第十二章 リリの森
「まだ集める気?もう十分なんじゃないの?お姉ちゃん」
キンタは音を上げていた。
朝の四時に王宮を出て、リリの森に着いたのが五時。それから既に十時間余り。三回ほど休憩を挟んだが、場所を少しずつ移動しながら薬草の採集に精を出し、もう日も暮れようという刻限になっている。
暗くなってまで森の中にいるのは危険だ。リリの森は首都に近いこともあってか、他の森よりは妖物が少ない。人々に害を及ぼすものは退治され、ほとんどが淘汰されている。だから安心して教授も採集の計画を立てたのだが、この森で新しく危険な妖物が発見されたことは、被害に遭った人々と対応に当たった軍のお歴々など、ごく一部の人間にしか知らされていない。オスカーの元へ一報は入っているが、調査中のため詳しいことは未発表である。それでなくても海藻が生い茂っているので『森』と呼ぶわけだから、夜には特に道を見失う可能性が高くなる。
「もう切り上げないと、明るいうちに森を出られなくなるよ」
キンタの進言が耳に入ってはいるのだが、思いの外薬草採りが順調に行って嬉しいパールは調子に乗っている。
「あと、ここだけだから。ここの一角が終わったら帰るからね」
「結構な荷物だよ、これ。二人で持って帰れるかな?」
「いざとなったらどこかに隠しておけばいいよ。明日また取りに戻ってくれば」
「あー、疲れた。お姉ちゃんがこんなに凝り性だなんて知らなかったよ」
パール自身も知らなかった。知りようもなかったのだ。それまではやりたくてもできない体質だったのだから。だから余計にパールは嬉しいのだった。
後ろ髪を引かれながらも作業を切り上げ、荷括りを終えた時には薄暗くなっていた。
「ほらあ、オレの言った通りじゃん。いい加減にしておけばいいのにさぁ」
ぶつぶつ言いながら進むキンタだったが、周囲への注意は怠らない。さすがは一国の王子、身を守る術や生き抜く力は叩き込まれ蓄えられている。
頼もしい、とパールは思った。さすが男の子だと。
キンタの得意は手斧だった。いつも腰から下げている愛用の手斧は、薬草の伐採にも大きく役立ったし、荷物が増えて狭く感じる道幅を切り開いて広くしながら進んでくれる。もちろん荷物はパールの倍以上の量を持ってくれた。
「ありがと、キンタ。パールはいい弟を持ったよ」
「褒めたって、何も出ないからね」
うふふと笑顔で答えるパールの目に留まるものがあった。薄暗い森の中に、ぼんやりと青く光るものがある。海上をめがけて聳え立つ海藻の柱のあちこちで、それらは街灯のようにちらほらと輝いていた。
「なんだろう?」
「あんなもの来る時にあったっけ」
キンタも首を傾げる。
「もしかして道が違うんじゃないの?」
「まさか、そんなこと…」
否定はしてみるが、実はキンタも心許ない。そう言えばさっきから切り払う量が増えているような気がしていた。荷物を持っているからだと思い込んでいたが、道を間違えたとなると大変なことになる。あの光もなんだか気になる。綺麗ではあるが、怪しげだ。
パールも不安を感じていた。暗い所で光る性質を持っているものにはそれなりの理由があるのだ。すなわち囮としての役割である。獲物を光で誘き寄せて食料とするのが深海などでは常套手段である。ここは深海ではないが、パールには思い当たることがあった。
南極の海で襲われた吸血植物。あの白い花のような生き物が、あんなふうにほんのりと光っていた。
「キンタ、触っちゃだめ!」
パールは叫んだが、遅かった。珍しいものには目がないキンタは既に怪しい光に近寄ってためつすがめつしていたのである。パールの大声に一瞬びくっと固まったが、逆に、光る物体の方が素早く動いて、伸ばされた腕に巻きついたのである。
「うわっ‼︎」
「キンタぁ…」
思わず振り解こうと腕を振り回すが、その程度では振り解けるものではない。せっかく捕まえた獲物なのだ。
「なんだよ、こいつ。クラゲの仲間か?」
頓狂な声を上げているが、それどころではない。物体は体の中心にある吸盤のようなもので、キンタの腕にしっかりと食らいつき、椎茸の傘のように広がる襞から溶解液を染み出させているのだ。
「だめっ!とらなきゃ!」
パールはなりふり構わず、キンタの腕の物体を毟りり取ろうと引っ張った。
「いててて…」
キンタの口から悲鳴が上がる。
「我慢してっ‼︎」
非力なパールにしては馬鹿力で対したが、物体はびくともしなかった。
「ああん。どうしよう…」
「…これ…使ってよ」
