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その日以来、僕は栗生に会わなかった。彼女は更なる苦境に立たされる羽目になった。栗生が男性器の絵を描いていたことは瞬く間に学校内外に広まった。そして例の動物園の一件や、警察にお世話になった件などが尾ひれをつけて伝播し、栗生に対する疑惑は大きくなっていったのだ。
まずマスコミがその話を嗅ぎつけ、栗生の家に大勢の報道関係者が訪れるようになった。
マスコミが栗生の家を囲むようになって以来、彼女は学校に来なくなった。
そしてある日のことだった。栗生が迂闊だったのかそれはわからないけど、たまたま彼女の部屋の窓が開いていたことがあった。ちょうどマスコミが家の周りを張っていて、それを目ざとく見つけたカメラマンが、風に揺られるカーテンの隙間から栗生の部屋の中を撮影した。その日のワイドショーでは、「疑惑の女子高生の部屋はこれだ」と、こんなご時世にあるまじき報道を行った。その時栗生は部屋にいなくて、彼女の顔が写真に撮られることはなかったけど、彼女が描いた絵や部屋の中の様子がばっちりと映されてしまった。
もちろんその日のSNSでは批判が巻き起こったが、やったもん勝ちの世界なのか、彼女の部屋は拡散され世間の好奇の目にさらされることになった。
僕はいてもたってもいられず、栗生にメッセージを送ってみた。だけど返事は来ない。電話をかけてみてもつながらない。彼女を助けたい気持ちは強かったけど、僕は静観することしかできなかった。
そしてそれからしばらく経って、栗生は警察に任意で事情を聞かれることになった。そのことを知ったマスコミは一斉に騒ぎ立てる。「渦中の女子高生逮捕か」の文字がテレビに踊る。もっともらしいコメンテーターが何も知らずに彼女を傷つけている。
僕は栗生の家に行ってみた。すると大勢のマスコミ関係者が張り込んでいる。まったく迷惑な奴等だ。
その時だった。スマホに新しいニュースが入ってきた。なんとそれは、動物性器切り取り事件の犯人が逮捕されたというものだった。その瞬間、マスコミ関係者からどよめきが起こった。「ついに女子高生が逮捕されたのか」とにわかに仕事モードになった彼らは、栗生の母にインタビューをすべく、我先にと家のインターホンを押そうとしている。
そんな中、更なる速報が入った。それによると、逮捕されたのは市内に住む二十代の男だということだ。犯人は栗生では、なかった。
そのニュースが流れると、マスコミたちは蜘蛛の子を散らすようにどこかへ消えてしまった。SNSでは「女子高生に謝れ」などとマスコミを非難する声で炎上していた。
翌日テレビや新聞では逮捕された男の報道を開始するとともに、栗生への謝罪がほんの少しだけ行われた。マスコミは栗生を犯人扱いしていたことを忘れさせるかのように、男の報道を連日のように流した。いつのまにか栗生の件は誰も話さなくなっていたけど、僕や学校のクラスメイト達には大きな傷として残ってしまった。
栗生はそれからも学校へ来ることはなく、本当に不登校になってしまった。みんな彼女のことを忘れたがっていたのだ。カースト上位女子は事件以来身分を落としてしまった。
ある日、栗生の家に行ってみたら、もう既にどこかに引っ越してしまった後だった。こうして僕の前から栗生真魚は姿を消した。
それから二か月経ち、桜の季節になっていた。妹も無事に受験を終え我が家にも平穏が戻ってきた。ある日学校を出ようとしたとき、帽子を被った女の子に声をかけられた。
「長野君、久しぶり」
それは栗生だった。
「ちょっと話がしたいんだけど、いいかな」
僕たちは近くのカフェに行った。
「栗生さん大変だったね。今は元気にしているの?」
帽子を取った栗生は少し痩せていた。
「うん、でも学校は転校しちゃったんだ。あんなこともあったしね。それと……」
彼女は言い淀んだ。何か言いにくいことでもあるのだろうか。僕は栗生が話し始めるまで待った。コーヒーをかきまぜながら彼女は、
「実は私ある人のところに絵の修行に行ってるの。実は私の部屋がテレビで流されたとき、山田さんていう有名な評論家が私の絵を見たの。それで私に会いたいって連絡をしてきた。初めは何かの勧誘か、それとも冷やかしかと思ったんだけど、山田さんは私の絵を見るなり、『こんな素晴らしい絵を描く子がいるなんて……』と言って、私に田中っていう画家を紹介すると言った」
栗生が田中氏のところに行くと、彼は栗生の才能を高く評価し、彼女を弟子にすると言ったらしい。そして山田さんと田中さんは、栗生の才能を埋もれさせないためにあらゆる援助を惜しまないと言った。
