第十五章 新しい朝
静けさの中パールは目を覚ました。
朝日が差し始めたとみえて、海上の方が少し明るい。
(夜が明けたんだ…)
夜明けということは変態も終わりということだった。パールは自分の身体がどうなったのか見ようと身を起こした。砂に肘をついて起き上がると髪が揺らいだ。
(あれ?)
こんなに長かったっけ?と思う。
違いはそれだけではなかった。一平が掛けてくれた濃紺のマントの下からは、前よりちょっぴり膨らんだ胸とすらりと伸びた二本の白い足が現れた。胸にはちゃんと赤ん坊にお乳をやるための乳首が顔を出している。
(う…わあ…)
パールはあんぐりと口を開けた。
(足だ…ホントにホントの足になってる…)
ちょっと力を入れてみた。桜色をした爪のついた指がこそこそっと動いた。
(なんだか、変な感じ…)
違和感を覚えるのは無理もない。だが、これが成人の証だった。パールは無事大人になれたのだ。ずっとずっと欲しかった。一平のお嫁さんになる資格を得るための足が。これがなければ自分はいつまでも子どもだ。もしも一平が口で好きだと言ってくれても、一平の周りに群がる女の人たちに劣ってしまう。
この足と尻の割れ目、胸の膨らみなどが何のためにあるのかは、本当は別のところに理由があったが、今のパールにとっては、まだ好きな人のレベルにやっと追いついたという喜びでしかなかった。
(ふたあつ…ある…。これが足なんだ。一平ちゃんと同じ足になれた…)
嬉しい報告をしようと、パールは膝を抱えて眠り込んでいる一平のそばへ這い寄った。歩く事はまだ自然にはできないらしい。
「一平ちゃん…」
「ん…」
「一平ちゃん見て…。ねぇ、起きて…」
心地好い眠りから無理矢理引き戻された一平は、事情がよく飲み込めていない顔でぼやっとパールを見た。
「パール⁉︎」
目の前にいるのはパールであってパールではなかった。少なくとも今までのパールではない。
パール本人には見えないが、顔つきも変化していた。ぽっちゃりとした丸みがなくなっていた。頬のあたりがすっきりとしている。が、痩せたりやつれたりした時に感じられる負の感情は少しも湧き起こらない。
垢抜けた…と言うのが一番近い表現だったかもしれない。お子様お子様していた目鼻立ちが大人に近づいている。髪も少し長くなった。しかしパールでなくなったわけではない。こういう変化は今までに何度か目にしていたが、一晩で急に変わられるというのには、どうもいつまでも慣れることができない。
そんなことには本人は気がつけるはずもなく、不審と驚きと感嘆の入り混じったような一平の表情をはっきりさせようと、パールは躍起になっている。
「ねぇ、見てよ。成人になれたんだよ」
そう言って飛び退り、嬉しそうに両手を広げて見せる。
一平は目を剥いた。
顔に火の玉が当たったかのような衝撃を受けた。彼の目のすぐ前に、変化したばかりのパールの胸が晒されている。掛けてやったはずのマントは身体のどこにも掛かっていなかった。
一平は慌てて両手で目を塞いだ。そして怒鳴った。
「そんなもの見せるんじゃない!」
(マントはどこへ行ったんだ?…ちくしょう…なんて無防備な…)
指の間から辺りを盗み見てマントの在処を探す。
(身体が大人になったって、まるっきり子どもじゃないか。…早く、マントを見つけてパールに…)
そうしている間も、心臓が口から飛び出しそうである。
(そんなもの?)
そう言われてパールは呆気に取られた。
一緒に喜んでくれると思ったのに、逆に突き放された。
(…違うのかしら?…)
他の女の人の身体とどこか違って変なのかと考えた。
(いやなの?平ちゃん…。こんなパールはキライなの?)