キンタの差し出したのは、例の手斧だ。だが、パールには使えるはずもない。
「だめだよう。キンタの腕が折れちゃう」
「じゃあ、オレがやるよ」
食らいついているのは利き手の右手である。慣れない左手では不安があったが、躊躇している暇はない。キンタは手斧を持ち、注意深く物体に切りつけた。
手応えは呆気ないほどなかった。だが、体の三分の一を奪われても、その透明な体の襞はキンタの腕の上で蠢いている。切り取られた部分は下に落ちて、湿った海藻に取っ掛かりを見つけてそこに落ち着いた。じわじわと体を整えるように膨らんで、切り取られる前のような形に変化した。だが、向かっては来ない。自分ではあまり距離を移動することができないらしかった。その証拠に、他にもたくさんの同じ物体が海藻の森に出現していたが、どれもこれもじっとして二人の方にやってくることはなかった。
キンタは腕を包む反対側も同じようにして削いだ。腕を捻じ曲げて上部も剥ぎ取った。そこまでされると、さすがに弱ったのか、物体は吸いつく力をなくし、斧の柄ででつつくと難なく外れた。
「よかったあ…」
パールはほっと胸を撫で下ろす。しかし、キンタの腕は爛れている。
「参ったな。でも、一体何なんだ、こいつ。見たことも聞いたこともないぞ」
「キンタ、手貸して。痛いでしょう?」
「まぁね」
痩せ我慢だ。迂闊に動いた自分の失態なのでひいひい痛がるのはみっともない。
パールは目を瞑って手を翳してから施術の歌を歌い出した。
その歌声にキンタは目を瞠る。この幼稚な少女のどこにこんな力強く快い歌声が潜んでいたのだろうと。
キンタは弟として過去の七年間をパールと一緒に過ごしている。その頃も歌を歌うことがあったが、こんなに上手くはなかった。いや、上手いと言うのは語弊がある。確かに一流どころの声ではあったが、技術的なものよりは心に訴えるものの方が大きい。素直に心と身体に染み入る、優しくて自然なウェーブが、キンタの全身を包んでゆく。
―ああ、これか…―
キンタは思った。
これが一平の言っていたパールの本質か、と。他者を癒せるのは、崇高な心の持ち主でなければできないと彼は言っていた。パールにはそれができると。一緒にいて安らげる相手と一生添い遂げたいと。
(お姉ちゃんて…やっぱり凄い奴なのかな…)
襲ってくる心地好い眠気の中、キンタはそんなことを思っていた。
日も暮れかけたリリの森に、悲鳴が響き渡った。
まだ子どもの声だ。二人ほどいるだろうか。
一平は辺りを見回した。
声は遠いが、恐怖と危険を孕む声だった。一平の近くには姿も気配もない。
彼のいるのはまだ森の中間部だ。人里へ出るには三十アリエルほどの距離がある。この刻限にこの辺りで子どもの声がすることは基本的にはあり得ない。リリの森は都市部からは近場だし比較的安全なので、よく野外教室や遠足、家族や友達との遊泳などに使われる。誰か大人が一緒ならいいが、子どもだけで迷っている可能性もなきにしもあらずだ。
それに、比較的安全ではあっても危険が皆無なわけではない。隣接するソルト山には危険な妖物がまだ棲まっているし、夜闇が迫っていることも決して侮ることはできない要因だ。
放っておくことはできないと一平は判断した。国民の安全を守ることは軍人の役割でもある。だがそれ以前に、彼の良心が許さない。一平は声を頼りに泳ぎ出した。
泳ぎながら思う。先程の声だけでは何と言っているのかまではわからなかったが、確かに二つの声が入り混じっていた。それも互いによく似た声だ。子どもであれば声だけで男か女か判断するのは難しい。兄弟かもしれないな、と彼は思った。思って、思い出した。同じようによく似た声を持つ姉弟を。
そう言えば、似ていたかもしれない。まさかこんな所にパールたちがいるはずもないが、声の似た人間はよくいるものだし、彼らのような兄弟だってざらにいるだろう。
今頃どうしているかと、一平はトリリトンに思いを馳せた。
一方的に黙って放って置かれて、さぞかしパールは憤慨しているだろう。側仕えのフィシスにまた厄介をかけているのに違いない。まあ、八つ当たりをすることはないだろうが、その分自分の中に不満を抱えて鬱屈し、失敗をしたり、落ち込んだり上の空になったりすることになるのが常だった。パールに黙って、というのは初めてだったから、もしかしたら一平に嫌われたと思い込んで気を落としているかもしれない。まさかトリトンの壁のお世話になっているようなことはないと思うが、涙のひとつふたつは流しただろう。
(自惚れ過ぎかな?)
