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第一章 決別の夕(ゆうべ)

トリトニアの伝説 第五部 トリトニア交響曲を連載します。


これまでのあらすじ

海人と地上人との混血児一平は人魚のパールとトリトニアを目指して旅をしていた。

日本から太平洋を斜めに横切り、南極海を経て大西洋に入り、ようやくトリトニアに辿り着くことができた。

その間様々な生物に出会い、未知なる世界を見、困難を乗り越えてきた。

途中立ち寄ったムラーラという海人の園では武術をものにし、パールも医術の手解きを受けた。

旅の間に二人は互いになくてはならない相手であり、何よりも守りたい存在であると自覚するようになっていた。

道中わかってきたことには、パールには癒しの力や他種族の言語を理解したり、予知夢らしきものを見たりすることができるということだ。

加えてパールは実はトリトニアの王女であった。

パールが王女であること、これからのパールにしてやれることが何もないこと、どう転んでもパールが自分のものになるはずがないことを、一平は痛感するようになっていた。


詳しくは、第一部 洞窟の子守歌

     第二部 放浪人の行進曲

     第三部 ムラーラの恋歌

     第四部 アトランティック協奏曲

をご覧ください。

 トリトニアでは夕餉の後、くつろぎの時間を持つ。

 最近のパールは、この時間にも手習いをさせられることが多かったが、今日は課題は出ていなかった。パールは待ってましたとばかりに一平を庭園へと引っ張り出した。

 その朝、一平がいつになく元気がなかったので尋ねたところ、疲れが出たんだと言う返事が返ってきたので、癒しの歌を歌ってあげると約束していたのだ。昼間はその時間が取れずパールは一日中うずうずしていた。

 パールが他者を癒す時、主に歌を手段とする。理由はない。ひとえに『そうしてあげたいと思ったから』なのだ。だがこの時は、パールは一平に何の歌がいいかを尋ねた。長らく旅を共にして、パールの歌う様々な歌を一平が知り尽くしているからだ。

 一平は鯨のセトールに歌った歌を所望した。

 記憶力のいいパールはすぐにどんな歌だか思い出し、心を込めて歌い続けた。

 どんな感じ?と目で尋ね、愛らしい眼差しで一平を見上げる。

「身体が軽くなった…そんな感じだ。…ありがとう」

 歌の効き目とお礼の言葉に満足して、もう一度パールは笑う。

 だが、その笑顔はほどもなくかき消されることにな

った。

 一平がこう言ったのだ。

「お別れだな…」

「えっ?」

 何を言われたのだろう?とパールは一瞬真顔になる。

「……」

 一平は答えない。怪訝な顔で覗き込まれたが、彼は返事をすることができなかった。

「…なんて…言ったの?…おわかれ?」

「……」

 問い質されても言葉が出ない。口に出してしまったくせに、パールが落胆するであろうことを考えると、この先なんと言って説明したらいいのかわからなかった。

「一平ちゃん…」

 一平の言葉は、パールには聞き捨てならないものだった。いつになくしつこく、彼女は訊き返した。

 大抵は彼女の言うことを黙って聞き入れ、わがままを大目に見てくれていた一平がだんまりを決め込む。いつもに似合わぬその様子に、パールは敏感に悟った。『お別れ』ということは『もう一緒にいられない』ということだと気がついたパールは血相を変えて叫んだ。

「やだよ!なんで?なんでおわ…」

「パール‼︎」


 叫んだパールの声に負けないほどの強い調子で、一平は言葉を遮った。

 滅多にない一平の大声に、パールはピクっと肩を震わせた。

 固まるパールに一平はゆっくりと顔を向ける。

「…よく聞くんだ、パール。…おまえのうちは、ここだ。おまえが生まれ育ったトリトニアの王宮が、おまえの本来いるべき所なんだ。それはわかるだろう?」

「うん…」

 パールが、こくりと頷く。

「別れ別れになっていたパパとママにやっと会えたんじゃないか。 三年も心配かけたんだぞ。これからはその分も親孝行しなくちゃ。ママにいっぱいお料理教わるって、おまえ言ってたじゃないか」

