第十四章 大変態
(痛いよ…。辛いよ。苦しいよ)
(ママ、助けて。ママも痛かったの?)
(パール…。死んじゃいそうだよ。こんなの耐えられないよ。みんなこうなの?成人した女の人たちは、みんなこの痛みに耐えたの?)
その通りだった。
女性は子どもを産む。子孫を残すための自然な成り行きだ。しかしその労力は大変なものである。地上の人間も、十月十日、自分のお腹の中で子どもを育み、機を得て生み出す。目には見えないながらも、自分の中でどんどん命が育っていくのを実感していくからこそ、出産の時の痛みに耐えることができる。身体を切り裂かれるような痛みを、世の女親は全て経験していた。
海人の妊娠期間は半年ほどだが、産みの苦しみは地上人と同じに訪れる。その苦しみに耐えられるかどうか、子どもを産んで母親となる資格があるかどうかを、幼魚から成人への変態期に試されるのだ。
中には苦しみの余り失神して、そのまま意識の戻らない少女も稀にいる。これに耐えられないようでは元々母親となれる器ではなかったのだというのがトリトニアの定説であった。
パールは今その資格を試されていた。ピピア女神に。
パールの頭の中に、一足先に成人していった少女たちの姿が浮かんでは消えていった。母はもちろんのこと、周りの女官たち、ミラ、ソーダ姫…。あの意地悪なエスメラルダでさえ耐えたのだ。
(パールがなかなか成人の日を迎えられなかったのは当たり前だわ。パールこんなに弱いんだもの…きっと堪えきれずにこのまま死んじゃうんだ。一平ちゃんのお嫁さんになれないまんま…)
一平の優しい笑顔が浮かんでくる。パールの言うことは大抵何でも聞いてくれる。一平はパールのスーパーマンだ。でもその一平が優しいのは何もパール一人に限ったことじゃない。
修練所にはいろんな女の人たちが出入りしていた。パールを連れ帰ったことで一躍有名人となった一平が、若い女性に騒がれる存在となったことを知らないわけじゃない。見るからに逞しく、しかも優しく姿のよい一平に言い寄る女の子は腐るほどいた。彼は友達として適当にあしらってはいたが、他者に冷たくできない分、人との付き合いはいい方だったので、パールがやきもきすることはしばしば起こっていたのだ。
パールは悲しくなった。
(…一平ちゃんは知ってたんだ…。パールがこんな…大人になれない人魚だって…)
それはパールの誤解だったが、当の本人には解けない問題だ。
(きっと…神様にもわかってたんだ。だからパールは誕生日もとっくに過ぎたのに、いつまでも幼魚のままだったんだ)
しかし、大変態の時は訪れた。今がその時だ。
(一平ちゃんに甘えてばっかりで…。パール、本当に子どもだ。ばかみたい…。もっとしっかりしなくちゃ。一平ちゃんに本当に見捨てられちゃう…)
以前見た夢を思い出した。トリトニアに戻った頃に見た夢だ。パールが目を覚ました時、王宮のどこにも一平の姿はなかった。
(正夢になっちゃう…。一平ちゃんがどっかへ行っちゃう…。そんなのやだ。そんなの我慢できない…)
「行かないで…」
うわ言のようにバールは言って、両手を伸ばした。
「一平ちゃん…行っちゃいやだ…」
「バール…」
それを聞きつけて、一平が伸ばされたパールの両腕を掴んだ。
「しっかりしろ。オレはここにいる。どこへも行かないよ」
「一平ちゃ…」
目を開け、愛しい人の表情を捉えた。心配そうな顔だ。これまで見たこともないほど辛そうに唇を引き結び、髪を振り乱している。
(ごめん…一平ちゃん…。心配かけて…。パール、いつもそうだね。いつも一平ちゃんに迷惑ばっかりかけて…。これじゃ、いけないんだよね。…パール、一平ちゃんのお嫁さんになりたい…。一平ちゃんと赤ちゃん育てたい。でも、そのためには…)
今の苦しみを乗り越えなければならないのだ。
(…負けるもんか…)
パールは決意した。
「ねえ…やっぱり誰か呼んできた方がいいんじゃないか?」
