第14話:告げられた寵命と、少女の願い
静寂の宵、後宮の大書院にて。
蝋燭の炎がゆらめく中、皇帝・李景曜は帳の奥でひとり文を綴っていた。
その筆が止まり、そっと机に置かれたのは――一通の勅命。
「……これが、彼女の命を縛ることにならねば良いが」
その言葉を聞いた老宦官は、慎重に問いかけた。
「陛下、寵妃の冊立……本当に、よろしいので?」
「そなたも見ただろう。あの者は、己の才と覚悟で、毒と陰謀を打ち砕いてみせた。あれほどの才を、後宮の“ただの下女”に留めておくなど、国にとって損失だ」
「……しかし、あのお方は“ただ市井に戻りたい”と」
皇帝は目を伏せる。
わかっている。
彼女が後宮にとどまれば、さらなる争いに巻き込まれるだろう。
だが、だからこそ守れる場所に置きたい――それが、帝としての、男としての矛盾した想いだった。
翌朝、小花は上御殿へ呼び出された。
いつものように香を献じるものとばかり思っていたが、正殿に通された彼女の前に、重々しい雰囲気が流れていた。
「小花――そなたに伝えることがある」
皇帝の言葉に、彼女は背筋を正した。
そして、宦官が掲げた勅命の巻紙が、開かれる。
「香医・小花、かくの如く、後宮において皇命を救い、諸妃の争いを鎮めし功により――“寵妃”に列す。名を『芳妃』とし、別殿を賜うものとする」
小花の顔が、凍りついた。
「……陛下、それは……」
「嫌か?」
「……私は……ただ、早くここを出て……母のように、市井で香を作りたかっただけです」
沈黙が流れる。
「それでも、ここに残れば守れる命がある。そなたの香と知恵が、これから何人を救えるか……その価値を知っているのは、誰よりも私だ」
小花は唇をかみ、うつむいた。
重ねられた功。敬意。信頼。
それでも、彼女の中にはひとつの恐れがあった。
「……寵妃となれば、私は“誰かのもの”として扱われてしまうのでしょう?」
「――私はそなたを“所有”しようとは思わぬ」
皇帝の目が真っ直ぐに彼女を見た。
「私が与えたのは“名”だけだ。去るも留まるも、最後に決めるのは、そなただ」
「……!」
「芳妃という名は、そなたの香の才を称えたもの。それを背負うかどうかは、自分で選べ。後宮の扉は、どちらにも開かれている」
その瞬間、小花はすべてを悟った。
これは命令ではない。試練でも、束縛でもない。
ただ、ひとりの帝が「手放したくない」と願った、誠実な提示だった。
その日の夕方、小花は香院の中庭で、ひとり香を練っていた。
香原料は、母が最後に遺した香木《花蓮香》。
ほんのりと柑橘に似た香りと、深く落ち着いた樹脂の甘みが、静かに空気を包む。
そこへ、蓮霞がそっと歩み寄った。
「……決めたの?」
「うん。留まるよ」
「ほんとうに?」
小花はにっこり笑った。
「“芳妃”なんて、まだ似合わないと思う。だけど、私にしかできないことがあるなら、後宮でちゃんと向き合いたい」
「逃げないってこと?」
「逃げたくないんだ。“母の名”を、香を、否定しないためにも」
蓮霞は頷くと、小花の背にそっと寄り添った。
「……立派になったね、シャオファ」
「ありがとう。これからは、香で戦うのじゃなく、香で“守りたい”。誰かの息を落とすためじゃなく、笑顔にするために」
その言葉に、母の面影が微かに重なる。
花街で香を練っていた、あの優しい母の背中に。
夜。別殿に移された小花は、改めてその扉を開けた。
華やかでも豪奢でもなく、静かで、香木の香りに包まれた、落ち着いた空間。
まるで、自分の“家”のようだった。
窓辺に香炉を置き、小花はそっと火を灯す。
焚きしめた香は、母が昔教えてくれた“癒しの香”。
その香の向こうに、少女はゆっくりと笑った。
「これからは、この場所で、香を届けていこう」
誰かの心を包むように。
誰かの命を支えるように。
母から受け継いだ香で、少女は後宮の片隅に、小さな灯を灯していた。