「そうだよ。一平ちゃんと約束したんだもん。うんとお料理上手になって、おいしいもの食べさせてあげるよ」

 そうだった。それを約束したのは一平のためだったのだ。幼い中にも、自分への好意以上のものを感じて、思わず抱き締めたくなったことを一平は思い出した。

「いつかな…。おまえの腕が上がるのを楽しみにしてるよ」

「うん!」

 嬉しそうにパールの顔が綻ぶ。

 でもそれは糠喜びに過ぎないのだ、と一平は思った。いつかなんていう日は、絶対に来ないかもしれないのだ。

 

 複雑な思いが交錯する一平の胸中に気づきもせず、パールは期待いっぱいに続けた。

「だから見ててね。ずっとここにいてね。お別れなんて嘘でしょ?」

「パール…。パールは王女なんだよ。正当な、トリトン族の、トリトニア王国の後継者なんだ。ボクとは違う」

「何が違うの?」

「知ってるだろ、ボクのお母さんは地上人なんだ。ボクは混血、半分は地上の人間なんだよ」

「だから?」

 パールには一平の言わんとしていることが全く想像できなかった。

「ほら、パールには、時々変態が起こるだろう?眠っている間に、一回り体が大きくなるやつさ。でも、ボクには起こらない。地上の人間と同じように、毎日少しずつ大きくなる」

 とは言え、半分海の人間の血が混ざっているだけあって、一平の成長速度は普通の人間より早かった。幼い頃はそうでもなかったが、この頃ではまるで大人になるのを急いでいるかのように早い。精通なんかとっくに起きていたし、見るからに幼女のパールにすら欲情するようになってしまったのは、彼が異常なのではなく、寿命の短いトリトン族が子孫を残すために当然必要な段階だった。トリトニアでは男子は十四で成人。十六歳になる一平には、もう我が子の一人くらいいても決しておかしくはなかったのだ。滋養豊富な海の恵みのせいか、見た目は若く肌も瑞々しいのがトリトン族の特徴でもあった。

「パールは一日陸にいたら干上がっちゃうけど、ボクはそうならない」

 一平の言うことはいちいち尤もなのだが、パールにとっては何を今更…と言ったものだった。そんな事はパールが一平と一緒にいるのに何の不都合もなかったのだから。一平はパールと同じでずっと海の中にいてもなんともないし、変態が起こらないのは無防備状態がないのだからむしろ好都合だったのだ。

「そんな奴、このトリトニアにいるかい?」

「んー」

 しばしパールは考えた。幼い頃の記憶を手探りで手繰り寄せていく。

 結果、素直なパールは言った。

「いない」

「な。ボクはここでは部外者なんだよ」

 またわからない言葉が出てきた。

「ブガイシャってなーに?」

「仲間外れってことさ」

 パールは膨れた。

「パール、一平ちゃんを仲間外れになんかしないもーん」

「そうじゃないんだ。パールがしなくても、誰かがしなくても、ボクが自分で仲間外れだって思ってしまうんだ」

「そんなの変ー」


 ―変だよな―と、一平は思った。

 ここまでやってきて気遅れしている自分を冷めた目で見つめていた。

 今までは無我夢中だった。パールを守れるのは自分しかいないと思ってきた。わがまま放題のパールを愛しんでいけるのは自分だけだと自負してきた。その思いが彼をして、これまでの苦難に立ち向かわせてきたのだ。が、ここに至ってそんなものはものの見事に打ち砕かれた。

 パールを王宮に送り届けて、その両親である国王夫妻に会い、パールを愛しんでいるのは自分でだけではないと思い知らされた。行方不明になった時に九歳であったパールには、既にパールに思いを寄せる求婚者までいたことを初めて知った。それが王女のパールには申し分のない血筋と育ちの男であること、三年の間、諦めもせずにパールの帰りを待ち続けていたことも、一平の心に大打撃を与えた。

