第十六章 ザザ婆
「話ってなんだよ。ザザ婆さま」
キンタがせっかちに訊いた。
「重大なことじゃ。ここだけの話にしたい。よいな?」
ザザの威厳ある態度に圧力を感じ、三人の間に緊張が走る。
何を言いたいのか察して一平が言った。
「昨夜のことですね?」
「ウム…」
ザザは重々しく頷いた。
一平には見当がついていた。変態の間、自分がそばについていたことだ。
「このザザには王女たちの事情はよくわかり申した。しかし、世間はそうは参りませぬ。この事実を知られたら、あることないこと詮索されて不名誉な事態になることは充分考えられます」
ザザの言うことはキンタにも理解できた。だが、肝腎のパールにはどうだっただろうか。パールは黙ってザサの話に耳を傾けている。
「王女、おわかりになりますか。貴方さまは長らくトリトニアを離れておいでになった。学ぶことが一番多い時期にトリトニアの教育を受けられなかったので詮方ございませんが、少々軽はずみな行動でございましたな」
「え…」
「成人への変態はただ一人で乗り越えるべきもの。それが近いとわかっていてなぜこのような行動に出られたのか」
「あ…」
「十三の誕生日前後はもっと身を慎むのが女性の嗜みですぞ」
「…ごめんなさい…」
パールは叱られてしゅんとなった。そういう見方もあったのだと思い知らされた。
「このように危険な場所で大事な変態期に入ってしまったのは不可抗力ですじゃ。事情はわかり申すが、全てを自然の成り行きのせいにしてはなりませんぞ」
「…はい…」
ザザの言うことは言われてみればもっともだった。一平でさえ十三になれば成人するというのを聞いてはいたのだから。
「しょうがねえじゃねえかよ。お姉ちゃんはトリトニアにはいなかったんだからよ」
ムッとして、キンタが庇った。それに向かってザザが言う。
「王子。おまえさまにもご注意申し上げたい」
「な…なんだよ…」
今度はこっちか、とキンタは鼻白んで身構えた。
「キンタ王子は些か言動が軽きに過ぎておられる。まさか今回のことは他の者に話してはおられまいが、今後も心して口に鎖をかけていただきとうございますぞ」
「う…」
「事はおまえさまの姉上の人権に関わること。ひいてはおまえさま自身にも火の粉が降りかかってくることにもなるやもしれません」
ザザの言うように、キンタは王子にしては少々口の利き方が乱暴だし、やんちゃな分口の軽さは自他共に認めるところだ。父王の性質を受け継いだところも多分にあるのだが、自由な育て方の賜物とも言えた。とは言え、教授たちには常々言われていたことでもあったから、ぐうの音も出ないのだった。
「勇者どの…」
「はい…」
勇者と呼ばれることには未だ抵抗があった。国王夫妻は一平の気持ちを汲んで名前で呼んでくれるが、面識の浅い者からはどうしてもこの呼ばれ方をされてしまう。この頃ではいちいち訂正するのもやめていた。
「そなたに関してはこの婆、心配してはおらぬ。たった一人であの功績を成し遂げたのじゃ。意志の強さは証明済みと言ってもよかろうて。念のため申し上げる。昨夜のことは他言無用じゃ」
「無論のこと」
三人の中で一番喋りそうもないのは誰から見ても一平であっただろう。
「国王陛下と王妃陛下だけにはわしより申し上げる。だが、そこまでじゃ。一番心配なのは王女、そなたですぞ」
「パ…パール?」
突然矛先を向けられてパールはどぎまぎしてしまう。
「王女は既に十三におなりだ。今朝めでたく成人になられた。もう名実共に大人にならなければなりませぬ」
「…どうすればいいの?」
「それを自分で考えるのが大人になると言うことなのですぞ、王女」
「……」
黙り込んだ後、パールは言った。
「パール…まだ…大人じゃないんだね?」
やっと成人できたと喜んだのも束の間、ザザはパールがまだ真の大人ではないと言う。それでは…。
「パールまだ…一平ちゃんのお嫁さんにもなれないんだ…」
悲しそうに呟いた。
「そんなことばっか言ってんから、子どもだって言われんだろ!」
苛立たしげにキンタが怒鳴った。全く、どっちが年上だかわからない。
「もっと…しゃんとしろよ!お姉ちゃんのいいとこ、もっとみんなに見せてやれよ!一平だってかわいそうだよ。あんなにお姉ちゃんのこと好きなのに…。ちょっとぐらい触らせてやれよ!」
何を言い出すんだ、と慌てたのは一平の方だった。パールに疑問を抱かせる前にと、真っ赤になって口を挟む。
「待てよ!ちょっと待ってくれ‼︎」
なんでだよ?と挑戦的な目つきが一平を睨んだ。
「婆さま…。パールに知識が欠けているのは…オレにも責任があります。オレが何とかパールを一人前にしますから…ですからここは……」
「勇者どの…」
「あ…はい…」
「何者からも王女を守ろうとするそなたの心がけ、立派なものじゃ」
「いや、そんな…」
「しかし、それが原因の一つではないのかな?パールティア王女の幼さの…」
「えっ?」
「過保護と言う言葉を知っておろう?甘やかしてばかりでは子どもは成長してゆかぬものじゃ。違うか?」
「……」
頭を鈍器で殴られたような気がした。
(パールを幼くしているのはオレか?オレが、パールが大人になるのを阻んでいるのか?)