パールが苦しみ初めて四時ほど経った頃、キンタが言った。
「さもなきゃ、王宮に連れて帰るとかさ」
それは一旦は検討され、却下された案だった。だが一平の心は揺れる。今回の事態だけは自分の手には負えそうもない。一晩一人で苦しんでこそ、夜明けに無事成人したことを周囲に祝ってもらえるのだと言うこの大変態。他人の手を借りた者は、たとえ成人しても、一生そのことが汚点となって残っていくと言う。
一平はパールにそんな生き方をさせたくはなかった。
だが、証人がいないからといって、夜の森の危険の方を選ぶわけにはいかない。こんな危険な場所に普通でない状態のパールを置き去りにすることなど、彼の良心が許さなかった。だからそばで見守っていたのだが、本来ならしてはならないことだった。
キンタなどは、そういう場に出食わしても男は絶対に一緒にいてはならないと小さい時から教え込まれている。こんなことをしていたら、そのうち罰が下るのではないかとびびってもいる。もちろん姉のことが気掛かりでないはずはないが、誰もが経験しなければならないことなのだ。
とは言うものの、変態が始まったらその場から動かしてはならないのは鉄則だった。下手に動かすと変化のバランスが崩れて奇形に変化する恐れさえあるのだ。余計に苦しませることにもなる。だから仕方なしにここにいたのだが、幼魚から成人への変態は、キンタが想像していたよりも遥かに苦しそうで終わりそうもなく感じられた。
キンタは思う。
(もしかしたら、どこかに異常があったのかもしれない…)
そういうことも聞いたことがある。知らない間に病が巣食っていたのだとしたら、お医師の手が必要になる。キンタの言う誰かとは、経験のある女の人でさえあればよかったが、お医師であればなおよかった。
言ってはみたものの、今パールを動かすわけにいかないのは充分承知していた。
一平は何も言わない。
年上の一平に答えてもらえないと、やたらと不安になってくる。
「…病気…ってことだってあるかもしれないよ⁉︎…大体…本当にこれが成人への変態なの?大変だっていうことは聞いてはいたけど、それにしたって…」
「…オレに訊くな…」
一平だってどうしたらいいのかわからないのだ。まだ幼魚のパールと子作りをする算段を考えることの方が見当がつく。
「…大丈夫だよ…」
やっと聞き取れるくらいの声で、パールが訴えた。
「始まった時は、いつものやつと変わらなかったもん。だから変態だって言ったんだよ…う…」
そう言うそばから呻き出す。
「…やっぱり…オレ、王宮へ行ってくる!お医師さまにわけを話して来てもらうよ。手遅れになってからじゃ意味ないもん」
キンタが言い切った。
「しかし危険だ。どうやってこの森から抜け出すつもりなんだ?それができてりゃとっくに…」
「だって、見てられないよ。一平だってそうだろ?」
「………」
キンタの肩を掴んで引き止めながら、一平は振り返ってパールの様子を見る。
キンタの言うことはわかる。その可能性はある。できればそうしてもらいたい。しかしここは、リリの森と言ってもソルト山に近い。あの新種の妖物以外にも危険な妖物に出食わす可能性が高いのだ。そもそも思いもかけず彼らが合流したのは、キンタが道を誤ったのも一因していた。そして年端もゆかぬ王子一人を行かせるわけにはいかなかった。年長の一平には、パールと共にキンタの命をも守る義務がある。
「…オレが行こう…」一平は言った。「その代わり、パールを守れよ。何があってもここから離れるな」
「だめだよ。…一平はここにいてよ。お姉ちゃんはオレより一平にそばにいて欲しいはずだよ」
自分なんかがいたって、何の役にも立ちはしないのだ。一平だからこそ、パールの支えになれるのに。キンタにはよくわかっていた。
「貸して‼︎」
キンタは一平の腰から短剣を引き抜いた。
キンタの行動が唐突で隙を突かれた。
呆気なく腰の物を取られて一平は慌てた。取り上げた剣の切先をキンタは一平に向けていた。