 純粋なトリトン族でない一平には、それだけで純粋培養のパールに自分は相応しくないと思えたのだ。

 どんなに大切に思っていても、もしもパールが自分を伴侶として認めてくれたとしても、いつかそれが障害になる時が来る。王家に地上の人間の血が混じる事はタブーであるに決まっている。だったら…。

 自分の気持ちを打ち明ける前に、悟られる前に、パールがこれ以上自分に懐く前に、目の前から消えた方がいい。

 パールを親元に返すことを三年の間目標としてきた一平には、パールを攫って逃げるなどという事は到底考えられなかった。

 自分の気持ちを正直に伝えることができない。だから説得力にも欠けてしまう。自分で変だと思う言い訳を素直なパールに納得させられる方が不思議というものだ。


「一平ちゃん変…。パールに、嘘つこうとしてるでしょ」

 見抜かれて一平は目を瞠った。

「ほら、驚いた。だめだよ。嘘ついちゃ。パールには、ちゃあんとわかるんだから」

(普段鈍いくせに、なんでこういう時だけ敏いんだよ、ばか)

「一平ちゃんはパールの恩人だよ。そんなこと、パパもママもみんなもわかってるよ。仲間外れになんてしないよ。そんなふうに思っちゃうなんて変だよ」

 戸惑う一平の方に身を乗り出し、懐から見上げるようにして言い募る。

「お別れなんて言っちゃやだよ。どこにも行っちゃだめだよ。パールを置いていかないでよ」

 捕まえていなければ逃げてしまうとでも思っているのか、両手をしっかり押さえつけている。

「…もしどうしても行くんなら、パールも一緒に連れて行ってよ」

「パ…」

 一平を覗き込むパールの目は真剣だった。もう子どもの目ではない。愛する人と一緒にいたいと願う女の目だった。

 パールが少しだけ伸び上がった。目を瞑り、一平にキスした。

 一平から見ていつまでも幼いパールも確実に成長していた。もう幼女ではなかった。人よりちょっと遅いらしく、まだ尻尾があったが、成人間近である。長旅で苦労した分、人を大切に思う心も、辛苦を耐え忍ぶ力も、王宮で蝶よ花よと育てられていたら身に付かなかっただろうことを早くから知っていた。それは全て一平が教えてくれたことであった。パールの中で一平は何よりも失いたくないもの、誰よりも大切な人になっていた。もうずいぶん前から…。

「…おまえ…」

 唇から染み渡る快感に浸りながら、一平はまだ足掻いていた。

「誰に教わったんだ、こんなこと…」

 一平の質問にパールはにこっとして答えた。

(なんだ?その笑みは?なんでそんなに余裕があるんだよ?)

 まるで慣れているようだ、と一平は思った。

(…だとしたら、誰と?いつ、誰がこいつに教えたんだ?)


 嫉妬だった。いつか自分が堪えきれずに、すやすや眠るパールに触れてしまったことなど棚に上げて、一平は憤っていた。

 が、それはパールの一言ですぐ収まった。

「一平ちゃんだよ」

「へ?」

 後にも先にも、あの時一回きりしかない。でも、あの時パールは確かに眠っていたはずだ。でなければできはしなかっただろうし、してしまってから後ろめたさにあんなに悩みはしなかったのだ。

 ―知ってたのか?―

 顔に火がついたかと思うほど熱くなった。子どもだ子どもだと思っていたのに、パールの方が一枚も二枚も上手(うわて)じゃないか。全く女ってやつは油断も隙もない。そう思って改めて見直した。

「あ、でも、トリトニアでもしてたよ」

(ナニ?)

 また、一平の頭に血が上った。全く忙しい。

(まさか、アイツとじゃないだろうな?)