腑に落ちない話ではなかった。なるほどそうかもしれない。確かに一平には困難なことからなるべくパールを遠ざけようとする傾向があった。昨夜のことだって、何も洞窟の中で守っていなくてもよかったのだ。洞窟の外にこそ、地魅魍魎がうようよしていたのだから。そうしなかったのは、一平のパールに対する甘やかしだったかもしれない。結局自分は何一つパールにしてやることがなかったではないか。
考え込む一平をザザは値踏みでもするように凝視し続ける。
そのザザと一平の間に割り込んだ者がいた。
パールだ。
「一平ちゃんを責めないで!」
一平の前に立ち塞がり、両手を広げてザザから一平を庇うように立っている。座っている一平の目の前には、襞のたくさんとられたスカートが長く揺れていた。
「パールが悪いの…。パールがばかだから…。一平ちゃんのせいじゃない。一平ちゃんはパールにいろんなこと教えてくれたもの。いっぱいいっぱい…」
パールは泣いていた。
「パール頑張る…。たくさんお勉強して…お利口になって…。一平ちゃんが、誰にも恥ずかしくないような女の人になってみせる。だから…だから一平ちゃんをいじめないで…」
その様子をザザは瞬きもしないで見つめていた。
たまらずに一平が立ち上がり、パールの肩を掴んで座らせようとする。
「もういい、パール…。婆さまはオレを苛めてるんじゃない。心配するな。オレは大丈夫だから…」
一平の優しさが肩に置かれた手から伝わってくる。そうするといつだって、パールは一平に抱きついてしまいたくなる。温かい大きな胸の懐に抱かれて安らいでいたい。
今もパールは思っていた。奮い起こした勇気がくじけそうで、一平の胸で支えてもらいたかった。
(…いけないんだ…。甘えちゃいけない…。パールは大人なんだから。小さい子みたいに一平ちゃんの胸で泣いたりしちゃいけないんだ…)
健気にもそう思って、パールは我慢した。絶対に振り向くものかと、唇を噛み締めて耐えていた。
ザザは言った。
「少しは大人に近づいたようだの。パール王女よ」
(え?…)
「わしは見くびっていたようだ。その心の強さがあれば、母となるのもそう遠いことではなかろうよ」
「ザザ婆さま…」
「今の気持ちを忘れるでないぞ。何か困ったことがあったらこの婆を訪ねるがよい。何でも教えて遣わそう。これでもわしも女の端くれだでな」
キンタが目を丸くした。この皺くちゃばあさんがあの美しく淑やかな母や、幼いが可愛らしい姉と同じ女性だなんて冒涜だと思った。
「あと半時ほど休んだら出発しようかの。その前にちょっと腹拵えでもしようかね。勇者どの、ちょっとこの婆の護衛についてきておくれ」
ザザは一平を呼び出すと、共に洞窟の外に出た。
「何かお話があるのでは?」
洞窟の外に出た一平は問いかけた。
「勘のよいことじゃ」
ザザは嬉しそうに喉を鳴らす。
(この男、やはりただ者ではない。オスカー王が見込んだだけのことはあるわい)
話したいことは一平の方にもあった。ザザの用意してくれた場を借りて一言言っておこうと、一平は思う。
「ありがとうございました。これ以上オレには…どうしたらいいかわからなかった…。自分に原因があることにもずっと気がつかないままだったら…」
いずれパールと心の噛み合わない日を迎えていたかもしれない。
「さっきはああ言ったがの。実際には難しいはずじゃ。くれぐれも、転ばぬ先に杖を出さないよう気をつけることじゃ。そなたには難しかろうがの」
確かにそうだ。耳が痛い。一平はザザの言葉をしかと心に留めた。
「…よく、辛抱しておるな。そなた、確かもう十六じゃろ?」
「ええ…」
「恋人がああ幼くてはやたらと手も出せんな。他にはけ口はあるのかい?」
「とっ…とんでもないっ‼︎」
図星を指されて一平は真っ赤になって否定した。
