第二章 三つの宝剣
パールをアコヤガイの寝台に送り届けてしばらく後、一平は国王の私室を訪れていた。彼に与えられた部屋とは十メートルと離れていない。私室のエリア内なので、警護の者の姿もない。
「王さま…」
「おう…」
気さくな応えが返ってきた。
「なんだね?」
「おやすみのところ申し訳ありません。ちょっとご挨拶を」
こんな時間にするべきことでないのは承知していた。だが、今しかない。
「?」
王は一平のいでたちを見て怪訝な顔をする。部屋着を用意してやったにもかかわらず、パールを連れてここに現れたときの服装だった。背には大剣まで佩いている。
「旅支度ではないか。一体どこへ行かれる?」
一平は一瞬口ごもった。
「行き先は…決めていません。が、今夜のうちに発ってしまいたいのです」
「まだ来て十日にもならぬぞ。修練所で学ぶ心づもりではなかったのか?」
「そのつもりでしたが…。せっかくの心遣いを無にすることになり、申し訳ありません」
王の目から見ても、明らかに一平は元気がなかった。これまでの颯爽とした若々しさが、今はなりを潜めている。どうにもしっくりとこない。
「…パールがさぞ寂しがることだろう」
寂しがっているのは一平の方なのでは、と思いながら、王は言ってみた。その理由を探りつつ。
「…パールは強い子です。か弱そうに見えても、芯はとても強い。おかげでボクも、たくさん助けられました」
「ほう…」
一平が黙っていなくなって、バールが荒れるのは目に見えていた。が、いつまでもうじうじしているような情けない子ではないことも一平は知っていた。
「あの年で…よく辛抱してくれました。ボクもいろいろ至らないところがあったのに、必死でついてきてくれた」
「そうかね」
「ずっとずっと、心配だったけど、もう安心です。確かにお返ししました。ボクの役目は終わったんです」
役目が終わったと言った時の一平の表情を王は見逃さなかった。やり切れない思いが滲み出ているその顔を。
王は言った。
「パールは幸運だった。おぬしのような正義感溢れる騎士に巡り会えて。本当に感謝しているよ」
「転機だったんです。ボクにとっても…。パールに会って、初めてボクは霧が晴れました。自分が何者なのかわかって」
自分が他人と違うことを自覚したのは思い出せないくらい昔の話だ。従兄弟の学や翼と同じ歳なのに、何かにつけて先んじているし、彼らは水の中で息ができないらしい。それをおかしいと思い始めてから、彼はずっと悩んでいたのだ。
その答えを与えてくれるはずの父親は肝腎な記憶をなくしている。本能で水風呂だけは毎日欠かさなかったので、ちょっと変人に思われている以外は、地上の人間とそう変わらなかった。水の中で息ができるのは特異体質だ、くらいに思っていて、一平の疑問に答えることのないままに他界した。
その父が、かつてトリトニアでは英雄視されていたほどの槍の使い手であったと、海へ出て初めて聞かされた。一平は父の死後パールに会って初めて、自分と同類の匂いを感じ取ったのだ。
彼が海に出たのは、自分が何者なのかもっとよく知りたかったからでもあった。希望通り疑問は払拭された。
「おぬしの父上のことはよく知っている。実に残念なことをした」
「だから今度は、自分が何をするべきなのか、探しに行こうと思っています」
そうだ。それしかない。いつまでも女々しく手の届かない女のことを考えていても、何も始まらない。
「ふむ…」
「ここにいても、ボクは異邦人ですし…」
王はおや、と思った。一平の本当の心を垣間見た気がした。
「故郷とは思ってもらえないのかな?おぬしの父親の故郷はおぬしにとっても故郷では?」
しばし考え、一平は答えた。