 パールの求婚者だという男の顔が脳裏に浮かんだ。

「パパとねぇ、ママと。おはようとおやすみの時」

 それなら許せる、と一平は思った。思ってから、自分を嗜めた。

(許す許さないの問題じゃないだろう。偉そうに…。パールはボクのものじゃない。誰とキスしようと彼女の…)

 自由だ、とは思えなかった。誰ともキスして欲しくない。たとえあの国王夫妻とでもだ。

 きっと怖い顔をしていたのだろう。一平の心の内の煩悶をパールは少し感じ取った。

「…怒った?」

「………」

「一平ちゃん、やだった?」

 自分が勝手にキスしたことが不快だったかとパールは訊いている。

(…いやなわけないだろう!あぁ、もう、そんなにくっつくな)

 パールの手は相変わらず一平の手を握り締めたままだった。心臓が口から飛び出しそうなほどドキドキしている。

 ここでやらなきゃ男じゃない、とも思った。が、やはり血のことが頭を掠める。

「…パールね。一平ちゃんがいればそれでいい。パパもママもいらないよ。一平ちゃんがニッポンのおうちに帰るんなら、パールも一緒に行く。干からびたって構わない」

 限界だった。

 抱き締めた。

 折れてしまいそうだったが、折れはしなかった。パールの身体は弾力があって柔らかくて、そして張り詰めていた。

 ―好きだ―

 身体中がそう叫んでいたが、どうしても言えなかった。言ってしまったら、もう取り返しがつかない。

 パールが自分を思っている事は痛いほどわかった。いや、そんな事は前からわかっていた。気がつかないようにしていただけだ。触れないようにしていただけだ。パールを親元に送り届けるまでは何者にも犯させはしない。例え自分からも。

 言ってしまったらその箍が外れてしまう。封印が解けてしまう。その恐れは一平の中にまだあった。

 一平に抱き締められてパールは身動きできない。でも、それが嬉しかった。いつまでもこうしててほしいと思った。一平ちゃんの心臓の音が一番安心できる。

 パールはいつの間にかすやすやかと寝息を立てていた。

 何の事はない。まだ思いっきり子どもだった。

 がっかりすると同時に、一平は鼻の下を伸ばした。

 ―これで好きなだけ抱き締めていられる―と。


 パールを自室に連れて行くと、寝支度を整えていた侍女に行き会った。一平が、世話をするべき王女を抱えていると気づくや、一歩下がって道を空けた。頭を垂れて目を伏せる。

 一平も、パールを抱いているので目礼だけを返す。

「眠って…しまいました。…中に入ってもいいですか?」

 侍女がてきぱきと帳を手繰り寄せる。人一人が通れるほどの隙間をくぐり抜けて、一平はパールの自室に足を踏み入れた。

 一平に与えられた部屋と造りは変わらない。広さもほとんど同じだ。これが王女の部屋かと疑うほどに、いっそ質素と言ってもいいくらい、飾りらしい飾りのない部屋だった。

 しかし、これはパールが蔑ろにされているのではなく、トリトニアの気風のなせる状況なのだ。

 王宮の中でも、人々が集う公の部分はまだしも美しく整えられていたが、奥の私の部分に近づくほど煌びやかさは姿を消してゆく。それはここに初めて連れられてきた時にも感じたことだった。

 一平に供された部屋も、ムムール邸に比べても殺風景だったが、どの部屋もそう大差なく―王女であろうが、王子であろうが―むしろ掃除の行き届いていることこそが賓客をもてなす第一条件であったのだ。事実、彼の部屋は何代か前の王子がその居室として使用していたVIPルームのひとつだったから、破格に上客の扱いをされていたのである。

 しかし、ここに来てから一平はパールと引き離されていた。

 いや、決して引き離されたと言うわけではない。今まで朝も昼も夜もずっと一緒に休んでいたというのがそもそも異常だったのだ。一平は既に成人男子だったし、パールとてどんなに子どもっぽくてもまもなく女子の成人の時を迎える妙齢の女性であったわけだから。今までと同じく共に休むことなど、常識的にはありえない。しかも、パールはこの家の住人であり、一平はただの客という立場なのだ。

