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それからしばらく栗生は学校に来なかった。また不登校気味になったのかと学校では話題になったけど、たぶん違う。栗生は家で絵を描いているにちがいない。そしてそのことに集中しすぎて学校に来るのを忘れてしまっているのだ。
僕と彼女はLINEのやりとりができるけど、「私がメッセージするまで連絡してこないでね」と言われたから僕は素直に従っている。
季節が秋から冬へと移り変わっていた。秋の心地よい風に冷気が混じるようになり、近くの多田羅沼では渡り鳥のコハクチョウが飛来したとの便りがあった。もう一か月も栗生は学校に姿を現していない。彼女のいない日常が普通になっていた。もとよりクラスの中では印象の薄い生徒だったから、別段彼女がいないことで不都合はなかった。一応僕の学校は進学校だから、脱落者に対しては割とみんなシビアなのだ。きっと気にしているのは僕ぐらいだろう。
我が家では妹の明日香が受験シーズンを迎えた。家の中が何となくぴりぴりしていて、少し居心地が悪い。僕はできるだけその季節を穏便に過ごそうと心に決めたのだった。
そんな十一月も終わりに近い月曜日、栗生から久々にメッセージが来た。文面は、絵が完成したから見に来ないかと書いてあった。
「ちょっと出かけてくる」
と妹に声をかけて、僕は栗生の家へと向かった。
インターホンを鳴らしたが返事がない。ドアノブを回してみると鍵がかかっておらず、僕はそろりと中を覗き込んだ。家の中はひっそりと静まり返り、人の気配もない。僕は「すみませーん、栗生さーん」と小声で彼女の名を呼びながら家の中に入っていく。
彼女の部屋のドアをゆっくり開けてみる。まさか部屋の中で事故でも起こったかと、恐れを抱いた。
「栗生さん? 」
そこには筆を持ったまま横たわる栗生がいた。眠っているのか倒れているのかわからない。彼女を揺すって確かめてみると何度か寝返りを打った。幸せな夢を見ているのか満ち足りた顔をしていた。
イーゼルには大きな絵。宇宙空間を思わせる漆黒を背景に、何頭ものゾウと馬が絡みながら踊っている。ゾウ達の体には渦のような幾何学模様が描かれ、そのうちの一頭は恍惚のあまり体が溶けてバターのようになっていた。何だか、不思議というか異様というか形容しがたいけど、絵には独特の力があり吸い込まれてしまいそうだ。
また絵の左側には大きな翼を持った少女が漂い、彼女の腕の中には光を宿した長い錫杖。その反対側には金色の大仏と曼荼羅が描かれ、宗教的世界と宇宙世界が混然一体になっていた。
これが彼女が描いたものなのか。荘厳な宗教的世界と、宇宙が混ざりあって得も言われぬ世界。僕は栗生の描く絵に今さらながら圧倒されてしまった。
でも、あれほどこだわった男性器がどこにも描かれていない。結局性器を題材にするのはやめたのだろうか。
大きなあくびをして栗生が起き上がった。そしておはようと寝ぼけまなこで嬉しそうに僕に寄りかかってきた。
「栗生さん久しぶり。絵が描けたんだね」
そう言うと彼女は嬉しそうにVサインをした。
「でもこの絵には男性器がどこにも描かれていないね。モチーフにするのはやめたの?」
僕がそう言うと栗生は呆れたような、我が意を得たりというような顔をして、
「何言ってんの、この絵全体にペニスが描かれているじゃない。長野君には見えないかな」
何度も隅から隅まで見たけど、それらしきものはどこにもない。僕には見えないし、きっと栗生以外にもわからない。それでもこの絵は素晴らしいと思った。
そして栗生は満ち足りた顔をして、大きなあくびをすると再び眠りについてしまった。僕は彼女が寝てしまった後もずっとその絵を見ていた。これが栗生の世界なんだと今さらながら恐ろしいような気持ちになった。
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それから僕たちは休日の度に色々な所へ出かけた。もちろん栗生の絵のためだ。彼女はクジラのペニスが見たいと言ったが、無理な話だ。どうやってあんな巨大な生き物の生殖器を見ようというのだ。
「言ってみただけだよ」
と彼女は言うけれど、およそ冗談には聞こえなかった。そのかわりに僕らは猫カフェに行ったり、ペットショップで犬を見たりした。猫カフェはほとんどの猫が去勢されていて、目的を果たせるか不安だったけど、幸いまだ保護したばかりのデビュー間もない猫がいて、
その猫にはちゃんとついていた。
