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それから十日ほど僕は栗生と会わず、平穏な日が続いた。学校では相変わらず彼女は誰とも話さないし、僕にも話しかけてこない。学校が終わると何件かLINEが来たけど、未読のままにしておいた。
そんなある日のことだった。部屋で漫画を読んでいると、突然家の電話が鳴り響いた。僕が電話に出ようと一階に降りたところ、先に明日香が受話器を取った。そしてその受話器を僕に向けた。
「栗生さんのお母さんから電話……」
明日香の顔は割れたガラス窓のようにひび割れてとげとげしかった。僕は何も言わずに妹から受話器を奪う。
「長野さん……でしょうか。私栗生真魚の母です。実は真魚が警察に事情を聞かれているのですが、支離滅裂で何を言っているのかわからない状態です。それでとにかく長野君を呼んでくれ、彼なら事情がわかるの一点張りなんです」
横で話を聞いている明日香をちらと横目で見てみる。すさまじい負の熱気が僕に伝わってきた。栗生が警察にいる? 何をしでかしたのだ?
僕は警察署の場所を聞き、受話器を置いた。彼女が何をしたのかはまだわからない。けれど悪いことが起こったことだけは確かだ。警察署に行くべきか迷って俯いていると明日香が、
「とりあえず行くだけ行ってみたら」
と諦めに似た表情で言った。僕は妹に「ごめん」とだけ言い、コートを羽織って警察署へと急ぐ。
栗生と母親が俯いて座り、隣の警察官が困ったような顔で二人を見ている。僕が現れると栗生の母親は大きく一礼した。栗生と顔は似ているが、ほっそりと、というよりやつれた感があり、どこか生命力に欠けた感じだ。
栗生はじっと下を向いたまま何も話さない。母親によると、事情はこうだ。
昼頃栗生はスーパーの前に繋がれている一匹の犬を見つけた。毛並みのいい、血統書付きのサモエドだ。栗生はその犬を見るや否や、いつものように創作心が湧きおこったのか、突然犬に抱きかかり、その犬をひっくり返した。そして僕にそうしたように、嫌がる犬の手を押さえてペニスを確認しようとしたのだ。
だが犬も抵抗し、栗生の腕を噛んだ。そうして犬と格闘しているうちに係留していたロープが外れてしまい、混乱した犬はスーパーの中に入っていき、ひたすら暴れ回った。棚にぶつかり、陳列された商品をことごとくなぎ倒した。それを見た子どもたちが泣き叫び、店員は総出で大捕物。飼い主のマダムは足をがくがくと震えさせた。
二十分後警察官によって犬は取り押さえられたが、飼い主は激怒、店員も客も激怒という状態だった。しかし栗生は支離滅裂で話が通じず、仕方なく警察で事情を聞くことになった。もちろん栗生のペニスに対する執着は母親も警察官も知らない。ただ彼女が突然犬に襲い掛かった事実だけがあり、意味不明な行動ととられていた。
「この子は昔から突飛な行動をすることがあって……。私も手を焼くことは多かったのですが、これほどのことは初めてです」
母親もある意味手に負えないのだろう。しかし母親の責任感からか、警察に何度も「すみません、すみません」と謝っている。それを見た栗生は「ふん」と鼻で木を括ったような表情を浮かべていた。
妹は、興味本位で栗生に近づいてはいけないと言った。でも今日は、僕は彼女を救わなければならない。もしここで見捨ててしまったら栗生は一生浮かび上がれないかもしれないと、弱気な心を奮い立たせて、その場にいるみんなに向かって言った。
「栗生さんは絵を描いています。とても素晴らしい絵です。それで様々なインスピレーションを得るために、時々危険な行動をとることがあるのです。僕も彼女といるときに何度か危険な目に遭いそうになりました。確かに栗生さんがやっていることは常軌を逸しているかもしれません。でもそれはまだ彼女自身加減がわかっていないところがあるのです。今日のことも、きっとそうだったんだろうと思います。そしてそんな感情を栗生さんはうまく言語化できない。行動でしか示せないんです。きっと彼女も今回のことは反省していると思います。だから……」
僕がそこまで言うと栗生は顔をあげた。そして立ち上がり、大きく頭を下げ、
「ごめんなさい。今日のことは謝ります。お店の損害、そして犬に与えた傷の責任は取ります。本当に申し訳ありませんでした」
と言った。その言葉に母親も深々と頭を下げ、涙ながらに自分たちができることは何でもすると神妙な面持ちで警察官に向かって言った。つられて僕も謝る。三人がいつまでも顔を上げないから、警察官も困ったような顔になり「わかりました、大丈夫ですよ」と優しく僕らに言った。
警察署を出た僕らはほっと一息、安堵のため息をついた。
