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第十章 杞憂

 一平のことをロリコンだと思っているのはキンタだけではなかった。パールの侍女のフィシスも少なからずそういう気持ちを抱いていた。

 フィシスはパールが帰還してまもなく王女付きの侍女に任命された。年は三十三。子どももとっくに育ち上がって、孫も何人かいる。子育て経験豊富なエキスパートだ。

 王宮の女官の中でも、王子や王女専任の侍女ともなると格もぐんと上がり給金も良くなる。一種の名誉職だ。その代わり責任は重い。主人である王子や王女に何かあれば身を挺して守らなければならないし、日常生活の雑用や身の回りの世話を何不自由なく行き届いたものとしてこなす義務もある。

 王女が病弱であるということで選び抜かれた者だった。従って能力は高い。躾もある程度任されているだけあって、身分の高い王女に対しても手厳しく接することもある。素直だが自由奔放なところのある王女に振り回されながらも、心を込めて仕えている品格麗しい女性であった。

 パールに付き従っていれば、いやでも一平とのやりとりが目に入る。朝晩にキスを欠かさないことにも、パールが一平の懐ですぐ眠りについてしまうことにももう慣れっこになっていたが、だからこそ腑に落ちなかった。

 誰の目から見ても、大柄で逞しく男前で猛々しい力に満ちている大人の男が、なぜこのように頼りなく、さして美人でもない幼魚の王女に入れ込み、求愛しているのか。

 確かに可愛らしい少女ではある。一平の他にも求婚者を従えている。だが、そのどちらにも相応しいと思えるほどの大人の女性としての魅力には、どう贔屓目に見ても欠けるのだ。


 その日の寛ぎの時間、例の如くに眠ってしまった王女をアコヤガイのベッドに受け取ってから、フィシスは片付けと明日の支度のために王女の部屋を出た。途中、三の庭に件の男がひとりぼんやりしているのを目に留めた。

「一平さま?」

 控え目に声を掛けると一平は振り向いた。

「フィシスどの…」

「どうかなさいましたか?お休みになられたのでは?」

「いえ、まだちょっと。…寝付けそうになかったので、少しトレーニングをしておこうかと…」

 一平が三の庭で剣技や体技、それに心技の修行を行うことは珍しいことではない。そのことにフィシスは何の疑問も抱きはしなかった。だが、何か引っかかるものがあった。

「パールはもうぐっすり?」

 そのまま自分の作業に入ってしまうのは悪いと思ったのだろう。お愛想に一平は尋ねた。

「はい、一平さまは寝かしつけの天才ですわ」

 冗談まじりにそう言うと、一平は苦笑した。

「夜は長いものですのに、さっさと寝てしまうなんて、恋人としては少々ご不満でしょう?申し訳ございません」

 図星だったのか、一平はちょっと慌てたように見えた。

「…とんでもありません。パールは眠い時に寝ないとあとに響きますから…いつものことだ」

 王女と同行していた三年の間、この『勇者』はいつもそうして子守をしていたのだろう。男と女の間の何かがあったとは想像したくてもできない。そういう状態だったに違いない。

 この男はそのことに何の不満もないのだろうか?仮にも己の妻として求婚している相手が子どもそのもので、大人の男として鬱屈した思いは浮かんでこないのだろうか?

 無性に、フィシスは聞いてみたくなった。

「窺ってもよろしゅうございますか?」

「…?…なんでしょう?」

 怪訝な表情で、一平は手にしていた剣を収めた。

「一平さまは…あのようなキスだけで満足していらっしゃいますの?」


 唐突な問いに一平は面食らった。あのような、と言うのがどのようなことを言うのかはわかりすぎるほどわかっている。小鳥が餌を啄むような軽くて短いキス。挨拶代わりにされたり、親子の間などでされるものだ。パールと一平の間で交わされるのは、それとほとんど違わない。少なくとも朝晩一度ずつは必ずと言う一風変わった決まり事まである。

 幼いパールはともかく、いっぱしの英雄であり、成人男子の一平にとっては、ままごとのように感じられてもおかしくない。大柄で筋骨逞しい体つきから察する限りは、精力絶倫で女の扱いには長けているように見える。溢れるほどの精気が若い肉体に宿っているはずだ。

 ところが一平のそれを向ける相手は、未だ成人できない幼魚ひとりときている。五ヶ月ほど前に十三の誕生日を迎えたが、相変わらず大変態の兆しはない。一平は若い女性たちの羨望の的で、アプローチも数多いはずだが、パール一途で他には浮いた話ひとつない。それがフィシスには不可解で仕方がない。