 パールの部屋に足を踏み入れるどころか、覗いてみたことすら、一平にはありはしなかった。


 そのパールの部屋は、同じ質素な中にも温かみが感じられた。人形やおもちゃらしきものが所々で顔を見せている。例の等身大の鏡の脇には、櫛や髪飾りらしきものが並べて収められている。まだ幼女なので衣類はないが、いずれ掛けられるのだろう、いわゆるクローゼットのスペースが空いたままになっていた。

 そして、大きなアコヤガイの寝台。

 侍女がそそくさと泳ぎ寄り、王女を休ませるために貝の肉を寄せて一平が寝台の主を下ろすのを待っている。

 静かにパールを下ろすと、貝の寝台が待ち構えていたように主を包み込む。心地好い香りが立ち上って、一平は一瞬くらっとした。

 毎日毎日、パールの全てを包み込んで守る役割のアコヤガイには、彼女の匂いが染み込んでいるようだった。三年ぶりに帰ってから幾日も経ってはいないが、かつては彼女が生まれてから十年近く、この貝はパールをその懐に抱き続けてきたのだ。

 パールの香りを放つもの言わぬ寝台を、一平は心の底から羨ましいと思った。ついこの間まで一平こそがその役割を担っていたのに…。いつの間にか剥奪されてしまった権利を再びその手にしたいと、彼は切に思った。

「安らかな寝顔でございますわね。姫さまは、本当に一平さまにお心を許しておいでになるのですね」

 侍女の呟きに、一平は現実に引き戻される。

「ご覧くださいまし。ほら、こんなに幸せそうに微笑んで…」

 

 何度も何度も、それこそ数えきれぬくらい沢山目にしてきた光景だった。一平の見ている前であっという間に寝入るパールの寝顔は、いつも安心しきって安らかだった。その寝顔をこそ守っていきたいと、彼は思っていたのだ。この三年間、それを守ることのみを考えて生きてきたと言っても過言ではない。

 だが、逆に守られたことも決して少なくはない。

 嵐の時も、鮫とやりあった時も、魔物や神獣やその他いろいろな敵との死闘の時も、パールがいなかったら一平は助からなかった。

 それでも彼はパールを守ってきたつもりだった。癒しの力を始め、パールには他種の言葉がわかったり、霊と話ができたり、不思議な現象を引き起こしたりする力がある。必ずしもしようと思ってできることではないようなのだが、パールは何か大きな力に守られている―そういう気が、一平にはしていた。

 ならば、自分などいなくても大丈夫かと言えば、そうするにはパールはあまりにもか弱くひ弱で危なっかしかった。

 パールを送り届ける事は、大事な従兄弟たちとの約束でもある。いや、それ以上に一平自身がそうしたかったのだ。

 いかに無謀と思えることでも、パールのことを思えば勇気が出た。

 自分はどうなっても構わなかった。パールをさえ、守れるのなら。

 必ず、自分の手で、バールをトリトニアにいる親元へ送り届けてやると、固い決心を胸に果てしない旅を続けてきた。

 そして今、パールはトリトニアにいる。一平の望み通りに…

 果たしてそれが真に一平自身の望みであったのか。

 そのことに、今の一平は自信が持てなくなっていた。

 トリトニアとは、パールにとって安全な場所。両親の庇護の元で、本来いるべき世界で幸せになれる場所なのだ。

 もう一平がパールにしてやれることは何もない。

 一平がいなくてもパールは無事だ。安心だ。

 パールにとってよいことのはずなのに、なぜかそのことがひどく辛い。

 自分がもう必要のない人間になってしまったのだという哀しみが、一平の胸を締め付ける。

 一平の胸中など知るべくもない侍女に泣きそうな顔を見られまいと、一平は努めて荒々しく立ち上がった。

「一平さま…」

「バールを…お願いします…」

「⁈…はい…」

 侍女は少し怪訝そうに首を傾げたが、言うべき言葉もなく、若者の大きな背中を見送った。


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