またある時はカモのペニスを見に行こうというから、寒空のもと僕たちは多田羅沼まで足を運んだ。多田羅沼は一帯が公園になっていて、池の中心には六角堂が鎮座している。その周りに渡り鳥を写真に収めようとするカメラ愛好者たちが陣を張っていた。
その日は北風が吹くこの冬一番の寒さで、服を一枚多めに着込まないといけなかった。果たしてこんな寒い季節にカモはいるのだろうか。
池の周りをぐるぐると歩いていると、ようやくそれらしき鳥を発見した。でもここからどうしようというのだろう。まさか池の中に入ってカモを捕まえるんじゃないだろうな。もしそうだとしたらその役目は絶対に僕だ。
僕はどうやってカモの生殖器を見るのかと栗生に聞く。すると彼女はしたり顔でいつもより大きめのかばんから、折り畳み式の網を出してきた。
「これでカモを捕まえるの。はい」
やっぱり僕の役目なのか。というより、そんなことをしたら池の管理者や周りの写真愛好家から絶対に怒られる。動物園に続いてここも出禁なんて、そろそろ僕の立場も危うくなる。ためらっていると、
「もう、やる気あるの? ほら、今なら誰も見ていないから」
と栗生は僕を促した。ここまできたらやらなければならない。別にカモを食べようっていうんじゃないんだ。
「これ使って」
彼女はえびせんを僕に手渡した。これでカモをおびき寄せて網で捕まえる作戦だ。袋からえびせんを二、三個取り出し池に投げてみる。すると素早くカモが寄ってきた。人間に物をもらうことに慣れていて、人を警戒していない。これならいけるかもしれない。僕が多めにえびせんを投げるとさらに多くのカモが寄ってきた。
「今だよ、長野君。やっちゃって」
僕は網をカモに向ける。カモはえびせんに夢中で僕の網に気づくのが遅れた。チャンスだ。いちばんどんくさそうなカモに網がかかった。よし、引き上げるぞ、と思った瞬間、どこからか「何やってる!」の声が聞こえてきた。しまった見つかった。
「栗生さん、逃げないと」
「もう少し、ほら早く引き上げて。ペニスが見えたら私インスピレーションが広がるから」
池の管理者と思しき男性が鬼の形相でこちらに向かってくる。早くしないとまずい。引き上げられたカモはしぶきを上げながら網の中でバタバタともがいている。薄い太陽に照らされたカモの体が光り、そして下半身が露になった。見えた、カモのペニスだ。
「長野君、もう大丈夫。この目に焼き付けたから!」
栗生は力強くそう僕に言った。でも管理者はもう目の前だ。走れ、走らないと動物園の二の舞だ、僕の将来が閉ざされる。僕らは全力で走った。網はもうどこかにいってしまった。冷気で口の中が冷たい。もう走れない、後ろを振り返ると男性は追って来ていなかった。
「あははははは、すっごーい、もう最高!」
栗生が膝を打って笑っている。笑い事じゃない。まったくこんなことに巻き込んで、彼女はどうかしてる。さすがの僕も愛想が尽きた。彼女との関係もこれまでにしよう、と栗生に最後通告をしようと思ったとき、
「長野君ごめんね。怒ってるでしょう。私がこんな変態だから。でもね、君がこうして呆れながらも私につきあってくれてること、本当に感謝してるんだ。今までの友だちはみんな私のこういう面に嫌気がさして去っていった。でも君は違ったね。私うれしいんだ」
栗生に先手を打たれてしまった。僕は振り上げた刀を振り下ろせず、彼女にほだされてしまったのだ。でもこういうことはもうやめにしてほしいと心から願った。
7
翌日は午後の授業がなく、半日で家に帰ることができた。僕は学校の近くの書店で数学の参考書を買い、その後バッティングセンターで二プレイほど汗を流して家に帰った。特にやることもなく部屋でさっき買った参考書を眺めていると、突然インターホンが鳴り、僕は一階に降りてドアを開けた。そこには栗生が立っていた。
「ハロウ、長野君。来ちゃ……った」
栗生はいつもよりはにかんで、普通の女の子みたいに上目遣いでそう言った。僕の右目と左目の奥に栗生がいる。焦点が合わず彼女が二重に見えた。それほど僕は動揺していたのだ。
うちの住所を教えた記憶はない。なぜ彼女がここに辿り着いたのか、謎だ。でもそんなことはどうでもいい。彼女ならストーカーでも何でもするだろう。問題は、「何をしに来たか」だ。
「何してるの、こんなところで?」
「あのカモ、インスピレーションにはなったんだけど、まだ満足できなくて。長野君の家で考えようと思って」
「いやいや、カモも見たし前にネコだってみたでしょう。頑張ってそれで絵を描いてくれないか」
「それだけじゃだめ……なの。ね、いいでしょ。おじゃまします」
