第十八章 辣腕王妃
「パールティア姫が見舞いに来られたのだと?」
領地の見回りから帰ったこの家の主人が奥方に尋ねた。
ベニーノと言う名の商人だ。豪族でもある。
ここトリトニアでは商人であれ、職人であれ、軍人であれ、功さえあれば国から領地を賜ることができる。国への貢献度に見合った報奨金が何代にも亘って支給される。それで充分裕福な暮らしが保ってゆけるので、貴族階級の世界によくあるような奴隷制度等はない。
三代前の祖先が王宮の手直し工事の際、石切場からよい石の調達を受け負い、業績を認められて禄をもらっている。シェリトリの曾曾祖父に当たる。その後も石切りの事業の運営を維持しているが、新たに功績がなければ八十年で自動的に禄は切れる。その期限が数年後に迫っていた。現在事業を引き継いでいるのが、ペニーノ。シェリトリの父親である。
ペニーノは恰幅がよく、口の周りに髭をしたためていて、目つきに隙のないこずるそうな人物だった。奥方のハンナも贅沢をして栄養がいいのか小太りで、せっかくの美しい顔立ちが生かしきれていない。露出度の高いドレスを着ているので胸の谷間がはち切れんばかりにひしめいている。
「おいでにはなりましたけれど…」
歯切れの悪い返答に、ペニーノは眉を顰めた。
「何だ?」
「いつ、お帰りになられたものか…とんと気がつきませんでしたの。姫さまが挨拶もなしに訪問を切り上げるなどあり得ませんのに…」
「黙って帰ったと言うのか?」
「ええ。少なくとも私には一言も…」
「シェリトリは?」
シェリトリの見舞いに来たのなら、本人に聞くのが一番手っ取り早い。
「それが…なんだか、機嫌が悪くて…何を聞いても知らん顔で…」
「いつまでもガキのように、困った奴だ。わしが聞き出してやろう」
シェリトリの母親は、放ったらかしにしているくせに子どもには甘く、欲しい物は何でもすぐ与えて育ててきた。そのせいか、母親に対しては高飛車で、わがまま放題を言いまくるのだ。
息子の部屋を訪れ、ベニーノは奥方に言ったのと同じことを尋ねた。
「来たよ」
シェリトリの返事は素っ気なかった。
「母さんは姫が黙って帰られたと言っているが、そうなのか?」
「……」
「どうなんだ、と訊いている!」
「…わかんねえよ。でも、多分そうなんじゃないの。そっから急いで帰ったから」
シェリトリはバルコニーを指差して仕方なさそうに答えた。
「バルコニーから?なぜだ?」
泥棒じゃあるまいし、仮にも一国の王女がそんなはしたない真似をするとは考えにくい。些か突飛なところがなくもないとは聞き及んでいるが、礼儀作法は王族であるための第一条件として幼いうちから教え込まれているはずだ。
だとすると、シェリトリが不作法を働いて王女の怒りを買ったか、狼藉を働いたため逃げ出したか…。考えられるのはそのくらいだ。
「…一体、何をしでかしてくれたのだ?シェリトリ。まさか、王女に手を出したのではあるまいな?」
不吉な予感がして、ペニーノは息子に詰め寄った。
「な…んだよ…。いつも言ってるじゃないか、親父も…。パルティア姫をその気にさせるにはああしろ、こうしろって…」
確かに知恵を授けた事はある。だが、相手は彼にも王女だ。踏み込んでは許されない範囲というものがある。しかも王女のパールティアは極端な世間知らず。シェリトリの出過ぎた行為を憚ることもなく侍女や両親に話してしまう可能性が極めて高い。
「正直に言うのだ。けしからんことをしたのなら、早急に手を打たねばならぬ。王の耳に入る前に。…まさか手込めになどしておらぬだろうな⁉︎」
ペニーノはシェリトリの胸ぐらを掴み上げて詰め寄った。
「ちょ…ちょっと触っただけだよ…ほっぺにキスぐらいはいいだろ⁉︎」
この息子がその程度で済むはずがない。ペニーノには読めていた。
「触った場所が問題だ。王女に拒否されたのならなおさらだ」
「触りたいとこなんか決まってんだろ?いちいち言わなくたって。…大体たった一人で男の部屋に来る方がいけないんだ。こっちだってその気だって思うじゃないかっ‼︎」
自分を正当化することにかけてはシェリトリは達人だった。ペニーノの方も、それもそうだと頷いてしまう。
いくら世間知らずといっても、王女の行動が些か軽率に過ぎたことには異論を挟む余地がない。自分が同じ立場であったとして、脈があると誤解するには十分な材料であったと思えた。