何が一平を慌てさせているのか、まるで気づいてやることのできないパールだった。
見せるなと言われてパールは蹲った。やり切れなくて涙が溢れてきた。
(…どうして?…)
成人したからといって、泣き虫でなくなったわけでもない。パールはほどもなく泣きじゃくり始めた。
それに気がついて、一平は思わず顔を上げた。
(やばい…)
あのポーズはやばい。またトリトンの壁の中に引きこもってしまうかもしれない。
自分が言ったことがパールを傷つけたのはわかっていた。何とかしようと腰を上げると、一平の肩からはらりと何かが落ちた。
(こんなところにあったのか…)
探していたマントだ。パールが寝ている一平に掛けたのだろう。変態が終わったので返したのかもしれない。
(ばかだな…。何もわかっちゃいないんだ…男の気持ちなんて)
一平はできる限り優しくパールに近寄り、マントでくるんでやった。
「パール…」
呼びかけるが返事はなかった。顔も上げない。
「…ごめんよ。怒鳴ったりして…」
「………」
パールの肩がびくっとし、一瞬嗚咽が止まる。
「怒ったんじゃないんだ」
「あああ〜ん…」
思い出したのか、声を上げて泣き出した。
「泣くなよ。謝ってるじゃないか…」
いつものことだが、やはり途方に暮れてしまう。
パールにわかる言い訳が思いつかず、一平はパールを抱き締めることにした。
怒られても冷たくされても、一平の胸の中はパールには居心地がよかった。この体温が安心できるのだ。そして、心臓の鼓動が。
でもどうしてだろう。一平ちゃんの心臓の音がいつもと違う。すごい急いでるみたいに速い。パールはそう思った。
黙って抱き締められていると、パールは泣き止めた。
(成人したのにこんな赤ちゃんみたいに泣いて…恥ずかしい…)
泣いたことが恥ずかしくてパールは言った。
「一平ちゃんの心臓の音、変だよ…」
言われてどきっとするので一層速くなった。
「ほらまた速くなってる…」
(誰のせいだと思ってるんだ。こいつ…)
愛おしい反面憎らしくてたまらない。少しは言ってやった方がいいかもしれない。
「おまえのせいだぞ」
「なんで?」
「いいか、パール、覚えとけよ。…男はな…好きな女を抱き締めたり、キスしたいと思ったりすると、こうなるんだよ」
こうなっているのは、心臓だけではなかった。
「…そうなの?」
一平は真面目に頷いた。
「それから…好きな女の裸を見た時もだ…」
でも、それは目を見ては言えなかった。
「それは…悪いことなの?」
「悪い時もあればいい時もある」
「?」
こんな曖昧じゃパールにわかるはずがない。一平は方向を変えた。
「ドキドキすると、もう一つある現象が起こる。そうすると…男はあることをしたくてたまらなくなる…」
教えておいてもいいだろう、と一平は思っていた。このままじゃあまりにも自分がかわいそうだし、何も知らないパールが他の男の前でもあんな姿を晒したら…。想像しただけでもたまらなかった。それだけは何とかして防がなければ…。
「そして…それをすると…」
「すると?」
さすがにためらわれた。本当に教えていいのか?こんなこと…。
だが、彼は言った。
「好きな女に赤ちゃんができる…」
パッとパールの顔が輝いた。
「本当⁉︎」
その声に一平の方が面食らった。
「あ…ああ…」
「じゃあ、パール…一平ちゃんにドキドキしてもらいたい…。見て。一平ちゃん」
「ばか…。今じゃないんだよ、今じゃ…。そういう事は時期ってものがあるんだ」
天にも昇りたいような申し出だったが、今ここで受けるわけにはいかない。が、パールは赤ちゃんと聞いて目を輝かせている。
「時期っていつ?」
「それは…だな…」
(なんて言ったらいいんだ?本当は今すぐにでもおまえが欲しいけど、我慢してるんだって?言えるわけないよな、そんなこと…)
迷った挙句に一平は言った。
「…パールが、オレのお嫁さんになってからだ…」
パールはうっとりと一平を見つめていた。
―本当にお嫁さんにしてくれるの?嘘じゃないよね?パール、一平ちゃんのお嫁さんになりたい…―
その目は、そう言っていた。
「だから、それまでは…」
ここからが肝腎だ。
「それまでは…誰にも…見せるんじゃないぞ。男と名のつくやつには…パパだってだめだぞ…」
「一平ちゃんはいいの?」
(いいに決まってるじゃないか)
そう言いたいところだが、それでは自分の自制心が負けてしまうかもしれない。
「だめだ。とっとけ」
つっけんどんに、一平は言った。
これじゃあ、成人しない方がよかったかな、とちらりと思った。
キンタはお医師を連れて洞窟に戻ってきた。