冗談ではない。目は笑っていない。
「キンタ…」
「オレは本気だよ…。一平が行くって言うなら、これを使ってここから動けないようにしてやる…」
足でも適当に負傷させて、後を追えないようにするつもりらしい。
キンタの決意が偽りのものでないことはその気迫から窺えた。
一平は身動きを止めたままキンタのへっぴり腰を見た。
キンタは剣技が下手なわけじゃない。王族として幼い頃から手解きを受けているので、自分の身を守る以上の技は身に付けている。ただし、得物は手斧だ。
腰が引けているのは技術の問題ではなく、慣れぬ武器とその先にいる者に手を掛けたくないためだった。
そんなことも見抜けぬようでは大剣使いは務まらぬ。長旅を生きてトリトニアに辿り着くことだってできなかっただろう。一平はキンタの本当の思いを感じ取った。
一平が行く方が確かに分がある。が、パールをこんな所に置いて行くことも一平には承服しかねた。
キンタは若輩だ。が、精一杯気を張って自分も男であることを主張している。一人前だと認めてもらいたがっている。
一平が海に出たのは十三の時。キンタの年の頃にはまだぬくぬくと呑気な小学生をやっていた。
「オレは十一だ。お姉ちゃんだってその年には大洋を渡ってた。…信じてくれよ…」
一平は目を細めてキンタを見た。そして、剣帯に残されていた剣の鞘を抜いて差し出した。
「そのままでは、危ない。…これも持って行け」
キンタの太い眉が、弓なりに跳ねた。
「一平…」
「…死ぬなよ…。必ず、辿り着け」
大きく頷き、キンタは、洞窟を後にした。
「…キンタ…行っちゃったの…」
パールが尋ねた。
「お医師を連れてくるってさ。だからおまえも頑張るんだ」
パールの額に手を当て、様子を見てやる。
「平気なのに…」
息遣いは荒いが、さっきまでのように呻いたりはしていない
「…少しは…楽になったのか?」
「…うん……。今はちっとも痛くない。だるいけど…」
「そうか。よかったな。あと、四時もすれば夜明けだ。もう少しの辛抱だぞ」
「うん…」
(…あと四時もあるのか…。しんどいなぁ)
健気に頷くが、本心はこんなものである。
しばらくは息を整える時間を与えられたかのように発作は収まっていたが、それは嵐の前の静けさであった。
やがて、うつらうつらしているパールに付き従う一平の目の前に意外な光景が現れる。
触りもしないのに、尾鰭の鱗がポロポロと剥がれ始めたのだ。
(…何…だ?…)
痛そうではない。治った傷から瘡蓋が取れる様子に似ていた。
全部剥がれると、きゅっと括れた尾鰭が太り始めた。鱗の取れた後の尾鰭はゆで卵の表面のようにつるんとして肌の色をしていた。
(これが…)
パールの言う通り、変態に間違いないのだった。
尾鰭がみるみる変形していった。人間の足首から先がくっついたような形になる。
(足…だ…)
「あ…」
ぼうっと見ていた一平は、パールの声にびくっとなる。
「あ…」
「パール?」
「う…あ…ん…」
「痛いのか?パール、どこが痛むんだ?」
「…あ……尻尾…まるで…切られてる…みたいに…あうっ…」
さっきの比などではなかった。さっきまで尾鰭だった場所は徐々に二つに割れてきている。
瞬く間にそれは進んでいった。パールの尾鰭が、二本のすらりとした足に変化するまで、半時とかからなかった。
一平はいつの間にやら腰を抜かして尻餅をついていた。
もう胴体と尻尾の継ぎ目などない。パールが卵から生まれたのではない証拠の臍の緒の跡が、くっきりと白い腹の真ん中で笑っていた。
一平はぼんやり眺めていた。一体誰がこんな夢のような光景を見たことがあるだろう。成人への変態は一人で迎えるもの。当の本人は苦しくてそんなものを見る余裕などない。…とすると、目撃したことのある者はトリトニアにすらそうはいまい。