だが、市井の女ではない。遊び女でも下働きでもない。相手は王女なのだ。
(全く…。王女もなんという軽はずみなことをしてくれたのだ。シェリトリが王女に気があることは折につけ耳に入るようにしていたというのに、なんと無防備な…。供の一人も連れずに見舞いに来るなど、前代未聞だわい)
息子の女性関係が広いことも普通ならとっくに聞き及んでいるはずだ。なのに何の警戒もしていなかったとは…。つくづくお子様なのか、考えづらいが逆に手練れなのか…。
いや、いくらなんでも王女のあの外見からはそうは思えない。
とにかく…探りを入れなければ。
直に王女に会って、気持ちを聞かねば。
シェリトリに対して勘気を蒙っているのであれば、何としてでも誤解(? )を解かねばならない。シェリトリを連れて行くのはおそらく逆効果であろうから、内密に、自分一人で行かねばなるまい。
「とにかく…おまえはしばらく外出禁止だ。特に王女の前に顔を出すことは許さん。…尤も、その状態では無理だろうがな」
大分気分がいいとはいうものの、昨日までは高熱が続いていたのをペニーノも承知している。
「何もこんな時にスケベ心を出さずともよさそうなものを…」
「どう…するんだよ?まさか謝りに行け、とか言うんじゃないだろうな⁉︎」
不安に駆られ、シェリトリが問う。
「ばかもの。謝ったりしたら、こちらの非を認めることになるではないか。負い目を作って取り入ったとて、何の得がある?姫を思い詰めたが故と言いくるめて、お怒りを解くのだ。うまくいけば、一気に進展させることもできるかもしれぬ。姫の心をこちらに向けなければ」
「まだ…気を引かなきゃなんないの?」
シェリトリは眉間に皺を寄せて呟いた。
「どうした? いつになく気弱だな⁉︎」
今までにない消極的な反応を、ペニーは訝った。
「もう…やだよ…。パールって、てんでガキだし、胸だってないし、他に好きな奴だっているんだぜ」
「あの、一平とか言う大男のことか?気にするな。所詮はよそ者ではないか。姫の恩人ということで一目置いているだけさ、王は」
「でも…パールは僕を拒絶したんだ。このペニーノの息子の僕を。美と富を兼ね備えた僕を袖にした女なんか、今まで一人もいなかった。許せないよ」
あの不可思議な衝撃だけでなく、シェリトリはブライドという部分にも大きな打撃を受けていたのだった。
「それに…なんだか知らないけど、すごいことができるんだ、あいつ」
「すごいこと?」
「僕が言い寄ったら…身体から何かを発して、突き飛ばしたんだ。痺れと痛みで身体が硬くなって、一瞬気を失った。キスしようとしただけであんな目に遭うのなんか、ごめんだよ」
しようとしたのは、キス以上の事だったことはシェリトリは敢えて口にしなかった。
「それは…ふむ…。それは少々問題だな…」
ペニーノは考え込む。
「あれじゃあ結婚できたって手も握らせてもらえないよ。一生お預けなんて嫌だよ。子どもだって作れないし…」
「…昔語りに聞いたことがある。そういう力を持つ人々のことを」
海人たちは、物を作り出したり変化させたりするために精神の力を使う。一般人にはそれほど大きな力はないが、修練を積んだものは念動の力で金属を変形させたり、海藻から取った繊維を盛り上げるための細かい作業ができるのだ。メーヴェが身に付けたような、身体の中を診たり生気を送り込んだりする力も、その源と原理は同じだった。
パールが身の裡に持つ癒しの力も気持ちのありように大きく左右される。他者を労り、救いたいという思いがなければ発揮し得ないものなのだ。今回は、それが逆の力に働いたと見られる。意識してやったことではないにしろ、頻繁に起これば、また磨きをかければ、大きな攻撃の力と化す可能性を秘めていた。
ペニーはそれを恐れた。
数多ある伝説の中に、そのような力を持つ者は確かに存在したと伝えられるのだ。また、そういう者たちは特別な存在であるという徴を身体のどこかに持っていると言う。簡単には持ち得ない偉大な力の証は、黒子だったり痣だったり、小さな奇形だったりと一定していないが、必ずあると伝説は謳っている。
あの貧弱な王女によもやそのような力があろうとは思えなかったが、かわいい息子を傷つけられるのはさすがにいい気持ちはしなかった。自業自得であることなど、すでにペニーノの頭にはない。事実を揉み消すことが第一だという考えでいっぱいであった。
