第15話:芳妃の初政と、香に忍ぶ微睡み
その日、後宮の空は薄曇りだった。
芳妃――それが小花に与えられた新たな名。
だが彼女の心には、重く静かな水面のような迷いが残っていた。
朝餉を終えた後、小花は初めての政務として、尚香局へ赴いた。後宮内の香支給に関する不備があるとの報告を受け、調査を命じられたのである。
小花の側には、すっかりお付きの侍女となった蓮霞が寄り添っていた。
「緊張してる?」
「少しだけ。でも……香のことなら、胸を張れるわ」
それが唯一、彼女が“選ばれた”理由。
寵妃としての格式も、装いも、今はまだしっくりこない。
だが、香だけは、誰にも負けない。そう信じていた。
尚香局。
宮中で使用される香材や調香を管理する役所である。
小花は責任者である女官・陸雲芙に迎えられた。
「芳妃様、お噂はかねがね……まさか、正式にこのような場でお目にかかる日が来るとは」
「形式は抜きにして構いません。ここでは、“小花”として話をさせてください」
香の帳簿を前に、小花は眉を寄せた。
沈香、白檀、桂皮、龍脳……香材の出納には、わずかながら不自然な数字が混じっている。
特に問題だったのは、高価な“沈香”の扱いだった。
「ここ数ヶ月、沈香の搬入量に対して消費記録が合いません。中でも“午の日”だけ、外庫から大量に香材が出されている」
「はい。ただ、その日の記録には、院長の巳桂様の許可印がきちんとありますので……」
「“印”だけなら、誰にでも押せるわ。香そのものに聞いてみないと」
小花は香庫に保管された沈香の断片を手に取り、鼻先に近づけた。
微かに感じる、柑橘にも似た甘みと、乾いた木の焦げるような苦味。
「これは……水没沈香。南の交易港で最近出回っているもので、宮中に正式に入るにはまだ許可が下りていないはずよ」
「なっ……!」
「つまりこれは“誰かが外から持ち込んだ私物”を、“宮中の在庫”にすり替えている」
小花の目が細められる。
香は、嘘をつかない。
そこにあるのは、“誰が”ではなく、“何が”通ったのかという確かな記憶だ。
「午の日。院長不在の時間帯。“沈香”が帳簿より多く出ていく……。この日付、記憶にあるわ」
小花はそっと帳簿の端をなぞり、細工された紙の層を指で剥がした。
下から現れたのは、見覚えのある筆跡だった。
「……姜蘭女官」
「尚香局補佐でございます」
「彼女が記録を改ざんし、香材を抜いていたの。しかも、沈香の代わりに水没沈香を混ぜて、差額を外に流していたのね」
陸雲芙が顔色を失う。
「まさか……それほどの手口とは……!」
同日、皇帝・李景曜は大書院にて、小花の報告を受けていた。
「ふむ。香の“質”で真贋を見抜くとは、小花らしいな」
「香は、記憶を持つのです。その場の空気、その時の想いまでも――すべて焼き付ける」
皇帝は一通の巻紙を取り出し、小花に差し出した。
「姜蘭の件、すでに上奏されている。裏で繋がっていた商会ごと、捜査の手を入れよう」
「……ありがとうございます」
ふと、小花は小さく笑った。
「でも、どうして私に、この件を?」
「そなたが“香で見抜く者”だからだ。名ではなく、“行い”で選ばれた芳妃として、初めての務めだと思ってくれればよい」
その言葉に、小花は少しだけ肩の力を抜いた。
寵妃ではなく、“香士としての誇り”で、役目を果たせた。
夕刻、芳香苑。
小花は香炉に新たな香を焚いていた。
それは母が遺した香譜の一節、《微睡の香》。
安眠を誘い、心をほどく、優しい花の香りと果実の残り香。
蓮霞がふと声をかける。
「今日は、よくやったね。きっと、お母さまも誇らしいよ」
「……そうかな。まだ、母さんの足元にも及ばないけど」
それでも。
小花はゆっくりと頷いた。
「“香で未来を選ぶ”って、こういうことなのかも」
そして、微睡の香のなか、小花は静かに目を閉じる。
その胸に灯るのは、ただの寵妃ではない――
香で誰かを守る、“名もなき香士の誇り”だった。
夜が深まりゆく後宮で、少女は今日もまた、香で人を癒してゆく。