「オレが満足していないとお思いですか?」

 問われて一平は逆に訊き返した。

「誰から見てもそうですわ。そのお年で、そのお身体で、満足のいくような関係ではないではありませんの」

「どういう…関係に見えますか?オレたちは…」

 それは聞いてみたいことのひとつだった。いい機会かもしれないと、一平は疑問を口にする。

「…思い合っておられることはよくわかります。…けれど…どうにも…こう申し上げては一平さまにも陛下にも失礼ですけれど…父と娘のような…それとも兄と妹のような…優しい、肉親に対する愛情、とでも申しましょうか…。とても恋人同士、夫婦となられる前段階の方々、というふうには見えませんの…」

 そう言われることはある程度予想がついていた。

「姫さまは…知らないのですから無理もありませんが、肉欲と言うものがまるでおありにならない。それはわかるのです。目覚めるのが遅いと嘆きながらも納得はできます。けれど、あなたさまは?…とうに成人なされ、しかもお若い。性欲と言うものがあって然るべきなのに、姫さまに対してまるでそのような素振りをお見せにならない。まさか、姫さまに女を感じていないわけではありませんでしょう?求婚しているのですから。なぜそのように隠しておくことができるのか、私には不思議でなりませんの」

「ありますよ。オレにだって肉欲くらい。自分でも持て余してるんだ。どうしたらいいのか教えてもらいたいのはこっちの方です」

 少々投げやりな感じで一平は言った。

「どこかで遊んでこようとは、お考えになりませんの?」

 言いながら、フィシスはなんて不謹慎な、と自分を嗜めた。

 一平は答えず、ふっと笑った。

 笑ったのは自分のことだった。自嘲の笑いだ。

 何人かにそう言われたことがある。初めに言われたのはなんとオスカー王だ。それと悪友たち。さすがにこの頃には一平も同じ科に、軍に、多くの友人を作ることができていた。皆パールが幼いことで一平が悶々としているのだろうと心配して言ってくれるらしいのだが、困ったことにというか無用なことに、一平にはそんな気はまるでなかった。

 一平とて男である。肌も露な女性の肉体を見ればときめきもするし興味もあるが、パール以外の女性を見て肝腎なものが立ったことはただの一度もない。それは自分でも不思議だ。女の子に言い寄られても、下心があることに気がつかないし、何の感慨も湧いてこない。


 一平が関心があるのパールだけだった。

 女性として成長していなくても、誰より愛しいと思う。他の全ての人を犠牲にしても、パールだけは守りたいと思う。正直なところ、いつかなどという先の話ではなく、パールを抱きたいと思う。自分の子を産んでくれと、たくさんの子どもたちと幸せな毎日を過ごしたいと願っている。けれど、今のパールにはそういうモーションはかけられない。無理に目覚めさせ、奪ってしまうことで、傷つけたり嫌われたりすることを一平は極度に恐れていた。

 天真爛漫で純粋無垢なひたむきさにこそ、一平は惹かれたのだから。自分のわがままでパールの天性の長所を捻じ曲げ、欲望の餌食とすることは禁忌だった。それ以前にパールとそうなることはまず不可能だったが…。どのみち一平には待つことしか手段がないのだ。

 そう思うと自分が哀れでもあり、不甲斐なく、情けなく思える。

 しかし、決して幸せでないわけではない。愛する女性が自分を慕ってくれている。それは、天にも昇るほど嬉しいことだ。

 幼いが故の無邪気さも愛しいと思う理由のひとつなのだ。

 早く大人になって自分に応えて欲しいと思う反面、いつまでもこのまま可愛らしく戯れていて欲しいと思う。

 一平は精力を温存することなど不都合とは感じていなかった。他の女性に解放するといったエネルギーは存在しない。だから、フィシスの問題は杞憂に過ぎない。

 一平は言った。

「オレに…どうしろと?あなたはオレに女遊びを勧めたいのですか」

「あ…いえ…そんなことは…」

 フィシスは口ごもった。実は逆だった。持て余しているであろうと推測されるからこそ、他所で解消されては困ると考えていたのだ。一平がそんなことをしているとは考えにくかったが、それなら今後も慎んでもらいたいと忠告するつもりだった。

 尋ねる一平の瞳は複雑な色を呈していた。嘲りと哀れみと狂おしさ、そして穏やかな悟りを秘めた色。その瞳を見た瞬間、『勇者』の計り知れない苦しみと悲哀、そして安らぎの心をフィシスは感じ取った。

