第十七章 嫌悪
パールがシェリトリを訪れた時、彼は眠ってはいなかった。雅な色合いのイソギンチャクを手に、はにかみながらシェリトリの部屋に足を踏み入れると、寝台の上に起き上がって手にした鏡を覗き込むシェリトリの姿が目に入った。
シェリトリはお洒落だ。成金趣味なところが少々難ありだが、身嗜みに気を違うというのはトリトニアの紳士の条件の一つだと言うから、美徳の部類には入るのだろう。少々長引いた病のせいで己の美貌が損なわれていないかと確かめる元気が出てきたということは、何であれ喜ばしい。
「バール‼︎」
客人の顔を見ると、パッと顔を輝かせ、シェリトリは叫んだ。
「…こんにちは。…シェリトリ。お加減はいかが?」
「ああ…君が来てくれるなんて…思ってもみなかったよ。最高だ。もう、これですっかり治ったさ」
大袈裟だがまんざら嘘でもなさそうだ。
「あの…これ、お見舞いなの。パールも寝込んだ時、これを見たりつついたりしてずいぶん気を紛らわしたものだから…」
パールの持参したイソギンチャクは直径十センチ、高さが八センチほどある。触手を広げれば、その倍には膨らむ。海人に害はなく、加える刺激の加減によって微妙に動きを変える、見ていて飽きない、しかも美しい生物だった。地上で言うなら、花束か置物のような役割か。
「前とは逆になっちゃったな。…ありがとう、大事にするよ」
イソギンチャクを受け取り、シェリトリは寝台の脇の棚に隙間を見つけ、手を伸ばして飾った。
寝台に戻っても、横になる事はせず、腰掛ける。
パールにも手招きをして隣に座るように誘った。
「…本当に、もういいの?シェリトリ⁉︎」
さすがのパールも、昨日まで高熱を出していた者が言うには無理があると思っている。
「パールね、ちょっとだけ、癒しの力があるんだって。だから、シェリトリにお歌を歌ってあげようと思ったんだけど、その必要ない?」
「あぁ、そうだなぁ…」
シェリトリはしばし瞳を宙に彷徨わせて考えた。評判の癒しの歌を生で聴くチャンスだと思ったが、ちょっと引っ掛かるところもある。それに、もう病も回復期に入ってきていた。
彼は言った。
「いいよ。眠くなっちゃうんだろう?パールの歌聴くと」
「…うん…」
パールの瞳に影が差す。どうやら修練所で破門になった話は有名らしい。
「せっかく来てくれたのに、寝ちゃっちゃ、ざまないからな。それに、お客様の前で高鼾なんて失礼だろ?」
「そう…だね…」
「そんなことより、せっかく二人きりなんだ。もっと楽しいことをしようよ」
「もっと楽しいこと?」
「そう、例えば」
こういう…というのを、シェリトリは行動で示してきた。パールの肩を掴んで自分の方に向き変えさせ、顔を近づける。
(え?)
まず、頬に唇をつけた。
パールがびくっと身体を震わせる。
パールはよく一平以外の人にもキスをするが、唇にではない。彼女が唇以外の場所にするおまじないのキスとは明らかに違っていると、本能的に感じた。その感覚には、危険な予感というものが微かに含まれていた。
それを証し立てるかのように、シェリトリは本能を剥き出しにする。戸惑うパールを寝台の上に押し倒し、己の身を被せてきたのだ。
―‼︎―
身内以外の人とこういう体勢になるのは初めてのことではない。かつてムラーラで同じようなことがあった。
ムラーラでパールを身体の下に敷いたのは、誰あろう一平であった。しかし、押し倒したと言うのとは少し違う。彼の目的はシェリトリのそれとは全く異なるところにあった。自分がいかにパールの身体のことを心配しているか、そのことを言葉ではなく伝える手段として、全身で触れることを選んだのだ。
