷く。

「よければ、話してくれないか」

 言われてパールは口を開きかけた。が、すぐに思い直す。

 ―こういう事は、殿方に聞かせるものではありませんからね―

 母はそう言ったのだ。

「…申し訳ありません。尊師。お話は…できません…」

 事情があるのだろう。仕方がない。王女がそう言うのならこれ以上は踏み込めない。イカロスもペニーノのことは知っている。物見処の建設を任され、無事大役を果たしたと聞く。よもやその息子が王女に対し悪さをすることはあるまいと、人のよい医師は自分に言い聞かせた。

 連れて行かれたのはガラリアに最も近い例の物見処の近くにあるペニーノの住まいだった。

 ここでパールとイカロスは、思いもかけずご馳走攻めにあった。

「さっきはああ言ったけどさ。僕も悪かったよ。パールはまだ処女だもんな。いきなりは性急だったと反省してる」

 本当に反省しているのか?と疑いたくなるくらい堂々としてシェリトリは話しかける。

「ジョジョ?」

「まだ、男知らないんだろ?王女だもん。誰も手なんか出せないさあ。あ、それともあの大男。一平だっけ?あいつは特別?なんかやたら依怙贔屓されてるもんな」

 シェリトリの言う意味はわからないながらも、理解できる言葉だけをパールは拾う。

「一平ちゃんはパールの特別な人だよ。青の剣の守人になれたら結婚するの」

 一平のことを話すパールはいつもいい顔をする。

「キスは許してんだもんな」

 パールの口からそういうことを聞いた覚えがある。

「うん。」

「もう、諦めたよ。パールのことは。僕のことなんか全然好きじゃなかったんだなあって…あれから考えたよ」

「そんな…」

「あんなにしょっちゅう見舞いに行っても無駄だったってわけだ」

「そんなことないよ。パールはシェリトリがお見舞いに来てくれて嬉しかったよ」

「いいよ、無理しなくても」

「本当だってば。お見舞いの品だってとってあるよ」

「へえ……」

 それは意外だったらしい。

 パールはものを大切にする。特に人からもらったものは。品物そのものよりもくれた人のことと思い出を大切にするが故に捨て切れないのだ。

「あの時はね。びっくりしちゃったの。それで…なんだかとても…とっても…嫌だったんだ。そうしたら…ああなっちゃったの。本当に、ごめんなさい」

 幾度となく謝るパールを見て、イカロスがたまらず口を出した。

「もう…水に流してもいいのではないかね。何があったか知らないが、この通りバール君も反省しているようだし、シェリトリ君も許してくれているようだよ。昔の話はやめて、楽しい話をしようじゃないか」

 イカロスの進言にシェリトリは二つ返事で応じた。

「そうだよね。あ、尊師、酒飲む?確かいいウミヘビが入ってたと思うんだけど。僕とってくるよ」

 妙に高いテンションで、シェリトリは酒を調達に行った。


 戻ってきた時にシェリトリが手にしていたのは、確かに高価なウミヘビだった。味もいいが度も強い。普段節制してあまり飲まないイカロスはすぐに酔っ払って眠ってしまった。


「あーあ、だらしないなあ。お医師って皆こうなのかな」

「……」

「パールも飲まない?」

「え?いいよ。パール飲めないから」

「飲んだことないだけだろ?」

「うん、だけど…。いい……」

 酒―ここではウミヘビの血―はパールの身体にはきつすぎる。彼女はそれをよく心得ていた。

「じゃあ、こっち。とっておきのデザート。とっといたんだ。食べなよ」

 代わりにシェリトリが勧めたのはパールが見たこともない青味の強い海藻だった。梅干し大に膨らんだ風船のような形をしている。中には空気か、何かの液体が入っているように見えた。

「おいしいの?」

「ああ。すんごくね」

 シェリトリの笑顔につられ、パールは一口齧ってみた。桃を齧った時のように、口の中にじゅわっと甘い汁が広がった。

(ふうーん。いい匂い…)

 そう思ったのを最後にぱたりと記憶は途絶えた。

 パールは意識を失った。

 微かに別の人の声がしたと思った。

 ―よくやった。シェリトリ―と。


 当初部下を病人に仕立てるという計画を立てたペニーノだったが、やってくるのは世にも稀なる力を持つ娘だ。仮病など一発で見破られてしまう。ペニーノは急いで本物の病人を探した。サクサと言う老人が通院できなくて困っているという話を聞きつけて、癒しの力の素晴らしさをペニーノ自ら吹き込んだ。パールを呼び寄せるのに十分な状態を故意に作り出したのだ。

 結果、パールを始めとするトリリトンの連中に何の疑問も抱かせることなく、ベニーノは王女を誘き出すことに成功したのである。

 そしてイカロスの飲んだウミヘビ酒にも、パールの口にした海藻にも、即効性の没薬が注入されていた。魔術がらみの眠り薬である。

 そうまでしてガラティスに協力するのは、権力者に(おもね)る気持ちがあるのはもちろんだが、ペニーノ自身、オスカー王に何らかの仕返しをしたい思いがあったからだ。だが、今の地位をもペニーノは守りたい。自分の手を汚さずにガラティスが何かをしでかしてくれれば願ったり叶ったりなのだ。

 パールティア王女は一応成人している。ガラリア王は色好みで有名だ。美しいと言う評判こそないが、決して不細工ではなく、むしろ可愛らしい娘だとペニーノ自身は思っていた。幼稚なところに難ありだが。シェリトリと違いガラティスは女性の扱いにかけては百戦錬磨だ。何が目的かは知らないが、二人きりであれば何らかの手は出すだろう。娘を傷物にされればいかなポーカーフェイスのトリトニア王とて顔色を変えて地団駄を踏むのに違いないと。

 シェリトリの思いも似たようなものだった。

 こちらが恨みがあるのはパール本人である。何不自由なく育ってきた自分を足蹴にしたパールがとにかく許せないのだ。何の力もない王女に何年も媚び諂った挙句にプライドを傷つけられたのだから。

 自分がめちゃめちゃにしてやってもいいのだが、あの衝撃的な力のことを考えると二の足が踏まれる。ペニーノ同様、シェリトリは自分が可愛いのだ。

 シェリトリはトリトニアの王女のことを根掘り葉掘り尋ねるガラティスの目の中に、女性に対する執着心を見た。何より惹かれているのは癒しの力。そしてシェリトリが話した力のことのようだが、王女の母親は絶世の美女である。その娘なのだから美しいに違いない。しかも若い。トリトニアに縁談を持ちかけてもいい、くらいの気持ちは見えていた。

 シェリトリにとっては、パールのカマトトぶりも腹が立つ。

(ガキっぽすぎるぜ。少しは鍛えてもらったほうがいいんだ。ベテランに)

 無茶苦茶な理屈をこね、自分を正当しようとするシェリトリだった。

 二人はパール一人をガラティスの元へ運んだ。

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