時は既に遅かった。
あのパールが怖い目にあったことを誰にも話さずにいられるわけがなかったのだ。
だがその相手は、一番に心を寄せる一平ではない。
一平には既に泣きついて慰めてもらってはいたが、言われて悲しかったことしか伝わっていない。何をされたかについては、母親であるシルヴィア王妃に打ち明けていた。
シェリトリがしようとしたことを、一平も心の奥底では望んでいるなど思いもよらないが、かといって、このことを一平に話すのに抵抗があったわけでもまたなかった。パールにとって重要だったのは、自分たちが本当の意味で好き合っているのではないという指摘を払拭することだったのだ。
昔からのシェリトリとの経緯は、母の方にこそ報告する意味があるとパールは考えていた。自分の友達と言うよりは、父母の仕事関係の知り合いと言うニュアンスが強い。付き合い上、お見舞いのお返しに行った、ということは母に知らせておくべきことだった。
報告をすれば当然反応はどうだったかという話になる。シェリトリの下心には神経質なくらい注意を怠らなかったシルヴィアとしては、相談もなく思いつきで見舞いに行ったと聞いてひどく心配になった。
パールは導かれるままに、あったことを口にする。
その行為がどういう意味を持つものか、パールが理解しているとは思えなかったが、シルヴィアは次第に眉を曇らせ、嫌悪感をその瞳に上せた。
(なんと言うことを…)
十三になったとは言え、やっと成人したばかりの汚れない初心なの娘に―しかも王女という高い身分にある―汚らわしい手を触れたなど、許しておけるものではなかった。
シルヴィアにとっては、パールは目の中に入れても痛くないほど可愛い一人娘。自分の腹を痛め、必死の思いで産み落としたにもかかわらず、生命の火が弱く、全てを捧げて守ってきた大事な娘なのだ。しかもパールには想い人がいる。彼女をこの上なく愛し慈しんでくれる誠実で逞しい若者に、心から恋い焦がれ、妻となれる日を待ち望んでいる。
一平が知ったら、なんと思うだろう?
守人の試験に通るまで肉体関係を持つなと王に釘を刺されていることを王妃は知っていた。言われるまでもなく、育ちきらない恋人には行き過ぎた振る舞いなどしない男であることもわかっていた。それほどに、一平はパールを大切に思っているのだ。
シルヴィアは確認をとる。
「そのことは、一平どのにお話ししなかったの?」
「え?」
パールは言われて初めて気づいたかのような表情である。
「…うん。しなかった。…した方がよかったの?」
シルヴィアは静かに首を振る。
「そういうことは殿方に聞かせるものではありませんからね。正しい選択でしたよ」
どうしようかと迷うことさえなかったのだろうと思いながら、シルヴィアはわざと褒めてやる。
この娘にはそれがいい。口止めするよりも、よくやったと褒めてやる方が、あれこれ考え込まなくて済むだけ有効なのだ。思った通り、パールは誰もが魅了される天使の微笑みをその面に浮かべた。
「パール、よくわかんないけど、シェリトリを突き飛ばして逃げて来ちゃったみたいなの。それはいけないことだよね?ママ⁉︎」
それは気になるらしい。他人に手を挙げたこと、礼儀を欠いてしまったこと、の二点だ。
「そうですね。仮にも彼は病人だし、ペニーノの奥様もびっくりなさったでしょう。母の方からお詫びを申し上げておきましょうね」
「パールはしなくていいの?」
「まず、非はあちらにあるのですからね」シルヴィアの目が剣呑に光る。そのことだけは許せない。パールが無事だったからよかったようなものの…。「あなたはもう心配せず部屋に戻りなさい。全ていいように計らっておきますから」
「はい…」
母に任せておけば、心配はないのだ、とパールは素直に頷いた。
夕刻、シルヴィアはお忍びでペニーノの館を訪れた。
ベニーノも奥方も、ついでに言うなら寝台の中で不貞腐れていたシェリトリも大慌てである。こちらから出向いて非を問うつもりが、逆の成り行きになってしまった。それだけでも分が悪い。
「これはこれは…王妃陛下。わざわざのお運び恐れ入ります。また今日は一体、どのようなご用件で…」
王妃の対応には、ペニーノが一人で当たった。
「言わずとも、察しているのではありませんか?」
冷や汗を垂らしながらペニーノはとぼける。
「一体…何のお話でしょうな?」