連れてこられたのは王室お抱えの医師だった。老婆である。
トリトニアでは、老婆と言われる者は希少価値である。寿命が短いので、皺くちゃになるまで生存している者はほとんどいない。魔術の修行を積んだ者か神官、学者、医師の才長けた者にたまに見られるくらいだ。武官や王族の中には皆無であった。
その一人、トリトニアでも、医師としては最高の地位にあり、技術も伴った王室付きの医師がこの老婆であった。顔も手も皺くちゃだが、腰も曲がっておらず、歩み、泳ぎ共ににしっかりとしていた。生まれた時パールを取り上げたのもこの老婆であった。名をザザと言う。
成人への変態と聞いて、ザザはそれなりの用意を設えてきた。おかげで診察の後、パールは一平の言いつけ通り肌を隠すことができた。
ザザは王女の置かれた状況について思い悩んでいた。キンタは余計なことは言わなかったが、年の功で何があったかは読み取れてしまうらしい。
男性であり身内でもない一平が、女性にとって一番大切な成人への変態時に共にいて一部始終を目にしたことは大問題であった。しかもパールは王女なのである。不可抗力とは言え、世間にこれが知られれば、王女の一生は滅茶苦茶になる。成人した途端に男と通じたと誤解され、陰口を叩かれるようになってもおかしくないのだ。
パールの身体を調べて潔白だとわかりはしたものの、悩みは消えない。国王夫妻にはどう報告したものか。
幸いキンタが心配したような病の元はどこにも見当たらなかった。ただ、身体が小さくて大変だった分、体力を消耗してしまったのだ。正常な発達を遂げた娘なら、朝になれば立ち上がって歩くこともできただろうが、その点に関してはパールは心と同様、まだ未熟だった。
このことを知っているのは今ここにいる四人だけ。国王夫妻に話したとして、六人…。果たして、それだけの秘密に留めておけるのか。だが、そうしなければならない。
王女が戻って喜びに湧いている今、悪い噂が広まるのは避けるに越した事はない。ザザは口止めのため外の二人を呼びに行こうと腰を上げた。
洞窟の外では、キンタと一平の二人がパールの診察が終わるのを待っていた。
「オレ…感心したよ…」
キンタが一平に話しかける。
「尊敬するよ…一平のこと…」
なんだ?と、一平は並んで座るキンタに目をやった。
リリの森は、見るからに子どもであるキンタに様々な罠や攻撃を仕掛けてきた。
が、魑魅魍魎に立ち向かうために抜いた一平の短剣を見ると、奴らは慌てて身を翻し、掌を返すように道を開けたのだ。
たった一人でトリトニアの姫を守り抜いた勇者の噂は、ポセイドニア中に鳴り響いていた。旅を始めた時には勇者がまた少年であったこと。並外れた勇気と技倆を持っていて、無敵にも近かったこと。その風貌や持ち物の特徴までも、事細かに伝わっていた。一平が父から譲り受けた短剣が槍将ラサールのものであることも、鞘の細工でそれと知れる。
その短剣の持ち主であるというだけで、リリの森の住人たちはキンタに手を出すことを差し控えたのだった。
一平の短剣の彫り物がキンタに味方をしてくれた。
「この森の奴ら…みんな一平のことを知ってた…。一平がどんなに勇敢で強かったか…自分のためじゃなく、お姉ちゃんのために、どんなふうに命を張ってきたか…」
森であったことを思い出しながらキンタは言った。
「もちろん、オレだって聞いたことあった。…だけどこんな…一平の剣見ただけで…妖物がびびって後退りするなんて…すごいや、やっぱり…」
褒められるのは悪い気はしないが、こそばゆいものである。が、五つも年下の少年に言われているのであればそれほど居心地悪くはない。しかも、彼はパールの弟なのだ。惚れた女の身内には、やはりよく思われたいものだ。
「…たまたま…だろう?運が良かったのさ」
「でも、それでオレ、無事に、こんなに早くザザ婆さまを連れてくることができたんだよ。一平のおかげだよ。一平ってすごいや」
「よせよ…」
自分はただぼーっとパールの変態過程を見ていただけだ。いい思いだけして感謝されるのは後ろめたかった。
「お姉ちゃんの気持ち、わかるような気がした。一平って、すごく自然に守ってくれるんだ…。オレ…思ったんだ。一平みたいになりたいって…。どうやったらなれるかな?」
キンタの讃辞は嬉しかった。嫌味など全くなく、自分の気持ちに素直だ。
やっぱりパールの弟だ、と一平は思った。
「みんな…そう言って褒めてくれるけど…。違うんだ」
「え?」
「オレが…パールのために自分の身を犠牲にしてきたように、みんなは言うけど…」
「………」
(その通りじゃないか。何が違うんだ?)