「王女は知らんのじゃろ?女が、男のものになることを」
ザザはからかっているのではない。そのくらいは一平にもわかった。彼は正直に答える。
「はい…」
「赤ん坊の作り方も知らぬわな?」
「…その…通りです…」
一平は項垂れた。こいつが一番厄介なのだ。
「そなたは知っているんじゃな?」
「それは…まぁ…オレも一応、成人男子ですから…」
「ではそなたが王女に教えてやればよい。何の問題もなかろう」
「じょっ…」
冗談じゃない、と言いたかった。そんなことが自分にできるくらいならとっくにそうしている。
「まあ、慌てるな。こういうことは考えても詮ない。わしからも折を見て王女に享受しておこうとは思っとるが、実技を担当するのはわしではないからな」
それは一平の役割だと言っている。
「………」
「焦ることはない。遅くとも三年もあれば、王女も目覚めるじゃろうて」
三年…。
気が遠くなりそうだった。これじゃあ蛇の生殺しじゃないか。
パールの成人の式が執り行われたのはそれから一週間ほど経った満月の夜だった。
その月に成人した男女を集めて月毎に成人の式を祝う習慣があるムラーラとは違い、トリトニアでは個々の家単位で成人を祝う。その家や地域にもよるが、ごく内輪で幼魚を返上した報告と宴の会を催すのが一般的だ。
パールの場合は王女ということで、国を挙げての行事になってもおかしくないと一平などは思ったものだが、この国はそういうところで身分の差を誇示したりしないのだった。付き合いが深くなれば、義理に縛られ、体裁を取り繕うことも多くなるのだ。そういったまわりくどいことを極力減らして、真に大事なものだけを見つめようという気風が、建国当初より根付いている国だった。
その筆頭にあるオスカー王にしてからが質実剛健の気風を地で行く。当然のことながら、実子であるパールの成人もできれば家族のみで祝いたかった。
だがさすがに一国の王とあってはそういうわけにもいかない。王宮それ自体が国王一家の家でもあるのだから、少なくとも王宮―赤の剣の守人のエリアは王宮の中でも中心部に位置し、正宮と呼ばれる―の中だけでもお披露目をして、王女が成人したことを開示しなければならない。
病弱であった三年前ならばいざ知らず、今のパールは修練所にも元気に通い、交際範囲も増えている。そして三年の失踪の末の劇的な帰還により、世間の注目を浴びているのだ。オスカーの描いていた成人の式よりもだいぶ大掛かりなものになることは避けられなかった。
そしてこのことを容認したのには、今ひとつ理由がある。オスカー王はパールの成人を一平にも同席して祝って欲しかったのだ。
パール本人がそう望むだろうことは容易に想像がついた。だが、状況が整えば娘婿にと考えているとは言え、赤の他人の男を家族単位の行事に引き込むのは少々無理があった。婚約が整っていればまだしも、今はまだその段階ではない。あくまで一平はパールの求婚者であり、王宮の居候である。
その他人が同席しても不自然ではなくするためには、祝いの会の間口を広げるのが手っ取り早い。
というわけで、一平自身は経緯を知らぬまま、彼は愛しい娘の晴れ姿を堂々と拝むことができたのである。
「群舞はしないんだな」
式次第を聞いて一平が言った。ムラーラで成人を迎えた女の子たちが揃って披露したのを思い出したのだ。当時パールはとても羨ましがっていた。因みに一平自身は剣の型を披露して見せた。
「うん。自分の得意なことを一つでも二つでも披露すればいいんだって」他人事のように言うのはパールがトリトニアでは実際に成人の式を見たことがないからだった。「パールは何もできないから、お歌を歌うことにしたの」