「オレは満足しています。今のパールをオレは好きだ。壊したくないと願うオレ自身が壊す方に回ってはならないんです。オレの都合なんかその後の問題だ」

「一平さま…」

「あなたを…やきもきさせてしまっていたのなら…お詫びします。しかし…オレはパールを裏切るような酷い男に見えたのでしょうか?」

 フィシスの前言は一平の人格を誹謗したセリフであった。平然として見えたが、一平とて傷ついていたのだ。

 面と向かって責めるのではなく、自分が下手に出ることで思い知らせる。一平は無意識にそういうことができる人間であるらしかった。フィシスは恥じた。

 ―なんと、心が深く広い人だろう―

「無礼なことを申しました。どうぞお聞き流しください。私が心得違いをしておりました」

 フィシスは深く頭を下げた。心からそう思った。

「あなたが謝られることではないでしょう。皆の気持ちを代弁してくださっただけだ。オレとて気になってはいたのです。でも…誓って申し上げます。パールは誰にも傷つけさせません。例えオレ自身からも。彼女と出会ってから、オレはずっと自分にそう言い聞かせてきました。これからもそれは同じです。オレの望みはパールが幸せであること。それさえ守れるのならどんなことでもするし、どんな犠牲も厭わないつもりです。オレの個人的な満足など二の次、三の次なのです。わかっていただけますか?」

 ―余計なお世話だった―

 フィシスは、さらに深々と頭を下げた。


 一平は修練所でめきめきと頭角を顕していった。

 青科での毎月の試験を順調に突破し、入所して半年で少尉にまでのし仕上がっていた。

 少尉から上は将校である。部下の数も格段と増え、立ち居振る舞いもそれなりのものを要求されるようになる。将校の会議にも顔を出さねばならない。兵卒の頃も下士官になってからも、領土内の巡回や警備、妖物退治などでトリリトンを離れることがあったが、最近はもっと頻繁で遠征も多くなってきていた。

 パールはこれが不満であった。

 一平が出世することがではない。それに従って一緒にいられる時間が短くなることがである。

 理性ではわかっている。パールとてわがままなだけの娘ではなく、青科の副科で守人の配偶者としての勤めと心得を日々学んでいるのである。だが、いくら義務だと思っても母やフィシスに言い聞かされても、寂しいものは寂しいのだ。自分の感情に素直すぎるので、それが表に出てしまう。

 だが、困りものの反面、一平には嬉しくもある。『行かないで』『早く帰ってきてね』と懇願されることは、自分に対する愛情の深さを意味するのだから。

 それでも一週間も王宮を留守にしようものなら大変だった。朝晩のキスというパールにとって大事な約束を果たすことができないからだ。その度一平はパールを宥めるのに四苦八苦し、一週間分のキスの嵐をお見舞いされることになる。

 キスされる、或いはしてやることは大歓迎だった。だが、こう何度も一遍にとなると、どうしたって気分は高揚する。そのままパールを押し倒して、むちゃくちゃに抱き締めたいという欲望が膨らんでくる。

 それはまずかった。まだ早すぎる。一平は自分自身にそれを禁じている。だが、パールの方はお構いなしだ。自分の気の済むまで一平を離さない。蛇の生殺しという残酷な行為をしているということにパールはまるで気づかない。ようやく解放されると思わず深いため息が出てしまうくらい、一平は精神を消耗する。

 今回の出動は近場であった。トリリトンの北部にあるリリの森に新たな妖物が出現したらしいとの情報を確かめるための調査だ。

 少尉の一平は隊長のヘル中尉に補佐を命じられて同行することになった。どの程度の兵を派遣すればよいのかを謀るためのものだった。

 急な出動であったから、王宮まで戻って報告をしてからというわけにはいかなかった。パールの元へは伝令を頼めばいいだろうと思っていたが、あれやこれやと忙しく、その暇もないままに予定の刻限になってしまった。一平は部下を持っていたが、私用で伝令に走らせるわけにはいかない。後ろ髪を引かれながらも任務に赴くしかない一平だった。


「ええぇ⁉︎」

 一平がリリの森へ調査に出たという情報はパールの元へも流れてきた。急な出動のこととて、上官が気を利かせて王宮へ伝令を差し向けたのである。

「そんなあ…」

 近場とは言え、リリの森は深く広い。決して近寄ってはいけないと伝えられる魔物の棲む洞窟もある。調査の範疇であっても、一日で済む用事ではなかった。王の元から情報を持ち帰ったフィシスに、少なくとも三日はかかる任務だと聞き、パールは落胆を露にした。