「オレは…オレのしたいようにしてきただけなんだ。…オレは自分が何者なのか知りたかった。パールといればそれがわかると思った。だから一緒に海へ出た。…オレが行きたい所がトリトニアだという事はパールに遭って初めてわかった。…そしてパールは…可愛かった…」
「のろけ?」
真面目に聞いてたのにそういう話になるのかよ、とキンタはちょっと呆れた。
「そう聞こえるか?…そうかもしれないな…。とにかく、パールはオレたち三人の宝物だったんだ」
「三人って?」
初めて聞く。誰のことだ?
「オレと…いとこの学と翼。三人で、人間がやって来れない洞窟に人魚のパールを匿っていた」
「……」
「人間の大人たちに見つけられたら見せ物にされちゃうからな。これでも必死だったんだぜ」
そう言って、一平は笑う。
「中でも一番ご執心だったのは翼だった。パールも懐いてた。一番物知りで優しかったからな」
(そんな奴がいたのか。知らなかった。お姉ちゃんもやるなぁ)
「でも死んだ」
一平の口調が変わった。まだ悲しみは癒えていないのだ。
「えっ⁉︎」
「大人たちからパールを逃がすために無理をして…それが元で死んだ…。奴は心臓が悪かったんだ」
「一平…」
「オレがやるしかなかった。…パールを故郷に連れて行けるのは、オレしかいない。学は純粋な地上人だ」
深刻な話にキンタは一平に同情の目を向けていた。
「でもそれじゃ、やっぱり一平はお姉ちゃんのために今までの生活を捨てたんだろ?犠牲になってるよ、やっぱり」
一平の目が優しげに細まる。パールの大好きな表情だ。
「違うよ。オレにはもう…父も母もいなかった。従兄弟の学の家で厄介になってたんだ。自分が他人と違うのもわかってた。パールがオレのことをパパと同じ匂いがするって言って抱きついてきた時、何か胸のつかえが下りたような気がしたんだ。…パールはオレを…オレの心を救ってくれたんだよ」
(苦労してるんだ…オレなんかとは違う」
そうキンタは思った。王宮でぬくぬくと王子をやっている自分が不甲斐なく思えてきた。
「確かに…大変だったこともある。辛いこともいっぱいあった。だけど…オレは楽しかった。パールのそばにいるだけで。時々理解できないことをやらかすけどね。…今はそれさえも愛おしい。…懐かしいよ…」
「やっぱり惚気てるんじゃないか」
また言われて一平は開き直った。
「惚れてればそうなるのさ。おまえもそのうちわかるよ」
「けっ。バカにすんなよ。オレにだって好きな子ぐらい…」
「ほー、いるのか」
「ぐっ…」
一平をからかったつもりが、逆にからかわれた。
「そんなことより…結婚すんだろ⁉︎お姉ちゃんと。あのガキンチョぶりなんとかしないと、肝腎なことできないぜ⁉︎」
いっぱしの口を利くキンタを一平は頼もしいなと思う。
「弟のおまえの方が、そういう点では大人だよなぁ…」
守人試験もそうだが、目下のところ一平の最大の悩みはこれだったのだ。誰か何とかしてくれよと、泣きつきたいくらいだ。
「ばか。パールは今日成人したばっかりなんだぞ」
「あ、そっか…」
何もかも知っているくせに食えない奴だ、と一平は苦笑する。
「まぁ…さ…。お姉ちゃんもめでたく大人になったことだし、これで一平ももう我慢する必要なんかないじゃない。頑張んなよ」
そういうことで十一の子どもに励まされる自分がなんだか情けなくなった。思わずため息が出る。
「オレも頑張るからさ。守人の座を奪われないように気をつけなよ」
「おいおい。まだ守人にはなってすらいないんだぞ」
「ま、いーってこと…」
「王子…」
「あ?」
キンタが呼ばれて振り返る。ザザ婆の呼び掛けだった。
「勇者どの」
「はい…」
「お二人と王女に話がある。中へ入ってくだされ」