「だから、私はお母さんと一緒に引っ越すことにした。うちは貧乏だし、このままだと高校卒業後に就職する可能性が高い。そしたら絵はきっぱりやめて普通の人生を歩むことになる。それでもいいんだけど、私は絵を描いていたい。だからしっかりと山田さんと田中さんの意見を聞いて、絵の勉強をする」
そしてこう続けた。
「だからもう長野君に会うことはないかもしれない。今までありがとうね」
「最後だなんて言わないでくれ。僕は君になにもしてあげていない」
「そう思うなら長野君のアレをもう一度見たいな」
と栗生は言った。僕は、
「それなら僕が君のヌードモデルになるのはどう? それなら別に変なことじゃないよ」
栗生ははっとしたような顔になった。今までどうしてそんな簡単なことを思いつかなかったのだろうといった表情だ。
僕たちは栗生の元の家に行った。まだ荷物が少し残っていたけど、ほとんど家の中にはなにもなく寂しい感じだった。栗生の部屋もあんなに物が多かったのに、今は段ボールが数箱あるだけだ。
栗生は懐かしい場所に来たような顔で部屋を見回すと、窓を大きく開けた。まだ取り付けたままのカーテンがひらひらと揺れすると外から柔らかな風が吹き込んでくる。
「じゃ、服を脱いでそこに座って」
僕は服を脱ぎ栗生が用意した椅子に座った。
栗生はスケッチブックを取り出し、静かに鉛筆を走らせ始める。部屋の静けさの中で、ただ鉛筆の音が響く。
「長野君、緊張してる?」
栗生がふと問いかけた。
「いや、全然。むしろ、君がどんな絵を描いているのか気になる」
彼女は小さく微笑む。
「君がモデルになってくれるなんて、ちょっと特別だよね」
描き終わった後、栗生は絵を見せずに言った。
「完成したら、君に見せたい。だけど今はまだ秘密」
そのまま彼女は絵を持ち、しばらく窓の外を眺める。
「この部屋、好きだったなあ。いろいろあったけど」
彼女の声には、懐かしさとわずかな切なさが混じっている。
そして僕たちは別れた。
数か月経ってから、栗生の絵は徐々に知られるようになった。もちろん例の事件の……という肩書はなかなか取れなかったけど、そんな過去の話題を吹き飛ばすぐらい、彼女の絵は注目を集めた。有名画家の庇護を受け、天才少女が始動、といった大きな言い方もされた。時々テレビなどにも出て、一躍時の人になった。
でも僕は新たに描かれた彼女の絵を見て、ショックを受けた。それは僕が彼女の家で見たものとはまるで別人が描いたように違って見えたのだ。僕が知っている栗生の絵は自由で歯止めが利かなくて、でも宇宙の果てまで見通すような、永遠を感じさせるようなものだった。でも新しい絵は、きれいにまとまってはいるけど無難で、世界の広がりを感じさせるものではなかった。それは栗生がいちばん嫌う大衆に迎合したものであり、世間に受け入れてもらうために牙も角も抜いたようなものだった。
インタビューを受ける彼女も、奔放さも鋭さも見せない普通の女の子のようだった。でも世間的にはその絵や彼女の人柄は受け入れられたのだ。たぶん以前のようなやり方では無理だっただろう。生きるために栗生は自分というものをどこかに捨ててしまったかのようだった。
僕は栗生のアドレスをスマホから消した。彼女はもう遠い所へ行ってしまった。これからは僕がどうにかできる問題ではないだろう。ただ、僕はこの地から彼女の幸福と成功を祈った。
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それから十年もの時が流れた。僕は会社員になり、毎日忙しい日々を送っていた。でも栗生のことはずっと気がかりだった。彼女は画業が認められ有望な若手の地位に立ったが、あるときから創作意欲が下がり、奇行が目立ち始めた。二十歳を超えたあたりから酒をよく飲むようになり、週刊誌などでは悪く言われることも多くなっていたのだ。
電車に揺られ家に帰ろうとシートに座ったとき、ふと中づり広告が目に止まった。そこには「落ちた天才画家 栗生真魚の現在」と書かれていた。僕は電車を降り、その週刊誌を買って家で読んだ。
その雑誌には現在の栗生が悪意を持って書かれていた。路上で酒を飲み倒れる姿、逆立ちしながら散歩する姿、犬の股間をまじまじと眺める姿などなど……。僕は思わず笑ってしまう。何となく僕と一緒にいた頃の栗生の姿を思い出したのだ。さすがに逆立ちはしなかったけど、彼女ならやりそうなものだ。
そして最近の絵も紹介されていた。絵の依頼に対して「へのへのもへじ」を描いて依頼主に渡したことがあったそうで、その絵が掲載されている。まるで人をバカにしたような絵だ。でも僕にはその絵が何か悲痛なメッセージのように思えた。彼女は苦しんでいる、籠の中の鳥のように翼をもがれてあがいている。助けて、もう限界なの。私を解放して。と絵が叫んでいた。