「今はまだ…。でも、いつかそう思える時が来るかもしれません。ボクの生の源であり、パールのいるここ、トリトニアが…」
余計なことを言った、と一平は口を噤んだ。何か気取られはしなかっただろうか。
「パールには話したのかね?別れはもう言って?」
「あいつには…難しい話はダメなんです…あ、すみません」相対しているのはパールの父親だ。失言にはっと気がつき、説明し直した。「いや、理解できないとか言う意味じゃなく、わかってもらえない。…一応話はしましたが、結局ごまかして宥めたというか…」
ついていく、とまで言われた事は伏せておいた。
「ボクがいなくなった後でこねるかもしれませんが、よろしくお願いします。ボクには手に負えそうもないので…」
なんだか自分の方が保護者みたいじゃないかと思いながらも、頼み込むしかなかった。
「いつか…ごちそうを食べに来るから、とだけ、伝えてください」
もうこれ以上言うまい。未練が残るだけだ。一平は口を噤んだ。
改まった調子で王が言った。
「一平どの」
「はい⁈」
王の声の調子にはっとして、一平は俯きがちだった顔を上げた。
「ちょっとその旅支度を脱いでみてくれぬか」
「え?」
引き止めているのか?と一瞬思った。
「代わりに着て欲しいものがある」
王は自分が戻るまでに脱いでおくよう言い含めて、着て欲しい服とやらを取りに行った。
時間が時間なので、侍従も休んでいる。王は自ら別室へ赴いた。
不審に思いながらも、一平は言われた通り上着を脱ぎ、上衣の袖を抜く。
この三年に鍛えられた逞しい筋肉が、一平の胸や背中に盛り上がっている。
戻ってきた王はそれを見て言った。
「素晴らしい肉体だ。我が国のどの男も敵うまい」
水圧があるので地上のようには重力の影響を受けないトリトニアには筋骨隆々な男は少ない。海を旅してきたとは言え、島に上がって休むことも多く、またパールを連れているため、海中でも一人旅よりはるかに気力と体力を要した。遅いくる敵と死に物狂いの戦いを繰り広げることもある。元々地上において鍛え、水泳部に入って筋トレもするようになり、ムラーラではミラの下でハードな訓練を自身に課した。
そういった積み重ねの結果だが、王には珍しかったとみえる。日本人に比べてさえ海人は全体的に小柄であり、トリトン族の男たちは優男ばかりなので、一層一平の体格が際立って見えてしまう。
「………」
なんだか照れくさい。王は続けた。
「無数に走っとるな。傷跡が…」
「はぁ…」
「みな、この三年間でついたものか?」
「ええ、まぁ…」
「向こうを向いてくれぬか」
「⁉︎」
訳がわからぬまま向き変えた一平の背中を見て、王が大きく頷くのがわかった。
「おぬしは真の勇気を持った男だの。この傷跡を見ればよくわかる」
「え?」
「胸や腕には無数にあるのに、背中にはひとつもない。これは敵に後ろを見せたことがない証拠だ」
そう言われればそうかもしれない。なぜなら、いつも一平の後ろにはパールがいたからである。
「パールには傷跡ひとつない…。もちろん、かすり傷ぐらいは作っただろうが、後々に残るような傷は何一つ…」
「王さま…」
「全部、おぬしがその身に引き受けてくれたのだろう。ありがたいことだ」
「王さま…」
そんなに感謝されることだとは思っていなかった。使命感のようなものはあったが、基本的には自分がやりたくてやったことなのだ。得体の知れない人魚などという生き物は放っておいてもよかったのだから。だが、それは一平にはできなかった。
海に出たのだって、誰かに命令されたのでもなければ頼まれたのでもない。パールをひとり放っておけなかっただけだ。自分で選んだことの結果なのだ。
「…これを…身に付けてほしい…。おぬしにこそ、相応しい」
