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第9話:閉ざされた香房と、紅の指先

 春珠が目を覚ましたのは、事件から三日後の未明だった。薄明かりの中、視界をおぼつかせながら最初に見たのは、小花の背だった。


「……小花様?」


「……春珠。気がついたのね」


 小花は振り返ると、ほっと安堵の息をついた。薬香を焚き続け、意識の回復を待った甲斐があった。


 だがその直後――


「春珠が目を覚ました!? それは真実ですか!」


 慌ただしく扉を叩く音と共に駆け込んできたのは、高貴妃・薛麗花だった。彼女はすぐさま春珠の手を取り、震える声で問う。


「あなた、本当に……無事なのね……!」


 涙を滲ませる高貴妃に、春珠はうっすらと微笑み、弱々しく頷いた。


「高貴妃様……わたしは……」


 言葉は続かなかったが、その微笑みがすべてを物語っていた。


 ――命を、拾ったのだと。


***


 その後、筆頭尚書女官の追放と、文墨と娘の下野は密かに行われた。だが後宮に渦巻く闇が、それで晴れたわけではない。


 むしろ、何者かの指によって再び「香」が動き出していた。


***


 数日後、小花のもとに一通の密書が届いた。


《香房にて、禁制の香が練られている。》


 それは後宮内でも特権階級しか立ち入れぬ「禁香のきんこうのぼう」を指していた。通常は儀礼用や皇帝の専用香を調合する神聖な場――だが、そこに不穏な動きがある。


 密書に記されたのは、春珠が倒れる前夜に禁香の房で見た「紅い指先」の存在だった。


「紅い……指?」


 小花の脳裏に、ある女の姿が浮かぶ。紅玉ホンユー――高貴妃に仕えていた、かつての第一侍女であり、今は他所に異動させられていた女官だ。春珠が侍女に任命された直後、まるで“席を譲るように”退けられたのだった。


「……紅玉が禁香の房に?」


 確証を得るため、小花は深夜、香房の外壁沿いに潜入した。香炉の煙が夜風に混じる。鍵はかかっている。だが壁の隙間から中の気配が読み取れた。


 ――花を炙る香の熱、油を調合する音、そして甘く、だがどこか刺すような異香。


「これは……『催紅香さいこうこう』?」


 催紅香とは、感情を高ぶらせ、人の意識を乱す特殊な媚香だ。だが分量を誤れば、精神を壊し、意識障害を引き起こす。


「まさか、これを皇帝に……?」


 突き止めた真実は、あまりに危うかった。


***


 その翌朝、小花は再び皇帝の寝殿へ呼ばれた。


「朕の御香の調子が……おかしいと?」


 疑問を呈する皇帝に、小花は静かに頭を下げた。


「はい、陛下。最近お使いの香に、感情を激昂させる成分が含まれております。おそらく、心を乱すことで政治判断を鈍らせる意図があるかと」


 側近たちはざわめいた。


「証拠はあるのか、小花」


「昨晩、禁香の房にて調合された香を入手し、既に薬理の分析を済ませております」


 小花が取り出した香札には、分析結果と共に、紅玉の髪の一部と紅染めされた爪――あの「紅い指」の証が添えられていた。


 皇帝はしばし沈黙し、やがて低く命じた。


「紅玉を捕らえ、取り調べよ。そして――禁香の房は、一時閉鎖する」


***


 その夜、小花は薬棚の整理を終え、月明かりの下でほっと息を吐いていた。


 事件はまだ終わらない。


 香という目に見えぬ武器が、後宮という密室の中で動き続けている限り――。


 だが、少女は決して目を逸らさない。香りに込められた真意を、嘘を、毒を、暴くために。


 ふと、軒下に小さな影が立っていた。


「……高貴妃様?」


 月明かりの下、薛麗花は静かに言った。


「あなたのおかげで、春珠も、私も……守られたわ」


 小花は少し困ったように笑った。


「わたしは、ただ“香”の声を聞いているだけです」


「その“耳”が、誰よりも頼もしいのよ」


 そう言って、薛麗花は小花の掌に何かを握らせた。


 それは、小さな銀の香壺だった。かつて高貴妃が最も信頼する侍女にだけ託したとされる、祝福と信頼の証。


「わたしの隣で、これからも“香の真実”を読み解いて。あなたの才を、閉じ込めるには惜しいわ」


 小花は何も言わなかった。ただ、そっとその香壺を見つめ、胸の奥で決意を固めた。


 ――この後宮に、まだ救える命がある限り、私は立ち向かう。


 その静かな覚悟だけが、夜の香気の中に、確かに薫っていた。

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