「お気を落としなさいますな。三日なんてすぐですわ。姫さまには、その間にやっておくべきことが山積みではございませんの」

 フィシスの慰めは、パールには却って痛かった。確かに青科の副科で出された課題をパールはこなしきれていない。それは主に料理関係のものだったが、刃物の苦手なパールにとっては、頭の痛い話だったのだ。

「…そうだけど…。でも、三日もなんて…」

 パールは口を尖らせる。

「一週間お留守になされたこともおありでしたよ。あの時はよく辛抱されたと、フィシスは感心いたしましたが」

「あの時は… 一週間分してもらったもん。だから頑張れたんだよ。でも今度は会っていってらっしゃいも言えなかったのに…」

 何を一週間分してもらったのか、言われなくてもフィシスは心得ていた。

「それは残念でございました。けれど、こういうことはこれから一層珍しいことではなくなると思いますよ。何しろ一平さまの目指されているのは国の柱としてのお仕事ですからね。人一倍お忙しくなられるはずです。姫さまも今から覚悟をして、少しは慣れておきませんと…」

 パールは眉間に皺を寄せた。守人の妻としての務めのひとつに、夫の出勤を清々しい活力に満ちたものとして送り出すこと、というのがある。身支度の手伝いや健康管理、そして心の栄養を十分に供給することを言う。具体的には着ていく衣装を整えたり、献立を考えたり、キスで送り出すなどして、愛情をたっぷり注ぐ。そう教えられているのに、肝腎要のキスができなかったのだ。この矛盾をパールは受け入れることができない。

「そんな顔をなさると、目つきが悪くなりますわ。もう十三におなりなのですからおやめなさいまし」

 諭されてしょげながらも、まだ唇は不服そうに尖っている。

「一平さまがお戻りになられたらたっぷり埋め合わせをしていただけばよろしいではありませんか。一平さまにとっても不可抗力なのですから仕方がありませんでしょう?」

 パールを宥めるためにフィシスはいろいろ言ってみる。その中でもこの一言はパールにちょっとした閃きを与えた。

「いいもん」開き直ったようにパールは言った。「一平ちゃんが帰ってきたら三日分してもらうから」

「ええ、ええ。そうなさいまし」

 言ってしまってからフィシスは心の中で舌打ちした。なんてはしたないことを、と止めるべきところを、つい後押ししてしまった。威厳をもって正さねばいけないのに崩されてしまうということが度々生じるようになっていた。パール付きの侍女を務めるようになってから、どうもこの王女の素直であっけらかんとした幼児性に引きずられることが増えてきている。齢を重ねて人間が丸くなったと言えなくもないが、これは多分にパールの性格が影響しているのだと思われた。気をつけねばと思う一方で、王女の可愛さに苦笑が漏れてしまうのを、フィシスは抑えることができなかった。


 一応はこうして踏ん切りをつけたパールだった。

 が、翌日の医科でパールは思ってもみなかった朗報を聞くことになる。

 医科でパールを教えている教授の一人、薬学担当のヒンギス教授より要請があった。下熱に使う海藻の採集に手を貸してほしいというものである。修練所内にある薬の研究所で使用するものは、大体が専門の業者から購入するが、勉学のために教授が学生を引き連れて自ら採集に出向くことも少なくない。

 普段ならボランティア希望者は幾人もいるのだが、このところの流行り風邪のため、今日は学生自体が少ない。その上、教授の予定している採集の日時は明朝陽の昇る前の四時(よんとき)であった。明日は修練所も休みの日であり、既に予定が入っている者も多く、採集に赴けそうな者は極端に少なかった。二、三人しか体の空いているものがいなかったのである。パールは一も二もなくこれを引き受けた。

 他でもない、海藻の採集地が一平の赴いたリリの森だったからである。他にも二名ほどが名乗りを上げたので、明日は教授と三名の学生とで採集に赴くことになった。

 ところが当日になってみると、パール以外の二名も教授も、件の風邪に取り付かれて出発がままならなくなってしまった。

 教授は延期を申し出たが、目的の海藻は今が採集時。皆の風邪が治るのを待っていたら、最適な時期を逸してしまう。パールは一人でも行く、と返事をした。

 予定していた量はかなりのものだ。一人ではどう頑張ってもこなしきれるはずもないが、ないよりはマシだろう。運び役に弟のキンタを同行し、採集へとパールは赴いた。

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