王はそう言って持ってきた衣装を差し出した。青と白が基調の軍服のようだった。小さめの詰襟があり、脛当て、小手当て、マントなどもある。
「これは?」
「青の剣というのを知っているか?」
知っているはずがなかった。一平はトリトニアには新参者。ここの世事や常識には疎い。
「いいえ」
「わが国には三本の宝剣がある。赤の剣、白の剣、そして青の剣だ。赤の剣は帝王、すなわち王である私が治める剣、白は知識を司る文官の知恵袋の象徴。そして青の剣は揺るがぬ武力を意味する。それぞれの長が所持し、守られれば、このトリトニアは安泰と言うことになる。この衣装は、その青の剣の守人が着用するものだ」
「王さ…」
「私はおぬしこそ青の剣の持ち主に相応しいと判断した。これを着て、我がトリトニアを共に外敵から守ってくれ」
「……」
思いもかけない話に、一平は呆気に取られた。
「但し、青の剣を守るためには、トリトニアに住むことが条件だ。この国の者でなければ許されない」
王は一平にトリトニアを出て行くなと言うのだ。
「王さ…ボクは…。ボクは純粋なトリトン族ではないんです。地上の人間との混血です。それを承知の上で言われるのですか」
自分の力を認められているのは嬉しかった。だが、一平にはまだ拭い切れない拘りがあった。
「おぬしは立派にトリトン族の一員だ。成人の年齢にも達しておる」
「でもまだ何も…。トリトニアのことも何もわかっていないのに…」
「そういう事はおいおい身につくものだ。青の剣の主に何より必要なのは、努力もそうだが、勇気なのだ。私はおぬしの中にそれを見た。自分を律する強靭な心もな…」
王は淡々と一平を説得する。その言葉にはお世辞や偽りは感じられなかった。
「一人で守れとは言わん。パールと二人ではどうだ?」
「は?」
「赤の剣の両翼は私とシルヴィアで守っている。青の剣の両翼は一平どのとパールとで守って欲しい」
宝剣はつがいで守るもの。夫婦の絆の強さが守りを強めると王は説く。
「王さま…」
「シルヴィアも言っとった。パールはよほど一平どのが好きなのね、と…。私はおぬしの方こそパールに熱を上げていると踏んだが違うのかね?」
何もかもお見通しと言うわけだった。しかしこんなに物わかりのいい父親がいるものだろうか。行方不明になって長い娘がやっと帰ってきたというのに、こんなにあっさりと他の男の手に委ねようとするなんて。
「いつまでも返答せぬと、この話は反古にするぞ」
萎え切らぬ一平に対し、意地悪く王は言った。
(そんなこと言ったって…)
突然降って沸いたこの話に一平は大いに戸惑っていた。事は重大だ。トリトニアの三大柱のひとつになれと言われているのだ。まだ二十歳にも満たない新参者の自分が。しかも欲してやまぬパールのおまけ付き。
「何をするべきか探していると申したな。試しにやってみてはどうだ?なに、今すぐ要職に就けと言っているわけじゃない。青の剣の守人になるには、それなりの勉強も修行も必要なのだ。試験もある。大神官による宣旨が降りなければ、青の剣に触れることも叶わぬのだ」
(…それならそうと先に言って欲しいよ。いきなりびびるじゃないか)
ちょっとほっとしたが、よく考えるとむしろその方が大変だ。
「まあ、だめだったらパールのことは考え直すしかないが…」
「えっ?」
話がうますぎた。青の剣の守人の座を得られなければ、パールをも失うことになるらしい。
「どこの馬の骨とも知れぬ男に無条件で娘をやれるはずがないだろう」
きつい一言だが、目は笑っている。かつての恩師の息子が馬の骨であるわけがなかった。
王に弄ばれながら、一平は迷いまくった。
魅力的な話だが、いまいち踏ん切りがつかない。第一パールはこのことを知っているのか?あのシェリトリとかいう求婚者のことはどうするんだ?