「昼間、我が娘パールティアがこちらのシェリトリどのを見舞いに訪れたはず。その折の話で参りました」
「ほう、それは…。さようでございましたな。妻から聞いてはおりますが、生憎と私も留守をしていたもので。しかとはわかりませんながら、何やら姫のご不興を買ったようで…。暇乞いもなくお帰りになられたとか…」
「ではペニーノどのは詳しい内容をご存じないとおっしゃるのですね。それなら私の方から申し上げましょう」
シルヴィアは滔々と流れるように述べ立てた。
たおやかで美しいと評判の女性だったが、その口振りは厳しかった。下品な話にならぬよう言葉を選び、順を追って整然と事の是非を問い質した。
はっきり返答しなかったシェリトリからは、ペニーノはこうまで詳しくは聞かされていない。そうではないかと思ってはいても、女である分、シェリトリよりも言葉を選んで当たり障りのない話をするだろうと考えていたが、当てが外れた。見た目同様、公けにしていい話とそうでない話との区別がつかぬほど子どもなのだ、と王女のあまりの幼さに呆れ返った。
「それは…パールティア姫ご自身がおっしゃられたことで⁉︎」
「無論です。あの娘は嘘を吐ける子ではありません。それに、女性の方からわざわざこんな醜聞を、故もないのに聞かせるはずがないでしょう。ご子息に確かめさせていただきとうございますわ。シェリトリどのはどちらに?」
「いや、その…拙息はまだ病が篤く、伏せっておりまして…」
見え透いた言い訳をするペニーノをシルヴィアはジロリと睨みつけた。美しいだけに、そうして毅然とすると凄みがある。
「それでは、女子に狼藉を働いた故の知恵熱と受け取ってもよろしいのですね」
「いや、その…」
「姫は気に掛けておりました。つい、シェリトリどのを突き飛ばしてしまったが、大丈夫だっただろうかと。奥方様にご挨拶もせず申し訳なかったと。普段の姫ならば決してそのようなことは致しますまい。動揺した故の反応です。事実、息を切らして急ぎ戻り、身内の者が落ち着かせるのに大変な思いをしましたのよ」
「お身内の…」
シルヴィアはそれを『一平』だとは言わなかった。パールにとっての身内とは、父母である国王夫妻、そして弟のキンタ王子を指す。同じ王宮内に起居する居候の一平のことは身内も同然と思っているが、ここではわざと『身内』という言葉を使って、国王もこのことを知っているぞと匂わせたのだ。
その目論見は当たって、ペニーノは顔色を変えていた。
心なしか手が震えている。
対するシルヴィアは、落ち着き払って次の手を打った。
「…ご安心なさい。王の耳にはまだ入れていません。けれど時間の問題でしょうね。王宮の侍女どもにはお喋り雀が多いから」
ペニーノはますます青くなった。このことが王の耳に入ればベニーノはおしまいだ。王妃以上に娘を可愛がっている国王の怒髪が逆立つのが目に見えるようだ。王族に手を掛けようとしたのだ。逆賊と罵られ、禄を取り上げられて処分されても文句は言えないのだった。
「どうか…それだけは…」
歳のせいかだぶついた腹を深く折って、ペニーノは頭を下げた。
「息子にはよく言って聞かせます故…。どうか王にはご内密に…。もう決してシェリトリをパールティア姫には近づけさせませんから」
「言質というのはあやふやなものです。私としてはできれば行動で示していただきたいものですわ」
「行動…と言いますと?」
「今年の禄は例年通り差し上げましょう。ちょうどガラリアに隣接の領地に物見処を建設予定です。そこの指揮を願い出なさい。もちろん、一族郎党引き連れてです。今後姫の前に姿を見せなければ、このことは不問に付します。それでいかがです?」
ペニーノ親子はずっと目障りだった。虎視眈々とパールを狙っているのがよく見えて、シルヴィアの心配の種は尽きなかったのだ。遠方の地へ左遷できれば厄介払いになる。しかも自ら願い出てということになれば、王家に傷もつかない。オスカー王に余計な気苦労をさせることもない。
「…御意に…ございます…」
ペニーノは項垂れて声を絞り出した。
禄を召し上げられるより、命を取られるより、遥かにマシだ。
どじったが、辺境の地でも主ができる。今のところはそれでよしとしようと、無理矢理自分を納得させた。
翌日、早速に転任を願い出たペニーノにオスカー王は目を丸くしたが、快く承諾の断を下した。