彼女は当然のように家の中に入ってきた。そして僕の部屋を知っているかのように階段を上がり、僕の部屋の前に立って「ここかな?」と言った。確かにそこが僕の部屋だ。
栗生はベッドの上に座り、
「殺風景な部屋だね。私の絵を一枚飾ろうか」
と言った。部屋に飾っても気持ちが高ぶらない、安らぎに満ちた絵ならいいけど、そんな絵があるだろうか。
「単刀直入にお願いするけど、長野君のあそこを見せてほしいの。やっぱり人間のモノ以上にインスピレーションをかきたてられるものはないわ。フジツボとかカメのペニスでももちろんいいんだけど、霊長類ヒト科、ホモサピエンスが最高なの。実はネットでそういうのが映った動画どか見てみたんだけど、実物には叶わないっていうか」
栗生は瞳にいくつもの星を宿し、そしてその奥にはスナイパーの心が眠っていた。彼女はじりじりと間合いを詰めてきて、前と同じようにこともなげに僕を押し倒した。おののく僕の唇をその柔らかな舌でふさぎ、右手でベルトをするすると外した。
「大丈夫、すぐ終わるから」
上気した表情でまっすぐ僕を見つめながら、彼女は僕のズボンをおろし、そしてパンツも脱がせた。露になった僕の性的な部分は、寒さと栗生に対する怖れから小さくしぼみ、およそ彼女が求めているものとは違った。僕の股間を見ると彼女はもどかしい気持ちにかられたのか、
「ねえ、これ大きくなるんでしょ」
と僕に迫った。けれども僕の気持ちは高ぶらず、みすぼらしいまま彼女の目の前に投げ出された。
「ねえ、こんなときはどうすればいいの」
栗生はそう言って、僕のあそこを手で触ろうとした。しかしその時だった。突然妹の明日香が、
「お兄ちゃん、ちょっと勉強教えてほしいんだけど……」
と部屋のドアをノックもせずに開け放った。僕が家に帰ってから物音ひとつしないし、まさか明日香が家にいるとは思わなかった。僕と明日香は目が合う。もちろん明日香と栗生も目が合う。部屋が氷点下に凍る。参考書を床にばたっと落として、明日香は何も言えなくなっている。
「あ、あすか、これは違うんだ……」
浮気男が言うようなセリフを僕は口にした。すると明日香は正気を取り戻し、
「いやあああ」
と階段をばたばたと降りて行ってしまった。まずいことになった。何とか誤解を解かなくては。それよりもまず栗生だ。
僕はズボンを履きなおし、栗生に帰るように言った。彼女はしまったという顔をしてはいたけど、罪の意識みたいなものは全然考えていないみたいだった。そんな彼女をここで責めても仕方がない。できるだけ冷静に僕は栗生を玄関に送った。
「長野君、君のそそりたつアレが見られなくて残念だったよ。また見せてね」
彼女は笑顔さえ浮かべている。僕はドアをゆっくりと閉め、その場にへたりこんでしまった。疲れた―――。でもまだやることが残っている。明日香に弁解をしなくては。
明日香の部屋の前でノックをしてみたけど、返事がない。
「あすか、ちょっと話しがあるんだけど」
「話したくない」
僕は部屋に入ることを諦め、ドアの前でひたすら謝った。そして栗生のエキセントリックな行動のこともできるだけ詳細に話した。すると部屋のドアがゆっくりと開き、
「入って」
と強張った顔の明日香が言った。
僕は再び明日香に謝った。すると、
「お兄ちゃん、そんな変な人とは会っちゃだめだよ。動物園だって出禁になってるんでしょ、これからどんな犯罪に巻き込まれるかわからない。興味本位で近づいちゃいけない人だと思う」
とマジメな顔で言った。妹の言うことにも一理ある。栗生と出会ってから、僕は彼女の常軌を逸した行動に付き合ううちに、免疫ができて慣れっこになってしまっていたかもしれない。
でもどこかで僕も楽しんでいたのだ。僕の短い人生でああいう天才肌の人間に出会ったことはなかった。彼女といると平凡な日常にも色がついて見えたのだ。もし彼女と会うことをやめたら、僕の生活は相当色褪せたものになるに違いない。
僕は妹に彼女の天才性についても話してみた。でも妹の答えは、
「天才ってね、凡人のエネルギーをことごとく吸い取っていくんだよ。掃除機みたいにね。それでエネルギーが枯渇して利用価値がなくなったらポイ。わかるかな。さっきやってたことだってそういうことじゃない。あれが最終仕上げだったんだよ。きっとあの後お兄ちゃんはミイラか干からびたイカみたいに抜け殻になって生きていくの。ギリギリのところだったね」
理路整然と話す妹の言葉は説得力に満ちていて、言い返す言葉がなかった。「とにかく、今日のことは誰にも言わないでおいてくれないか」
「うん、わかった。約束する」
僕は栗生との関係を断つべきなのか、その答えは出なかった。