そうは思っても、つい顔がにやけてしまう。一平はパールが泣くのにはもう慣れっこだ。泣かせたいわけではないが、泣き顔もかわいいと思う。泣いているパールを宥めるのも嫌いじゃない。むしろ他の誰かにその役を任せることこそ、断固として防ぎたい。その行為はまるで赤ちゃんをあやす母親そのものだったが、互いの愛と信頼があればこその優しさ溢れる抱擁だ。この頃ではそれにキスも加わるが、パールはそれを許してくれる。ただ一人の想い人、一平に対しては。
(ごめんよ、パール。もう少しだけ、待っててくれよな)
再び声がした。
さっき声がした方向からだ。先程よりははっきりと聞こえる。だが、これは…。
歌だった。透明感のある美しいソプラノが海流に乗って運ばれてくる。
(パール?)
それは一平のよく知る歌声だった。だが、こんな所で聞こえるはずのないものでもあった。
(空耳か?)
パールのことを考えていたから、幻聴が聞こえてしまったのだろうか。だとしたらなんて情けない。二日やそこら会わなかっただけなのに、疲労や病で体調を崩しているわけでもないのに、何より聞きたい恋人の声を幻として出現させるなんて。
一平は幻聴を追い払おうと頭を振ってみた。
だが、特に変化はない。相変わらずパールの声にそっくりな歌は音量を上げこそすれ、消えははしなかった。
(まさか…)
あの天使の歌声が、そう誰にでも紡ぎ出せるものだとは思えない。ムラーラではナイチンゲールと呼ばれる癒しの歌姫のことは既に伝説となって久しかったし、ここトリトニアを含んだポセイドニア全体でも現存が明らかになってはいないと聞く。
(…似ているだけなのだろうか…)
癒しの歌だとしても、まだ距離があるせいか歌いはじめのせいか、一平の心身には何の変調も見られない。
(確かめるしかない…)
一平は、知らず急ぎ足になっていた。
生き物の近づく気配に、キンタは目を覚ました。いつの間にか眠ってしまったらしい。気がつくと、施術をしていたはずのパールもキンタの胸に寄りかかったまま目を閉じていた。すやすやと寝息が聞こえる。辺りはとうに暗い。
「お姉ちゃん、起きて」
キンタはパールを揺り起こした。
「…うう…ん…」
施術後の常で、パールは体力を消耗している。ただでさえ寝起きが悪いので、まがりなりにも護身の訓練を受けているキンタのように機敏には起きられない。
近づく危険に対処するために、海人には眠っていても大物の気配を察知する機能が備わっている。人により個人差があるが、訓練で補えるものでもある。一応の次期王位継承権を持つキンタは小さい時からこうした訓練を受けさせられていた。パールとて王族ではあるが、病弱な彼女にとっては眠ることこそ必要であり、無理矢理神経をいじめることなどもってのほかであった。そしてトリトニアの王位は男子優先であり、第一子であっても女の子であるパールの王位継承順位はうんと低かったのだ。
「何かが来る。オレたちより大きいものだ。用心して」
暗いのと、戸外で眠りを妨げられる状況、そして危険が迫っていることを知らせる言葉と緊迫感…。久しく遠ざかっていた旅の間の雰囲気をバールは体感していた。
「…一平ちゃん⁉︎…」
思わず隣にいるキンタの胸にしがみつく。
「ばっ…オレだよ。キンタ。間違えんな!」
姉とは言え、パールはキンタにとっては異性である。自分とは違う甘い匂いを嗅ぎ取って、キンタは慌てた。パールの身体を押し退ける。
パールが見上げる。しばし考え、思い出す。これは一平のする対応ではない。
「…そっか…」
「それどころじゃないんだ。お姉ちゃんの倍はあるよ。イルカならいいけどシャチだと困るな。一体だけみたいだけど、もしまた変な妖物だったら…」
自分一人で対処できるだろうか、とキンタは厳しい顔つきになった。得物は件の手斧一挺しかない。
「暗いんだから、オレから離れないでよ」
姉ではあるが、か弱い女性のパールを守らねば、とキンタは気持ちを引き締めた。