いつもギラギラと脂切った目つきのペニーノが妙に神妙なのを怪訝に思ったが、オスカーにとっても願ってもない申し出だった。ガラリア方面は海底火山も多く、資源があまり豊かでないため、着任を渋る者が多いのだ。
それでも、隣国ガラリアのガラティス王は油断のならない人物であり、あんな痩せた海でも隙あらば手に入れて領土を広げたいと常々狙っている。ポセイドニアでは領土の侵犯は禁止されているというのに。敵情視察のための物見処の建設は、前々から必要を叫ばれていた。
加えてベニーノの祖父は石切りの目利きで財を成した人物である。息子のペニーノにそのノウハウが受け継がれていることも知れていたので、適任ではあったのだ。
会見を済ませ、支度のため謁見の間を後にするペニーノの背中を見ながら、オスカーは呟いた。
「手妻を使ったのはそなたか?」
「はい⁉︎」
「どういうからくりがあれば、このようなことができるのだ?」
ペニーノの申し出に耳を傾ける間も、特に驚いたふうでもなく淡々としていたシルヴィアのことを、何かあると勘づくことができないほどオスカーは間抜けではない。自分の知らない所で密かに何かが進行していたのだということは明らかだ。あの強欲で名誉欲の旺盛なペニーノが、あんな辺鄙な建設現場へ一族もろとも移り住む、などということが簡単に起こるはずがないのだ。
ベニーノが、年恰好の合う息子のシェリトリを使って王家と縁籍関係を結ぼうと画策していることは昔からわかっていた。
国から支給されているペニーノの禄は、シェリトリの代に代わる頃に切れる。自分の代でお粗末な末路を迎えることになるのを避けるために、彼が考えついた手段が王女に取り入ることだったのだ。病弱な王女には親しい友もなく、うまくやりさえすれば、気持ちをこちらに向けられる可能性は高かった。王女の婿に入れれば王家とは親戚だ。しかも王女は身体が弱いので、早逝することがなきにしもあらず。大して美しくもなく、取り柄もこれといって評判にはならぬ、幼くて床に伏しがちな女房など、金と地位を手に入れてしまえばいつまでも必要ではない。それこそ好都合なのだ。
蛙の子は蛙というか、よくしたもので、息子のシェリトリも父のペニーノの意図をよく汲んで、指示通りに何かとパールにちょっかいを出していた。
ペニーノ親子の目論見は、そう突飛な考えではないが、惜しむらくはそれが見え見えであるということだった。人を見る目の優れたオスカーでなくとも、充分に下心を読み取れるほどのあからさまなアプローチであったのだから。
だが、暗殺を企てるとか、人を蹴落としてとって代わろうとかいう悪質さとは程遠い。シェリトリはパールに求婚したいのだ、という主張だけをとってみれば、どこも悪くもおかしくもない。
しかも、これまでは子どもの戯れ事の域を出ないと解釈できる範囲の言動に留まっていた。そのため、咎めることも面と向かって拒否することもできず、現在に至っている。ペニーノの側に落ち度がなければ、オスカーはどうにもこうにも動けないのだった。
それが突然のこの展開である。
王妃が昨日王宮を留守にしたことは知っていた。
これは王妃が一枚噛んでいるとオスカーが気づくのは、当然と言えば、当然だろう。
オスカーの言葉に責めのニュアンスはない。この成り行きが不思議でたまらないが、シルヴィアが何かの手を打ったのなら、ぜひ知っておきたい。が、聞かない方がよい、という考えも同時に存在していた。
従って、単刀直入に切り込むことはせず、独り言のように呟いたのだ。
オスカーの問いを当然のものと受け止めたかのような落ち着いた微笑みを、シルヴィアは浮かべていた。
「私は手妻師ではございませんわ。ほんの少し、交換条件を出しただけのこと。相身互いの取引をしたのに過ぎません」
「交換条件…。それは…」
一体何を、と尋ねたいが、口に上せるのはためらわれる。
それを察してシルヴィアが制する。
「ご心配には及びませんわ。陛下の名を辱めるような真似は決してしておりませんから」
彼女がそう言うのならそうなのだろう。淑やかでおとなしやかに見えても、芯の強い真っ直ぐな気性の気の回る女性であることは、夫であるオスカーが一番よく承知していた。
この頭の回転のよさを、自分の補佐役には必要欠くべからざるものと認識したのは、遥か遠い昔の話であった。
「やはりそなたには、頭が上がらないな」
オスカーは国王ではなく一人の男性の目をして愛しい妻を振り返った。