結果、一平の思いは見事に伝わった。まるで耳元で囁いているかの如く、一平の気持ちは思念となってパールの心に流れ込んできた。切なく温かく、優しい思いが。
だが、今は違う。同じ体勢でいても、シェリトリからは何一つパールの心に響いてくるものは感じられない。ただ強引で一方的な心のない行為であり、邪なものさえ感じさせる。
シェリトリは興奮していた。
一週間の闘病生活は溜まるものも多かった。
やっと体調を取り戻しかけた時を待っていたかのように、彼の手に入れたい王女が自分の部屋を訪れてくれたのだ。しかもたった一人で。パールを見舞った時に、いつも見張るかのようにそばにいた邪魔な王妃は今はいない。
このチャンスを逃してなるものかと、シェリトリが咄嗟に考えたのも故のない話ではなかったのだ。
シェリトリはパールの身体を弄っている。成人したばかりの少女の身体は瑞々しく柔らかで、握り締めたら崩れてしまいそうに儚かった。その認識が余計彼を欲望へと駆り立てる。男を知らぬ身体に烙印を刻みつけてしまいたいという凶暴な欲望がみるみる膨れ上がってきて、せわしなく手を動かし続けた。
(や…)
シェリトリの行動の意味が理解できず、それでも嫌だとパールは思った。シェリトリの唇が再び迫ってくるのを察知すると、一平の戒めの言葉が思い浮かんできた。
―おまえも誰ともするんじゃないぞ―
(一平ちゃん‼︎)
―好きでもない奴にされそうになったらすぐに逃げなきゃいけない―
(ミラ姉さん‼︎)
シェリトリは自分にキスしようとしている。このままおとなしく言うなりになったら尊敬する二人の言いつけを破ることになる。そう判断すると、パールは素早く抜け出した。シェリトリの身体の下から。
「パール⁉︎」
自分の意思など持っていないかのようにか弱く無知なパールを陥すのなど簡単だと思っていたシェリトリは、意外な反応に目を丸くした。
パールは言った。
「だめなの…。パール、強くないから…一平ちゃん以外の人とキスしちゃいけないの」
両の手を互いに握り締めて佇むパールから目を離さず、シェリトリは言う。
「何をわけわからないことを…。来いよ、僕がパールのこと好きだって知ってるだろう?結婚しようって言ったじゃないか」
「…ってない、そんなこと…」
消え入りそうな声でパールは否定する。本当に、覚えがないのだ。シルヴィアによれば、それはシェリトリの一方的な思い込みらしい。
「パールは一平ちゃんが好きなの。…一平ちゃんのお嫁さんになるの。だからごめんなさい…」
こうまではっきり振られるとは心外だ。シェリトリはカッとなる。
「一平って…なんだよ⁉︎あいつなんか…よそ者じゃないか、半分は。王女のバールには全然相応しくなんかない。僕の方がちゃんとした身分だってあるし、親だってちゃんとしてる」
人を好きになるのに、身分だの親だのは関係ないということは、ボンボンのシェリトリにはわからないらしい。
パールは違うと首を振る。
「そりゃ…あいつは三年もパールと一緒にいたそうだけど、だからパールはあいつに恩義を感じているだけさ。好きなんだって、思い込もうとしているだけだよ」
(…違う…パールは…)
「あいつは自分じゃ何ひとつ持ってない。だから、パールに取り入って地位や金を得ようとしてるんだ、きっと」
(違う、一平ちゃんはそんな人じゃない。だって、パールが王女だなんて一平ちゃんは知らなかったんだもん。だけどずっと守ってくれたもん。パールに優しくしてくれたもん。大切だって言ってくれたもん)
涙が溢れてきて言葉にならないので、パールは首を振るだけだ。
「それに、あんな大男、パールには似合わないよ。僕の方がまだ釣り合いがとれてる」
(似合わない⁉︎パールが、一平ちゃんに⁉︎そんなのいや。そんなことない。そんなこと言わないで!)