暗くても、僅かでも光があれば―海上からの月の光、星の輝きなどだ―波覚で物の形を判別することができる。だが、森の中はどうにも障害物が多すぎる。どんな形の生き物が近寄ってくるのか判断に苦しむ。
「…一平ちゃんの匂いがしたと思ったんだけど…」
再びキンタにくっつき直し、パールは言った。
「まだそんなこと言ってんの?いい加減にしてよ。オレじゃ頼りないのはわかるけどさ。いない人をあてにしたってしょうがないだろ?」
「…そうじゃないよ。ごめんね。パールの勘違いで…」
素直に謝られると、言った方としてもそれ以上責める気にはならない。
「いいよ。それより…来た!」
いよいよ間近になった曲者の気配に、キンタはパールの肩をしっかと抱き寄せた。
目の前の海藻が揺らぐ。大きく揺らいで何かが顔を出す。
「きゃああああ…」
恐怖で、パールは出現したものを見もしないで悲鳴を上げた。
キンタの腕にも力が入る。だが、キンタは雄々しくも目を瞑ったりはしなかった。恐怖はあったが、精一杯の勇気を鼓舞していた。ここで怖気づいたら一生笑われる。せっかく赤いマントが似合うと言ってくれた一平に対して顔向けができない。
そして、開かれたキンタの目に飛び込んできたのは、彼が誰よりかっこいいと思う人の姿だった。
「パール?…キンタか?」
そして頼り甲斐のある低い声。
「なんでこんなところにおまえたちがいるんだ⁉︎」
「…一平…」
キンタはやっとのことで声を上げる。
パールも目を開けていた。恋しい人の声への反応は早い。
「一平ちゃん…」
動作も素早い。
「一平ちゃん‼︎」
あっという間にキンタの腕を振り解いて、一平の胸に飛び込んだ。
「一平ちゃん、一平ちゃん、一平ちゃん…」
「本当に…一平なの?幻じゃ、ないよね⁉︎」
「それはオレのセリフだ。なぜ、王宮でおとなしく眠っていない?一体何のために森に入った?しかも子どもだけで」
泣きじゃくるパールをその手で撫で付けながら、一平はキンタに質問を投げ掛けた。
質問に答える気はあったが、キンタの心臓はまだ落ち着いていない。極度の緊張の後の安堵で動悸が激しい。
まともに喋れるようになったのはパールが先だった。
「パールなの。パールのせいなの。パールがキンタについてきてって頼んだの」
「まさか…」
自分を追いかけて来たのではあるまいな、と一平は思った。
「医科の…ヒンギス尊師に頼まれたの。薬草の採集に来たの。みんな流行風邪で来れる人がいなくて、キンタに一緒に来てもらったの」
「なる…」
「でも、パールがわがままを言ったから、だから帰るのが遅くなっちゃって、変な妖物も出るし、キンタは怪我しちゃうし…」
「あれは…やっぱりおまえだったんだな」
パールの話を聞いて、一平は溜飲を下した。
「何?」
「癒しの歌を、歌ったろう?」
「うん…」
一平が満足そうに微笑んでいる。その理由を押し量って、パールは閃いた。
「聞こえたの?」
一平はコクリと頷く。
「だから来てくれたの?」
「まさか、本当におまえがいるとは思わなかったがな」
「パールも。パールも本当に一平ちゃんに会えるなんて思わなかった」
「『本当に?』」
パールの言い回しが不自然な気がして一平は訊き返した。
パールはぺろっと舌を出す。
それで一平にはわかってしまった。やはり一平がちらりと思った通りだったのだ。
「ごめんなさい…」怒られる前に謝ってしまおう。パールはそう思った。「でも…会いたかったよ、一平ちゃん…」
「オレもだ。おまえ会いたさに幻聴が聞こえたのかと思ったくらいだ」
パールは最高の笑顔を浮かべて大好きな一平の胸に顔を埋めた。
「あのお…」遠慮がちな声が割って入る。「第三者がいるんですけど…」
キンタの声に、忘れていたわけではない、と一平が微笑み返す。
「許せ。五秒だけ、あちらを向いていてくれないか」
勇者の懇願に、信奉者が、異を唱えられるわけがなかった。
キンタは深い嘆息をもらした。