何もできない、というのは一平から見れば卑下のしすぎだった。パールは神秘的な力をいくつも身の裡に持っている。必ずしも自分で意識して使うことができるというものではないので無理もないが、実は多才なのだ。そしてパールの歌声は、天使が降りてきたのかと錯覚するほど美しく、心満たされる響きがある。
「それはいい。だけどほどほどにしろよ。いくら王宮でも招いた人を全部泊められるほどの部屋数はないからな」
集まった人々が心地好すぎて皆眠ってしまったら大変だ、と一平は思ったのだ。
果たして当日は見事なものだった。一平を実験台にして演奏する曲目を選んだが、三分ほどの短い曲を歌ったのにも拘らず、自分で身体を支えられずに頽れる人や立ったままうたた寝を始める人が後を絶たなかった。パールの癒しの力は確実にその効力を増していた。
そして一平はパールの周りがオパール色に輝くのを見た。人々の目にもそれは映ったが、明るいレモン色のドレスを着ていることによる目の錯覚か、頭が朦朧としているせいだと解釈するものが多かった。
だが、この経験は人々の心に不思議な影響を与えた。後になって思い出すともう一度聴いてみたくなる。特に、体調の悪い時、物事がうまくいかなくて精神的に参っている時になぜか思い出すのだ。そして少しずつ、王女が癒しの力を持っているということが、人々の間に広まってゆき始めた。
「一平さまでも眠くなってしまうんですか?」
エスメラルダにそう尋ねられて、一平はパールの癒しの力のことが国内に広まりつつあるのを知った。パールが一平と一緒にいてさえその存在を無視しようとするエスメラルダが、パールのことを話題にしたことにまず驚いた。『勇者』を得るために採っている自分の方針を忘れてしまうほど、パールの持つ力は人々の興味関心を引くものなのだ。
百年に一度あるかないか、百万人に一人いるかいないかの確率でしか現れない『癒しの力』の主。世代ごとに交代が繰り返されている三本の宝剣の守人たちに比べてさえ、その確率は著しく低い。
そんな力の主が現れた。
しかも、知り合いだ。
よりにもよって、ライバル視しているパールティア王女だ。
これが黙っていられようか。
外見は大人っぽいが、ちやほやされて育ったエスメラルダは自由奔放に振る舞ってばかりいる。自分の行動が人にどう思われるか顧みないところなど、精神的にはパールよりも子どもだと言ってよいくらいだ。おかげで何を考えているのかわかりやすい。
シェリトリも人伝てにパールの癒しの力のことを耳にした。魅力的な話に、すぐにも確かめに行きたかったが、その矢先に高熱を出して寝込んでしまった。流行風邪の余波はまだ収まっていなかったのである。
そのことを聞くや、バールはシェリトリを見舞おうと思い立った。
かつてパールがトリトニアで床に伏しがちだった頃、シェリトリは何度も彼女を見舞いに訪れた。シェリトリは王宮に出入りする豪族の息子だというだけでそれほど親しいわけでもなく、顔と名を知っている程度だったにも拘らず、何度も通ってきてくれるシェリトリのことを、素直なパールは単純に喜び、ありがたいと思っていた。
一緒にはしゃいで遊べる友達のいないパールにとってはとてもいい気晴らしだったのだ。だからシェリトリの―そしてその親の―下心が見え見えでも、国王夫妻、特にシルヴィアは、彼を歓迎してパールの元へ招き入れた。もちろん、片時も目を離すまいと常に同席することを前提としてだ。
贈り物も幾つも贈られた。そして三年も行方不明になっていても、バールが戻ったと知るや、シェリトリは王宮に駆けつけてきて旧交を温めようとしてくれたのだ。一人勝手にテンションを上げる一方的な男ではあっても、その事実はパールに悪感情をもたらしたりはしない。
その流れから言って、シェリトリが寝込んでいると聞いた時、彼を見舞うことを思いついたのは、自然の成り行きだった。彼への感謝の気持ちを形にして表すのは今をおいてないと、パールは思ったのだった。