「僕と結婚しろよ。なんだって好きにできるよ。それに…僕はパールを愛してる」
とってつけたように言われた告白の言葉からは、全く真実の匂いを嗅ぎとることはできなかった。
パールは悟る。シェリトリが甘い言葉で自分を誘うのは、パールのことが好きだからじゃない。身分とか名声とか、パールが王女であることに付随してくる愛情以外の何かに惹かれているからだ、と。
察せられているとは気づきもせず、シェリトリは三度パールに手を掛けようとした。
パールの中で何かが爆発した。
「いやっ‼︎触らないでっ‼︎」
叫んだ途端に何が発せられたのか、パールにはわからない。頬に触れたシェリトリの手の感触が悍ましくて、目を硬く瞑って跳ね除けた。
「うわっ‼︎」
シェリトリはのけ反り、硬直して倒れたが、それを見る余裕もなくパールは逃げ出した。
身体の中を電流が走り抜けていったかのような衝撃に、シェリトリはすぐには起き上がれなかった。脳震盪を起こした後のように、一瞬何が起こったのかわからず、ようやく思い出して、彼はひとりごちた。
「…何だったんだ…今のは…⁉︎」
癒しの力どころか、凶器じゃないか、あれでは、とパールを口説くことの採算性について、本気で考え直し始めた。
シェリトリの部屋からバルコニーを出て庭を抜け、パールは暇乞いの挨拶も忘れてひたすら帰路を急いだ。
(やだ。やだ)
(シェリトリなんか嫌い。パールの好きなのは一平ちゃんだもん)
(お嫁さんにしてくれるって言ったもん。一緒に青の剣の守人になるんだもん)
(パールがキスしたいのは一平ちゃんだけだもん。助けてもらったからじゃないもん。一平ちゃんが好きなんだもん)
頭の中はシェリトリに言われたことに対する反論でいっぱいだった。シェリトリの何気ない一言一言が、パールの繊細な心を容赦なく傷つけていた。
破門されたことに始まって、体格の劣っていることや、一平とは釣り合いが取れないとけなされたこと。バールが恩義を恋だと勘違いしているとの指摘まで、悉くが鋭い刃先となってパールの小さな胸を抉った。
パールの足は王宮へ向く。王宮の奥へ。一平がいつも稽古している三の庭へ。
果たして彼はいた。遠く離れた所からでも、パールにはわかる。微かに届く、大好きな一平の匂いの方向を嗅ぎ取るからなのか、音波を飛ばして探し当てるからなのか。それとも、心の波長が呼び合うだけなのか。
一平は剣の型をさらっていた。どんなに新しい技や力を身につけても、基本をさらうことが肝要だと、初めての師のミラの教えを今も頑なに守っている。
一平は大剣を使いこなす。パールの身長の三分のニはある長くて重い、幅のある剣だ。実践でもなければ滅多に生物に向けることはないが、毎日必ず鞘から抜いて点検し、トレーニングを繰り返している。大剣どころか、料理に使う小型のナイフさえ扱いに窮するパールとしては、触るのも見るのも怖いのだが、この時ばかりはそのことは気にならなかった。一平の姿だけしか目に入らなかった。
「一平ちゃん!」
矢も盾もたまらずバールは呼び掛ける。
「…パール…」
一平は、大剣を下ろした。パールの心中を慮り、鞘にしまおうとする。
だが、そうする前に、パールは一平に抱きついた。
「…おい…」
嬉しいが、いきなりは困る。しかも手には充分すぎるほどの凶器が…。
「ちょっと…」
いくら一平が極上の大剣使いだといっても、万が一ということがある。刃物をしまうから待て、と言うつもりで制止した。
「……」
だが、パールは何も言わずに硬く一平にしがみついている。
パールは無作法な娘ではない。これは何かあったな、と感じ取った一平は、諦めて大剣からそっと手を離した。
砂地の上に大剣が倒れ込む音や気配にさえ、パールは気づいていないようである。ズシン、と重厚な無声音と海水の揺らぐ感覚が大きく押し寄せてくるというのに。
刃物を手放した一平はそっとパールの背に手を回す。優しく叩くように。パールの小柄な身体は、一平の大きな身幅にすっぽりと隠れてしまう。それもいつものことだが、その度一平の心臓はドキドキする。それから、穏やかで全てを許せる寛容な気持ちになれる。パールの存在を肌で感じることが、一平を安心させ、世界中のものに感謝したいほどの幸福感を導き出すのだ。
パールはまるで眠ってしまった幼子のように動かない。それでも眠っていないことはわかる。息が荒いからだ。シェリトリの部屋からここまで、休みなく全速力で泳ぎ通してきたのだから。
「どうした?」
まるで何かから逃げてきたかのような様子のパールに、一平は訝しそうに問い掛ける。
パールはただなんでもないと首を振る。
なんでもなくはないことは誰が見ても明らかだ。
言いたくないからだと想像がつく。