「長野君、今日は本当にごめんなさい。でも私の気持ちをわかってくれて嬉しい。これからは私も気をつける。自分の身勝手な行動で他人を傷つけるのはよくないよね」
僕たちは警察署の前で別れた。栗生の母親がタクシーを呼んでくれて、僕はそのまま家に帰った。
僕は栗生の苦境を救えたことで少しだけ気分が良くなっていて、自然に歌を口ずさみつつ家のドアを開けた。玄関には家族分の靴がきれいにならべられ、両親が帰ってきているようだったけど、家の中は何だかしんとして空気が重かった。僕は何か起こったのかとリビングに音を立てずに入っていく。すると両親と明日香が何も言わずに椅子に座り、僕の帰りを待っているようだった。父は僕の姿を見て「座りなさい」と促す。
栗生のことだとすぐにわかった。明日香は僕と目を合わせないようにしていたし、母はそわそわと落ち着かず、泣きそうになっていた。
「警察に行ったのは本当か」
父の言葉に僕はうなずく。
「その栗生って子とどういう関係なんだ。付き合っているのか」
僕は栗生との関係を両親に話した。クラスメイトで絵が上手なこと、絵のモチーフをいつも探していること……。
「だいぶ変わった子だっていう噂じゃないか。今日も何か問題を起こしたんだろう」
「そうだけど、彼女はそんなに悪い子じゃないよ。ただ純粋に絵が描きたいだけなんだ。今日も自分のやったことをちゃんと反省していたし、これからは大丈夫だと思う」
「なるほど。ではその子とお前が部屋でやっていたことはどう説明するんだ」
「それは……」
僕は反論する言葉がない。明日香には目を逸らされてしまった。この孤立無援の状況できちんと筋道立てて説明したところで、信じてもらえる可能性は低い。僕と栗生が行ったことは事実なのだ。そして両親にとって栗生は息子から遠ざけなければならない存在になっていた。もはやどんなに言葉を尽くしても無駄なのだろう。
両親は真剣な顔で僕に告げた。
「栗生さんと縁を切りなさい。明日香から聞いた話じゃ、お前の将来に良い影響を与えるとは思えない。その子はたぶん強いオーラを持った子なんだろう。でも火傷するのはお前だけなんだ。その子は傷一つ負わない」
僕は抗議しようとしたが、母が静かに続けた。
「お母さんを困らせるようなことしないで。心配になっちゃう。これは一度きりのあやまち。ねえ、その子に会わないって約束してくれる? 明日香だって受験なの。妹が受験に失敗していいわけないでしょう」
家族を守るべきか、栗生との奇妙な日々を続けるべきか――僕は選択を迫られた。
僕は何も言わず部屋に戻り、ベッドに仰向けに横たわった。天井に栗生の絵が映し出される。渦を巻いた宇宙に歓喜の表情を浮かべるゾウ。僕の中であの絵が生き物のように踊り出していた。そしてその真ん中に栗生がいる。絵に命を傾ける少女。男性器に目がない、ちょっと変わった女の子。彼女と過ごした短い日々……。思い出すと涙が止まらなくなってしまう。今から僕は彼女を失うのだ。それは失恋かもしれなかった。恋とも呼べない小さな感情の萌芽、僕はそれを見届けずに全ては風の中に消えていく。
僕はその夜ひとしきり泣いた。もう彼女には会わない。カレンダーにも手帳にも、彼女との約束を書き込むことはないだろう。
それでも日々は当然のように過ぎて行った。僕は彼女のことを少しずつ忘れていった。教室で彼女を見ても、他人でしかなかった。栗生もそんな僕の気持ちを察したのか、話しかけてこなくなった。僕はそのことを少し残念に思った。でも仕方がないんだ。
ある夜、窓から星空を眺めた。空には満天の星たちがきらきらと輝いている。届かないと知りながら、僕は手を伸ばしてみた。僕の中の星は、どこかへ消えてしまった。
9
僕と栗生は言葉を交わすこともなく、年が明け二月になっていた。家でテレビを見ていると、奇妙なニュースが流れてきた。それは僕たちの住む町で起こった事件で動物が殺され、生殖器が切り取られる事件が多発しているというものだった。
最初は小さなネズミやモグラなどの性器が発見され、いたずら程度で処理されていたけど、ある日ネコの生殖器が切り取られてから、にわかに事件性を帯びてきた。その後立て続けに犬や放牧地のヤギなどが被害に遭い、ニュースでも大きく報道されるようになった。愉快犯の犯行か、それとも何か社会に対するメッセージか。不気味な事件は謎を呼び、僕たちの町を恐怖に陥れた。
僕はそのニュースを聞いたとき咄嗟に栗生のことが頭に浮かんだ。まさか彼女がこの事件の犯人ではないか。そう考えると体の震えが止まらなかった。天才がその芸術的衝動を抑えきれず、犯罪的行為に走ることは少なくない。満たされない欲求がそんな形で昇華されてしまったとしたら、取り返しがつかないことだ。