「王さま…パールには既に求婚者がいると聞きました。その事はどうお考えなのですか?」
まさか、あいつと自分を競わせようと思ってるわけじゃないだろうな、と、不吉な考えが頭を過った。
「おぬしは戦う前から逃げ出すような男なのか?」
逆に問われた。
「それは…」
できることならこの世から抹殺してやりたいと一平は思った。
「あれも昔はまあまあな男だったのだが、近頃ちょっと評判が悪くてな。噂ばかりで真偽のほどはわからんのだが、パールを嫁にやるのはちょっと考えものなのだ。…奴も武道には長けておる。青の剣の守人に立候補しないとは言い切れんな」
「では…」
パールを間にしてそいつとやり合うこともなくはない、と言うことだ。
また、こうも言った。
「実は…パールの捜索には懸賞金が懸けられていた」
「懸賞?」
「そうだ。バールの行方についての情報提供者には五十ガイ、首尾よく連れ戻ったものには三百ガイの賞金がな」
一平はあんぐりと口を開けた。
「おぬしは知らなかっただろうが、おぬしは三百ガイを貰う資格十分というわけだ。明日にでも進呈しようと思っていた」
そんなものは欲しくなかった。知っていたら、パールをトリトニアに連れてきたりなどしなかったかもしれない。欲しいものはただひとつ、パールの心だった。金で買えるものではない。
「だが、おぬしは受け取るまい?」
王の弁は意外だった。なぜ自分の考えがわかるのだろう。
「…そんなもの…」
鬱陶しそうに呟く一平に、王は満足そうに頷いた。
「代わりにパールを所望してはどうだ?おぬしになら喜んで差し出そうぞ」
冗談じゃない。そんな軽率な真似ができるもんか。おとぎ話によくある話だが、実際に自分の身に起こってみると、そう簡単にはいそうですかといただくわけにはいかなかった。
「あなたは…パールの値段が三百ガイだと言うんですか?父親のあなたが…」
一平は怒っていた。王に対していると言うことも忘れた口を利いた。
怒りをぶつけられた王の方は嬉しそうに笑っている。
(何なんだよ、この人は…)
「そう言うと思ったぞ。ますます気に入った」
「は…?」
王は試しているのだ。一平が娘の婿がねに相応しいのかどうか、青の剣の守人となる資格があるのかどうかを。
全く、無邪気な顔して食えない父娘である。一平を翻弄することにかけては、二人とも天才的だった。
「賞金の代わりに、姫を…と言ってくれれば、一も二もなく皆を黙らせることができて、こちらとしては楽なのだが…。あの求婚者の父親とは、ちょっといざこざがあってな。こちらとしても、無下に断るわけにはいかんのだ」
自分の力でなんとかしろと言っているのと同じだった。もちろん自分の問題なので当たり前なのだが…。
しかし、大体パール自身の意思はどうなるのだ?そいつのことなんか少しも好きじゃないかもしれないじゃないか。それでもパールには断ることができないってことか?
が、それに関しては、一平自身にも同じように跳ね返ってくる。パールが自分を慕ってくれているのは自惚れかもしれないがよくわかっている。が、結婚とか青の剣のこととか考えたことなんかあるのだろうか?
一平は言った。
「パールの意思は…どうなるんです?青の剣の比翼候補は他にいないんですか?」
「立候補は誰でもできる。ただし、青課で武道を学び、軍に籍を置く必要がある。武道のことを何も知らずに長を務めることはできぬからな。その上でトリトン神より審査があるのだ。また、候補者の連れ合いは自動的に守人の一人となる。独り身で守る場合もあるが、精神の安定のため、実力発揮のためには妻や夫がいた方が好ましい。…パールの意思については…私は何も問題ないと思うが⁉︎」
―娘がおぬしを慕っているのを私が気づかぬとでもお思いか?―
横目で見やるオスカーの目はそう語っている。我知らずドギマギしてしまう。一平はやっとのことで言った。
「とにかく…話させてください。パールと。確認したいこともあるし、お返事はそれからにしていただけないでしょうか」
「それはいいが…。何を確認したいのかね?相談などする必要がおぬしたちの間にあるとは思えないが…」
応援しているのか、からかって楽しんでいるのか、真意の掴みどころのない王を、一平はいつかギャフンと言わせてやりたいと思った。