「何か…怖いことでもあったのか?サメが出たとか?シャチか?」
トリトニアが安全とは言っても、そういう凶暴性のある海獣は皆無ではなく、海人とは言え、武器がなければ餌食となる可能性は大きい。
パールはまた首を振る。今日は首を横に振ってばかりだ。だが、首を振りながらパールは思う。そう言えば、さっきの出来事は怖かったのだと。だからどうしていいかわからず、逃げることしか思いつかなかったのだ。
「…パールは、一平ちゃんが好きなの。パールの好きなのは一平ちゃんだよ⁉︎」
そんなことを唐突に言われては、黙って目尻を下げるしかない。
「パールが一平ちゃんを好きなのは一平ちゃんに助けてもらったからじゃないよね⁉︎一平ちゃんに助けてもらわなくても、パールは一平ちゃんを好きになってたんだよね⁉︎」
パールは真顔で訊いてくる。
(…それをオレに訊くのか?おまえは…)
確認する相手を間違ってるぞと思いながら、一平はただ静かに「うん」と言った。それは自分の方こそがパールに尋ねたいことでもあったのに。
パールは一平のことを『好き』だと言う。それは彼女の口から直に何度も聞いている。パールが嘘を吐く可能性などないに等しかったから、それは限りなく真実に近い。しかしなぜパールがこうまで一平に懐き、慕ってくれるのかを考えると、迷子になっていたパールを保護してやったのが一平であるという事実と無関係とは言い難かった。
例えばパールを見つけたのが一平ではなく、学―泳ぐのを止められている翼である可能性は薄い―だったとしたら?もっと大人の村の漁師の誰かが見つけて、事件となった後でパールのことを目にしていたら?
状況は大きく違っていただろう。
パールは学に一番懐いていたかもしれないし、翼の方が先に出会って、彼女を何とかしてやろうと奔走したかもしれないのだ。その結果、一平ではなく学や翼に、或いは他の誰かにパールが心酔したとして、何の不思議があっただろうか。あの状況でなくても、一平はパールを同族と認識できたと、誰に言いきれようか。
「一平ちゃんもそうだよね?一緒に守人になるってことは、パールをお嫁さんにしてくれるっていうことでしょう?一平ちゃんもパールのことを好きなんだよね?シェリトリが言うように、パールが王女だから、うちにはお金があるから結婚するんじゃないよね?」
パールがこんなことを言い出したわけを、一平はパールの話の中から見出した。
あいつが何か言ったのだ。人を疑うことを知らない、この純粋無垢の魂に。大方、一平は金目当てでパールに近づいているとかなんとか吹き込んだのだろう。誹謗されたのは自分である可能性が高かったが、パールの傷つきやすい心が不安に苛まれているということの方に、より憤りを感じていた。
(そっちこそそういうつもりじゃないのか?パールをこんなに動揺させて…何が面白いんだ‼︎)
とは言え、一平が青の剣の守人の座を目指していることは事実である。それはすなわち高い地位や身分を狙っているということと同じとは言えないだろうか。
一平は急に不安になって訊いてみた。
「…そうだったら…どうする?」
パールはきょとんと目を丸くする。だが、すぐに頷いて言った。
「一平ちゃんは初めて会った時から優しかったよ。そんな人だったら、バールは好きになったりしなかったよ」
これだけは自信がある、とでも言いたけに、パールは一平の人柄を保証する。
なんだかこそばゆい。臆面もなく『好き』を連発するパールに戸惑いながら、また、その性格を実に羨ましいと思いながら、一平はただひたすらパールの真剣な顔を見つめ続けていた。
愛しくて、抱きつぶしてしまいたくなる。この信頼溢れる眼差しを裏切り、欺くことなどしてはならないし、したくもないと一平は思った。
「…確かめてみるか…」
知らず知らずのうちに一平は呟いていた。口に出してから間をおかず、彼はパールの唇を己の唇で捕えていた。
パールは逃げない。無条件に彼を受け入れる。
恒例の朝晩のキスとは少し違っていた。心なしか熱っぽく、長い。吸い付くようで、すぐに離れたりはしなかったが、しつこくもない。一平はパールのためを考えて、適当なところでパールを解放する。
優しい目が、「どうだ?」と訊く。
「こういうの…いやか?」
身体中がとろけそうな快感に浸されて、パールは一平を仰ぎ見る。
(嫌なわけないじゃん!)
そう思いながら、バールは別の言葉を口にした。
「もう一回、して⁉︎」
一平の方に異存があろうはずがない。彼は再びパールの心を手中にする。そのキスに味をしめたかのように、パールはその後も何度もキスをねだった。ねだられるままに、パールの気の済むまで、彼は少女を愛し続けた。




