第12話:血の系譜と、封じられた出生
夜明け前の静けさの中、小花は一枚の文書を手にしていた。
それは、かつて医官長が極秘に保管していた診療記録の断片。
文墨の協力により入手できたそれには、十年前のある記録が含まれていた。
《薛麗花 出生届・再記録 医印・改竄痕あり》
「……再記録?」
通常、後宮に仕える者は出生や家系に厳格な記録が残される。
だが、薛麗花の記録には“再記録”という不自然な表記と、医印の書き換えがあった。
その意味はただ一つ。
――彼女の出自は、表に出せない何かを抱えている。
そのとき、香の師である蓮霞が小花の元を訪ねてきた。
彼女は後宮の香司であり、かつては皇后の香を一手に担っていた人物だ。
「あなたが追っているのは、香の事件ではなく――後宮の“血の継承”そのものよ」
蓮霞は静かに、口を開いた。
「薛麗花様の母は、正妃ではないわ。だが皇帝の父君、先帝に寵愛された舞姫だった。だが彼女は、薛家の養女という形で記録を塗り替えられたの」
「……じゃあ、薛麗花様は……」
「血筋では、皇族に近い。けれど正式な立場は与えられなかった。だからこそ、皇后の座は遠い……それが、彼女が香の道で名を立てた理由よ」
――生き残るために、香の才を磨き、後宮で上り詰めた。
だが、それこそが多くの女官や尚書たちの嫉妬と警戒を招いた。
「薛麗花様が狙われるのは、才があるからじゃない。血が“曖昧”だからよ。皇統を乱す危険――そう見られている」
小花の胸がざわつく。
香の才と出生、そのどちらもが、彼女の足元を脅かしているのだ。
***
その日、御前会議が開かれた。
理由は後宮の香材使用に関する見直し――だが、実質は「薛麗花の処遇」を決めるための場だった。
「近頃の毒香事件、香墨の不正使用……その多くが高貴妃様のまわりで起きています」
筆頭尚書女官の後任である令和が声をあげる。
冷徹な視線は、小花にも向けられた。
「下女風情が医術を語り、香を扱うなど、本来ありえぬこと。高貴妃様も、そうした者を庇いすぎでは?」
その瞬間、小花は前に出た。
懐から一枚の香札を取り出し、皇帝に差し出す。
「これは、先の毒香に使われた香札の残片です。薛麗花様の調香に用いられた香と成分が違います」
「それが何だと言うのだ?」
「この香札には、“紅花丹”という特殊な香樹が使われています。これは、皇室専用の香材――つまり、内廷の誰かが“上から”渡したものです」
皇帝の眉が動いた。
「上から、とは?」
「……皇后の香司の一人。蓮霞様が残していた記録には、数年前に“紅花丹”を持ち出した記録が一件だけありました」
「持ち出したのは……誰だ」
静まり返った空間で、小花ははっきりと名を告げた。
「令和様です。あなたはかつて、香司を兼ねていた時期がありました。そのとき、皇后様の命で香材を移し替えていた」
会議がざわめいた。
令和の表情が一瞬揺れ――だがすぐに笑みを浮かべた。
「香の記録など、改竄しようと思えばどうとでもなります。証拠になるとは限らないでしょう」
「ええ。でも、証言があります。香材庫の守番女官が、あなたが紅花丹を“上香用”に包み替えていたのを見ている」
沈黙。
皇帝が口を開いた。
「小花。その女官を、朕の前に連れてこい」
やがて、やつれた老女官が連れられ、真実を語った。
令和はあくまで「皇后の意向だった」と抗弁したが、皇帝は一言だけ告げた。
「もういい。おまえは、静かに宮を去れ」
令和はその場で辞官、追放を命じられた。
***
会議の後、薛麗花は小花に歩み寄った。
「あなたのおかげで、わたしは命を拾ったわ」
その声には、どこか脆さがにじんでいた。
「わたしはね……ずっと“本当の自分”で生きたかった。だけど、香の名声も、皇帝の寵愛も、それを許してくれない」
「でも、だからこそ……あなたが、香を使うことに意味があるんじゃないでしょうか」
「……そう、ね」
ふたりの間に、かすかな香風が流れる。
それは、血でも身分でもなく、香で繋がった信頼だった。