でも栗生に怪しいところはなく、疑われることもなかった。彼女は学校ではいつもと同じように人と関わらずに窓の外ばかり眺めていたし、問題行動もおこさなかった。
そんなある日授業が終わり、クラスメイトたちは次々と席を立っていく中で、栗生はずっと座ったままだった。いつもなら終礼のベルとともに一目散に帰ってしまう彼女だが、今日はなぜか動かない。
僕はそんな彼女が気になり、数か月ぶりに声をかける。すると驚いたように僕の顔を見て、小声でこう言った。
「長野君、実はスケッチブックが見当たらないの。いつもかばんの中に入れてるんだけど」
「スケッチブック……。もしかしてアレの絵がいっぱい描いてある? 」
「うん。だから誰にも見られたくない。一緒に捜してくれる? 」
もしスケッチブックが誰かの手に渡ったら、栗生が描いている絵のことがバレてしまう。動物殺害事件のこともあるし、早めに見つけたほうが絶対いい。
僕らは手当たり次第に学校の中を捜しまわった。口には出さなかったけど、誰かが持って行ってしまった可能性も高い。僕は栗生に、学校でスケッチブックを開いたかのか聞いてみた。すると彼女は、
「今日体育館裏にネコが迷い込んできたって話を聞いたから、大急ぎで行ってみたの。でも何もいなかった。その時スケッチブックを持って行ったけど、ちゃんとかばんの中にしまったはず」
夕方の体育館裏は人気がなくうす寒かった。遠くで運動部の掛け声が聞こえるけど、ここに来る生徒はいない。僕らは栗生が通った道をくまなく捜してみる。けれどそれらしきものは見当たらない。
「これだけ捜しても見つからないってことは、家にあるかもしれない」
「うん……」
すっかり辺りは暗くなり、捜すのも限界だった。不安を抱えたまま僕たちは家に帰った。スケッチブックはきっと栗生の家にある。明日になったら栗生が笑い顔で謝ってくる、そうなったらいいと僕は願った。
けれどそんな僕の希望的観測を打ちのめすような事態が起こる。朝登校してみると、教室内がざわざわしていた。クラス委員長とカースト上位女子と栗生が三人で何かを話していて、クラスメイトがその周りでひそひそと囁き合っている。よく見るとカースト女子の手にはスケッチブックが握られていた。最悪の事態が起こってしまった。
「栗生さん、昨日あなたのスケッチブックを見ちゃったんだけど……ナニコレ。なんでこんなものを描いているの」
カースト女子はそう言ってわざとらしくスケッチブックをパラパラとみんなに見えるように開いた。犬や猫のペニスのスケッチが描かれていて、それを見たクラス女子達から、悲鳴のような叫び声が上がった。非難と好奇心と悪意が槍のように栗生を突き刺す。クラス委員はどうしたらいいかわからず担任を呼びに言った。
委員長がいなくなり、ここぞとばかりにカースト女子の攻撃が始まる。まるでサーカスの見せ物のように、栗生はなすすべもなく立ち尽くすだけだった。
「もしかして今話題になってる動物殺しの事件も栗生さんの仕業だったりして……」
「えーっ、クラスメイトが犯人なの? こわいー」
もはやクラスは収拾がつかなくなっている。僕はこのまま傍観者でいるわけにはいかなかった。とにかくあのスケッチブックを奪い返し、栗生を教室から出さなくては。でもそうすると非難の矛先は僕にも向けられるだろう。その覚悟ができているのか、早まる心臓に手を当てて自問自答してみた。そしてその答えは決まっている。
「みんな、窓の外見て!」
教室中が窓の外を見る。僕はその隙を縫って、カースト女子からスケッチブックを奪い返すと、「栗生さん、こっち」と彼女の手を掴んで教室から脱出した。無我夢中で、栗生の顔も見ずに僕は校舎の外へと出た。誰も追ってくる人はいない。ただこの邪悪な空間から抜け出したかったのだ。
僕たちは体育館裏までやってきた。僕も栗生もぜいぜいと息を切らしている。僕は自分がやったことにひとつも後悔していなかった。栗生はどうだろう。彼女はまだ青ざめた顔をしている。奪い返したスケッチブックを彼女に返すと、彼女ようやく落ち着いたようで、いつになく優しい笑顔で微笑んだ。
「長野君、助けてくれてありがとう。こんな私をいつも見守ってくれたのは君だけだよ。私はこういう頭のイカレた人間だから、この先もきっとずっとこんな感じ。これ以上君を巻き込むわけにはいかないよ。だからこれでさようならだね。今までありがとう」
僕は何も言えなかった。栗生の目は優しくて、僕に反論を許さなかった。ああ、これで彼女との時間が本当に終わってしまう。季節を止められないように、僕たちの関係は砂のように流れて消えていくのだ。
「栗生さんは、これから大丈夫なの? やっていける?」
「大丈夫だよ。私はそんなに弱い人間じゃない」
空を見上げるといつになく快晴だった。なんで今日に限って空がこんなにきれいなんだろう。