第13話:香師の遺稿と、母の名を継ぐ者
雨がしとしとと降る午後、小花は蓮霞から手渡された一通の文書を見つめていた。
それは、かつて行方不明となった市井の香師――小花の母、「花蓮」の筆跡によるものだった。
──宛名はなかったが、封の裏に書かれていたのは、「娘へ」。
それが誰を指すのか、明らかだった。
封を解き、文を開くと、そこには丁寧な筆致でこう綴られていた。
《もしこの文があなたの手に届くなら、私はもうこの世にはいないのでしょう。》
《あなたの嗅覚と、香を読み解く才は、私に似たのですね。けれど、私以上に医を識り、人を救える力を持っている。》
《どうか、その才を、誇りに思ってください。》
涙が、知らずに頬を伝った。
香師として、母は人を癒す香を作っていた。だが、あるとき後宮に献上した香が「毒香に転じた」として罪を着せられ、花街に身を隠すしかなかった。
それが、母の失踪の理由だった。
その香を毒に変えたのは、当時の筆頭香司であり、今はすでに病没した女官だったという。
「皇后の香司が使ったのは、私の処方ではなかった。香は、使い方で薬にも毒にもなるのです」
母の言葉が、胸に深く刻まれる。
――ならば、わたしがその使い方を正す。
小花は決意する。
もう逃げることはやめよう。この才を、母が信じてくれたこの力を、わたし自身のために使おう。
その夜、御前で一人の密使が報告を行っていた。
「陛下、南苑の薬庫より、香材が多数盗まれております。加えて、今朝――毒香と疑われる“黒香”が市中に出回っております」
黒香。それは、麻痺と幻覚を誘う、後宮内でも禁忌とされている香。
香材を調合していたのは不明。だが、成分構成には花蓮の古い処方が悪用されていた。
「……これは、私の母がかつて使った処方。ですが、意図的に組成を変え、毒に転じています」
小花の報告に、皇帝は重くうなずいた。
「小花。その処方を見抜けるのは、そなたしかおらぬ。ならば、毒香が次に狙う標的も、見抜けるはずだ」
「……おそらく、“香競”です」
「香競?」
「明日、宮中で開かれる香合わせの式典――各妃たちが調香を競う場です。貴重な香材が一堂に会し、貴族たちも参列します」
「そこを狙う、か……」
毒香で一人でも倒れれば、調香そのものへの信頼が揺らぐ。
その先にあるのは、香の名を背負う薛麗花の地位の失墜――
そして、小花自身への疑惑の再燃だ。
「陛下、お許しください。明日、香競にて全妃の香を“先に試香”させてください」
「……許す。そなたの香を信じる」
翌日。香競が開幕すると、小花は一人、各妃の香炉へ向かった。
香を一つ一つ試香し、その調合と火の通りを確かめていく。
緊張に満ちた空気の中、第四番、貴妃・蘇玉嫣の香に、違和感を覚えた。
「……これは……不自然な“重ね香”。香の層が分離している」
香は本来、火とともに一つに調和して香りを成す。だが、これは熱によって別々に発香するよう仕組まれている。
「毒香だわ。しかも……一層目は無臭、二層目で中枢神経を麻痺させる“昏香”」
小花は即座に香炉を倒し、火を消した。
周囲がざわめく中、蘇玉嫣が顔色を変える。
「な……何の真似ですか!」
「あなたの香は二段構えの毒です。火を通すことで初めて発香する。それは香師の手による“練り香”の技術……そして、これはかつて“私の母”が開発した処方」
「証拠など……!」
「あります」
小花は、蘇玉嫣の調香に使われた“香篭”の底から、黒い札を取り出した。
「これは……母が遺した香札の“模倣品”。本物の香師にしか識別できない微香の暗号が、刻まれている」
皇帝が目を細める。
「では、その模倣品を作れる者が、そなたの母の技術を奪った者か」
後日、蘇玉嫣の香師を務めていた男が捕まり、かつて花蓮の弟子を名乗っていたことが明かされた。
「私の香を歪めてまで、後宮の権力を得ようとした……」
母の香が毒に変わる――それを防ぐために、小花は立ち上がった。
夜、小花は焚きしめた香の前に座っていた。
香は柔らかく甘く、母の書いた処方をそのまま再現したものだ。
「母さん……あなたの香は、誰かを傷つけるものじゃない。私は、それを証明してみせるから」
薛麗花がそっと声をかける。
「その香……懐かしいわ。あなたのお母様の香……私も昔、一度だけかがせてもらったの。まだ少女だった頃に」
小花は静かにうなずいた。
「この香で、母は人を救おうとした。だから私も、そうしたい。香を毒にせず、命を癒す道具として――使いたいんです」
その言葉は、過去と決別し、未来を選んだ少女の決意だった。
――香が命を奪うのではなく、命を支えるためにあるのなら。
香師の娘として、小花はこの後宮に、香の“真の使い道”を示していく。