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第10話:幻の香と、皇帝の夜

 その夜――皇帝の寝殿には、ほのかに甘く濃い香が漂っていた。


 玉座に近い臥所、その枕元に置かれた香炉から、練香の煙が静かに立ち昇っている。


「……今夜の香は、妙に重いな」


 皇帝は半ば眠りに落ちながらも、ふと眉をひそめた。意識がぼやける。視界が揺れる。そこに見えたのは、在るはずのない人影――


「……兄上?」


 かつて亡くなった兄皇子の姿が、ぼんやりと立っていた。


 皇帝の喉がひくりと鳴る。


「まさか……また“幻香”が……」


 その直後、寝殿の外で叫び声が響いた。


「陛下がお倒れに……!」


***


 翌朝――。


「幻覚……発汗、瞳孔の開き、そして神経反射の鈍化。やはりこれは“幻香げんこう”の作用です」


 寝殿に呼び出された小花は、皇帝の診察を終え、冷静に断言した。


 幻香とは、非常に希少な香材を使って練られる幻覚作用のある香。僅かな吸引でも強烈な幻視を誘い、心身の制御を失わせる。


 「崑崙木こんろんぼく」――それが今回の主成分だった。


 だが、問題はそれが皇帝専用の香炉から焚かれていたこと。


「そんな香を使える者など、限られているはずだ」


 皇帝はかすれた声で言った。小花は静かに頷いた。


「寝殿の香は、主香女官・珊華さんか様が管理しています。寝殿用の香炉の中身は、彼女以外の手では補充できないはず」


 珊華は長年皇帝に仕える香司であり、決して軽々しく疑われる存在ではなかった。


 だが、その「信頼」こそが――最も危うい穴だった。


***


 小花は寝殿の香炉を調べ、その底からある異なる香の層を発見する。


「これは……二層になっている?」


 上層は普段使用している通常の香。だが下層には、明らかに異なる配合、しかも“火に長くかけてから立ち昇る”よう設計された練香が仕込まれていた。


「最初は普通の香として香るけれど、時間が経つと――幻香が主成分として現れる。まるで罠ね……」


 まるで夜の静寂を狙いすましたかのような仕掛け。


 しかも、香材の混入には高い調香技術と香炉の構造知識が必要。つまり――


「主香女官である珊華様にしか、できない仕事です」


 小花は報告書をまとめ、慎重に事実を提示した。


「ただし……珊華様が“自らの意思で行った”とは、まだ断定できません」


 実際、珊華は取り調べに対して完全に否認していた。証拠も香炉以外には乏しい。


 そんなとき、小花は香材保管庫の端に、記録にない「香包こうほう」を見つけた。


 それは薄布でくるまれ、誰の印も押されていない。中身を嗅ぎ取ると――


「……これは“麝香じゃこう”に似た香り。けれど、微かに混ざっている……蜂香?」


 蜂香ほうこうとは、熱を加えることで催眠作用をもたらす香材。幻香と組み合わされば、意識の支配すら可能になる。


「まるで――皇帝の精神を壊そうとするような香」


 そこへ、香司の下女のひとりが、小声で打ち明けた。


「……数日前、見知らぬ女官が夜更けに香材庫に出入りしていました。顔を隠して、印もなく……でも、足音が重くて、どこか男のような……」


 男――?


 小花の目が鋭く細まった。


 そう、香房は女人禁制ではない。だが「女官として装った男子」が侵入していた可能性がある。つまりこれは――


「後宮の中に“偽りの女官”がいる?」


***


 夜、小花は単身で香房に潜入した。


 すでに禁香の房は封鎖されていたが、香材庫の整理を理由に特別な許可を得ていた。


 そこで彼女は、倒れかけた棚の奥から、一冊の帳面を見つける。


《香材出納記録・補遺》


 そこには、本来記録されるべきでない香材の使用履歴が書かれていた。しかも、その文字の癖は……


「……これは、紅玉の筆跡じゃない」


 違う。もっと粗野で、男性的な筆圧。これが“男の書く文字”なら?


 そこに記された名前の一部が、仄かに読めた。


《薛……》


 薛? 薛麗花と同じ姓?


 だがそれは、「麗花」ではなかった。別の名だ。


薛玉祥せつ ぎょくしょう


「誰……?」


 ――まさか。


***


 翌日、小花は皇帝のもとを訪れ、そっと囁いた。


「陛下……“薛玉祥”という名に、お心当たりは?」


 その名を聞いた瞬間、皇帝の顔が固まった。


「……あの男は……亡き妃の異母弟。数年前に流罪となったはずだ」


「ですが、後宮内でその名の記された香材帳が見つかりました」


 皇帝は震える唇で問う。


「彼が……後宮に、戻っていると?」


 小花は深く頷いた。


「女官に成りすまし、香を用いて陛下を追い詰めようとしているのだとしたら――今回の幻香事件も、すべて納得がいきます」


 皇帝は静かに立ち上がり、告げた。


「小花、お前に、後宮の“香”と“命”を預けよう。見抜いてくれ。次に仕掛けられる毒を。そして、その“香”の裏にある――真の敵を」


 小花はひとつ、深く頭を下げた。


「必ずや、香の声を聞き取り、この命で守り抜きます」


 その瞳は、決意の光に満ちていた。


 香の迷宮に蠢く真実は、まだ全貌を見せていない。

 だが、少女の静かな戦いは、ここからさらなる深淵へと踏み込んでいくのだった。

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