第16話:沈香の密書と、母の遺した影
それは、芳妃となって三日目の朝。
小花のもとへ、一通の密書が届けられた。
香袋の中に隠されていたそれは、精緻な筆で書かれた、わずか数行の短文。
「沈香に潜むは、“黒の香”。
過去と未来を、香が結ぶ。
――雪蓮の名を、知れ。」
送り主の名はなかった。
ただ、文の最後に、母の筆跡によく似た、花びらを模した印が押されていた。
「……お母さん……?」
不意に呼吸が詰まる。
その名――“雪蓮”とは、かつて母が“香の師”として敬っていた人物。だが、すでに十年以上前に姿を消しているはずだった。
母は言っていた。
「雪蓮さまの香は、真理を閉じ込めていた。
人の命をも左右するほどの、深く、静かな力……」
そして、もう一つ。
「“黒の香”にだけは手を出すな。それは、人を壊す香よ」
密書に記されたこの言葉は――明らかに、小花を“何か”へ導こうとしていた。
午後、小花は尚香局に赴き、先日押収した“水没沈香”の一部を香炉で焚いた。
香りは、やや金気を含んだ甘さ。だが、ただの沈香ではない。
その奥に、微かに混ざっていたのは――
「……これは、“黒香花”。」
かつて絶滅したはずの、特殊な香料植物。
香を嗅ぎ続けることで中毒症状を引き起こし、思考を濁らせ、暗示にかかるようになる……“香による洗脳”。
すぐに、蓮霞が駆け込んできた。
「小花様! 大変! 外宮の嫔妃が、昏倒したって!」
「どの妃?」
「――綺妃さまよ!」
綺妃・斉悠華。
教養と礼節を兼ね備えた、文の才をもって后に次ぐ地位を望まれていた存在。
外宮・綺芳殿。
小花が到着したとき、侍女たちが慌ただしく寝台の周りを取り囲んでいた。
「綺妃様は、朝からずっと香を焚いておられました。けれど……急に息苦しさを訴えて倒れられて……」
小花はその香炉を手に取る。
香残りには、例の“黒香花”の気配。
しかも、それは意図的に“他の香”で偽装されていた。
「これは、“沈香白檀”の形をとった、改良毒香……」
寝台に横たわる綺妃の脈を診ると、呼吸が浅く、瞳孔も収縮していた。
黒香花の症状に間違いない。
「すぐに“醒脳香”を。あと、芳香院から白梅と菖蒲の根を取ってきて!」
「かしこまりました!」
蓮霞が走る。
小花は、自ら香を調合し、香炉に火を灯す。
芳しい香りが、静かに寝台の上へ立ちのぼる。
やがて――綺妃が微かに目を開けた。
「……ここは……」
「目を覚ましてくださって、よかった……」
侍女たちが安堵の涙を浮かべる中、小花の表情は引き締まっていた。
これは偶然ではない。
黒香花は、調香技術がなければ扱えない。
誰かが意図的に――“香で人を殺そうとしている”。
その夜、密かに芳香苑にやってきたのは、尚香局の陸雲芙だった。
「……小花様。あの“黒香花”について、少し気になることが」
「ええ、私も調べているところです」
「昨年末、外宮の一角で“失踪した調香師”が一名。遺体も見つからず、事件として処理されなかったのですが――彼女の名前が、“雪蓮”でした」
小花の手が、震える。
「……え?」
「私の記録では、彼女は十年以上前に姿を消していましたが、実は偽名で後宮に入っていたようです」
母の師である雪蓮が、黒香に関わり、後宮で死んだ……?
「その……彼女の最後に調香したとされる香の記録が、ひとつだけ残っています」
「香譜……? それを、見せてください」
陸雲芙は、書簡の中から一枚の香譜を取り出す。
そこには、見覚えのある調香式が書かれていた。
だが、それは未完成だった。
「“沈香三陰式”。これは……母の遺した香譜にも、似た式があった」
「小花様の母も……?」
「もしかして、母は、雪蓮さまと一緒に……この“黒香花”の真実を調べていたのかもしれない」
記憶の中の母の背に、淡く香が重なる。
小花は拳を握る。
「……私が、やり遂げます。母が見ようとした香の真実を、私が受け継ぐ」
夜半、再び香を焚きながら、小花は母の遺した香譜を見つめていた。
その端に、小さな余白。
よく見ると、ほんの僅かに香墨がにじんでいた。
水に濡らすと――そこに、文字が浮かび上がる。
「“黒香花”は、人を壊す。だが、逆転の香がある。
それは“沈香三陰式”。ただし、その調香には、私の命が要る――雪蓮」
そして、次の一文に、小花の息が止まる。
「小花へ。お前がこの香を手に取ったとき、私はもう傍にいないでしょう。
でもね――香は、想いを遺せるの。私は、お前に香で生きてほしい。
壊すのではなく、救うために。
それが、母の願いです」
涙が、ぽろりと落ちる。
母が、師と共に追い求めた香の真実。
それが、今、自分に手渡された。
香の闇と、記憶の影。
後宮に渦巻く陰謀の核心に、小花は一歩、足を踏み入れた。