僕はひとり部屋でその「へのへのもへじ」を見ながら涙が止まらなくなってしまった。十年も放っておいた結果がこれだ。僕は、彼女が自分の力で生きていけると思っていた。でもそれは言い訳だ。僕は彼女が怖かったのだ。あんな無茶な天才のそばにいて自分の人生が狂っていくのが不安だった。だから口実をつけて栗生から離れた。ただそれだけだった、僕は弱い人間だった。
彼女に会いに行こう――。僕はそう決心した。雑誌の情報やインターネットで調べると栗生の家はK県の海辺の一軒家だということがわかった。雑誌には遠くから撮った写真が載せられている。
日曜日、僕は電車を乗り継いでその場所まで来た。インターホンを押すと、中からフードをかぶった女性が出てきて
「誰? 取材ならお断りだよ」
と僕を睨んだ。
「栗生さん、僕だよ、覚えてないかな」
「うわっ、なにその格好!!」
僕は全裸だった。それまで着ていたスーツを脱ぎ捨て、まっさらな自分で栗生に会いに来たのだ。でもネクタイは外さなかった。僕の肉体はまごうことなき成熟した男性のものだ。そして栗生が大好きなペニスも、いよいよ充実の季節を迎えていた。
「僕だよ、長野だよ」
「長野……くん。どうして全裸になっちゃったの」
「君は男性器が大好きだっただろう。だからこの格好なら、君のエネルギーになれるかと思ったんだ」
僕のあそこはまだ熱を帯びておらず、収穫前の果実だった。栗生はまじまじと僕の体を眺め、そして顔をくしゃくしゃにして僕に抱きついてきた。僕と抱き合っているときに彼女も服を脱ぎ始めた。初めての彼女の肢体は小ぶりながらもしなやかで優しい。どこにも棘のない便器のようにつるりとした肉体を包み込むうち、僕の股間もにわかに隆起をはじめてきた。
突然、どこからともなくオクラホマ・ミキサーが流れてくる。時を同じくして突然猛烈な雨が降ってきた。ゲリラ豪雨というやつだ。そして雷鳴がとどろき、辺りが光ったと思うと家の中の電気が消えた。家の中にはただ軽快な音楽が流れている。栗生には聴こえているのだろうか。
「踊ろうか」
僕たちは手を取り合い、ステップを踏む。強くなるばかりの雨脚、そして雷鳴。視線の先に蝋燭の列ができていて、僕たちを導いている。
「ねえ長野君、私を自由にしてくれる?」
僕たちは窓辺に立ち尽くしていた。オクラホマ・ミキサーは無造作に流れ続け、いささか耳障りな音色を奏でている。突然音楽のスピードが緩んだと思えば急に早回しになったり、まったく僕はうんざりしてしまった。できるならこの音を止めたいけど、どこから流れてきているのかわからない。
窓を打つ雨音が僕の首筋に汗を垂らす。裸のまま抱き合う僕らを見えない月が監視している。
「僕をこのロープで縛ってくれ」
部屋のひときわ太い柱に僕は両手両足を縛られた。体のすべてがむきだしにされ、僕は殉教者のようにだらりと肉体を晒した。
「栗生さんの好きなようにしてほしい。そして、君が持っている才能をもう一度呼び起こすんだ」
栗生は抽斗の中から鞭を取り出し軽くしごいた。僕の顔をじっと見据え、そして大きく一回僕に鞭をふるった。痛さのあまり僕は「ひゃう」と恥ずかしい声をあげる。その声に栗生はそそられ、何度も何度も僕に鞭を浴びせた。
「このくっそがよおおおおおおおおおおおおおお。どいつもこいつも。お前らに私の絵の何がわかるんだよぉおおおおおおおおおおおおおお。ぶっころすぅぞぉおおお。くそっ、最低だっ、私の絵。何だこれ。地底人かよモグラかよ。どこに光があるんだ。太陽はどこだ。宇宙は、魂は。何だこの絵は」
泣き叫ぶ栗生の声はやるかたない怒りと、自分の浮かばれない才能への苦しみがないまぜになっていた。社会にいくら認められようとも、自分の世界を表現できない苦しみが彼女を監獄に閉じ込めていた。僕は鞭で打たれるたび、栗生の悲しみが痛いほど伝わってきた。
鞭をふるいながら、栗生は部屋のものを片っ端からなぎ払っていった。
「ながのおおおお。お前私を見捨てたな。自分だけ普通人としていきようとしたな。私の苦しみがわかってたくせに知らんぷりして逃げたよな。最低だお前は。お前のあそこをちょんぎってやるぞぉおおおおおおおおおおおおおお」
栗生はわんわんと子どものように大声で泣き出した。そして救いを求める子のように僕に抱きついて離れなかった。
「私、ほんとうの絵が描きたい。君だけが知ってる、ほんとうの私」
「描けるさ。栗生さんなら絶対」
「私から離れないでいてくれる? 私、君がいればきっと自分を取り戻せる」
「もちろんさ。これから僕の体は君が好きなようにすればいい」
そう言うと栗生は「えへへ」と僕に子どものような笑みを見せた。
「そういえば昔描いた君の絵、ちゃんとしまってあるよ。あとで見せてあげるね」
僕たちは窓辺にたたずみ、打ち付ける雨音をずっと聴いていた。その間栗生は片時も僕の傍を離れない。オクラホマ・ミキサーはもう鳴らない。雨はいつやむのだろう。僕らは雷鳴が去っていくまで長い間ずっとそうしていた。