地上の女性と何一つ変わらなかった。いや、一平の知るどんな女性よりも美しく綺麗だ、と一平は思った。すらりと伸びた足も、ピンク色の爪も滑らかそうな肌も、臍の形ですら…。
一平はパールの下腹部を見ていた。いやらしい思いはなかった。神々しいものを見るような眼差しがパールの腹に注がれていた。
(あそこだ…。あそこに…オレとパールの結晶が宿るんだ。あそこに、その扉がある…)
いつしかパールの呻き声は収まっていた。
ゆっくりと規則的な息遣いが聞こえてきた。乱れた息を整えているのだ。眠っているわけではない。
「…終わったの…かな?」
パールが呟いた。
訊かれて一平は反射的にパールの顔に目を戻した。
「……さ…あ…?」
何と答えたものだろう…。
「どうなったの?パールのから…だ…」
「足が…」
答えようとして、はっとした。
急に罪悪感が攻め上ってきた。
(何をしてるんだ、オレは…。こんな…。こんな…。こんなことして…)
一平は不躾にも女性の全裸を見つめ続けていたのだ。彼の目の前にあるのは、見慣れたレモン色の鱗に覆われた尾鰭ではない。生まれたままの…というか、一糸纏わぬ、とよく表現される女性の裸体だ。秘所を覆い隠すものも何もない。断りもなく見ていていい類のものではなかった。
一平はさっと背を向けた。自分の顔が赤くなるのが感じ取れた。
(…どうしよう…)
頭の中がパニックになりかけた。
勇者だの逞しいのと言われていても純情なのだ。経験もないので当たり前だが。
節度のある男がする事はひとつしかなかった。この場から立ち去ることだ。
が、それも一平にはできない。
夜明けまでは、まだ三時以上ある。キンタは当分戻れないだろう。それまでこの状態で二人きりというのは困る。
(何か着せるものがあれば…)
が、衣類など何一つありはしない。
一平は衣服を着用していたが、それを脱いで着せたとしても…。今度は一平の方が裸になってしまう。
見られるのはどうということもないが、もしパールの前で立ってしまったら…。それだけはまだ例えパールにも、いや、パールだからこそ見せたくなかった。
一平は自分の服を眺め、そうだ、と思いつく。
(マントがあるじゃないか)
これをパールの身体に掛けてやればいいのだ。
気がつくと同時にマントの留め金を外す。
が、これを掛けてやるためにはパールを見なければならない。後ろ向きのまま放り投げても、地上と違って狙い通りには届かない。
マントを握り締めたままの一平の頭からは今にも湯気が立ち上りそうだ。それでもやっとの思いで決意して立ち上がると、マントを身体の前に広げた。
(なんだ、そうか…)
このまま行けばいいのだ。マントで前方を塞ぎつつ進み、パールの顔が見えたところでマントを下ろせばいい。
問題はひとつ解決したが、まだ変態が終了したわけではなかった。第二段階が終了したに過ぎない。変態の第三段階は上半身の変化だった。
しかし、痛みのピークは超えたと見えて、上半身が変化する間、パールは前ほどは苦しまなかった。ちょっと強めの成長痛といった程度で、歯を食いしばったり大声をあげたりすることからは解放されていた。
マントを掛けてあっても一平の心は落ち着かなかった。その下に隠されているものをもう見てしまったのだ。それが隠されているということが、却って想像を掻き立てるのでむしろエロチックである。
考えないようにしようとすればするほど妄想は頭から消えない。それを忘れさせるような事態が起こってくれないかとまで考えた。しかしパールの状態はそれとは逆にずっと落ち着いてきていた。
これまで何度か見た変態の時とそう変わらない状態になっている。いつの間にか寝息まで立てている。知識のない一平の目から見ても、変態はこれでほぼ終了したと思われた。夜明けまではあと二時ほどもない。
そう思ったらなんだか急にほっとした。パールの寝顔が安らかなのを見て、一平も安心した。急に睡魔が襲ってきて、彼は両膝を三角に立てたまま、蹲って寝入っていた。




