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1

 僕の教室には天才がいる。窓側の前から三番目、ちょうど十一時に秋の日差しが射し込むその席に、栗生真魚は座っていた。といっても過去の天才だ。

 高校生活初日、僕が教室に入ると栗生は一番乗りで教室に来ていて、吹き抜ける風を退屈そうに受け流していた。僕が「おはよう」と声をかけると、彼女は僕の方を眠そうな目で「おはよう、長野くん」と言い、そのまま机に突っ伏してしまった。

 中学まで栗生は絵の天才としてその名を知らぬ人はいなかった。全校集会があるたびに彼女は表彰され、つまらなさそうに賞状を受け取る姿が印象的だった。

 学校に飾られた栗生の絵を何度か見たことがある。確かにうまいと思ったし、常人には理解できない才能のほとばしりみたいなものを感じた。そんな素晴らしい才能を持った女の子だったから、てっきり美術系の高校に進むとばかり思っていた。彼女がこの学校に進学したことは大いなる驚きだった。

 でも彼女は絵を描かなくなってしまった。ぱったりと。美術部の誘いを断り、美術教師の誘いを断り、学校のイベントでも絵を描かなかった。その理由について知るひとは誰もいない。美術の時間に「へのへのもへじ」を描いている彼女を見て、美術教師もようやく諦めたようだった。

 一年の夏が終わるころには彼女の過去の栄光もほとんど忘れ去られてしまった。


 そんな栗生真魚と僕が「出会った」のはある日の放課後のことだった。自宅近くの児童公園を自転車で走っていたとき、見覚えのある紺色のブレザーが目に止まった。

「大人しく……してなさい」

 その女子は草場にしゃがみこみ、野良猫に何かをしているようだった。まさか動物虐待?

品行方正で知られるうちの学校にはあるまじき行為だ。気になって遠くから観察していると、断末魔の叫びのような猫の鳴き声が聞こえてきた。やはり彼女は危害を加えているのだ。

 そう思い猫を助けようとしたときだった。猫は身をよじらせて腕をすりぬけ、最後にありったけの力で彼女をひっかいた。彼女の悲鳴が聞こえ、そし猫は一目散にどこかへ走り去っていった。

「大丈夫?」

 僕がそう駆け寄り彼女の顔を覗くと、その女子は栗生真魚だった。彼女の鼻は猫にひっかかれていて赤くなっていて、一瞬何が起きたのか理解できていないみたいだ。僕が水で濡らしたハンカチを彼女の顔にゆっくりと押し当てると、ようやく栗生は痛みを覚えだした。

「えーと、長野くん……だよね、同じクラスの。こんなところで何をしているの」

「猫にいたずらしている人がいるから止めようと思った」

「いたずら? 私そんなことしてない」

 栗生は深いダークブラウンの瞳を落として僕に抗議した。いつもの教室での無気力な感じとは少し違う熱を持った口調で、彼女は

「誤解しないでね。私は猫にいたずらなんてしてないし、もちろん虐待行為も行ってない。ただ好奇心で猫の体を観察していたの。そしたらひっかかれただけ」

「それは君が描いている絵と関係しているの?」

 絵の話は禁句だっただろうか。僕がそう言うと栗生は咄嗟に何かを背中に隠した。気になって少しだけ彼女の後ろを覗き込もうとすると、鋭い目つきで睨んでくる。でも彼女が隠したものが少し見えてしまった。たぶん黒と黄色のデザインが特徴的なマルマンのスケッチブック。彼女は絵をやめてしまったのだと思っていたけど、決してやめていたわけではなく密かに続けていたのだ。でもなぜ猫の絵を描いていたのだろう。

「まだ絵を続けていたんだね」

「私の絵を知ってるの?」

 僕の言葉に栗生は態度を一変させ、興味深いといった表情を僕に向けた。僕は今日まで栗生の顔を正面からまじまじと見たことはなかったけれど、目の下の小さいほくろがチャーミングで、少し低い鼻もかわいらしいと思った。

 僕は中学時代に栗生の絵に感心したこと、そして高校に入ってから彼女が全然絵を描かなくなって少し残念なことを率直に伝えた。すると栗生は、

「絵をやめたわけじゃないの。家では描いてる。でもみんなには見せたくないの。だって……。ああ、こんな話しちゃった。意味ないね。私帰るから……」

 そう言うと近くに止めてあった自転車に飛び乗り、栗生は消えてしまった。呆然と立ち尽くす僕を、公園の子どもたちやママさんたちが僕を心配そうに見ている。きっと僕が失恋したとでも思ったのだろう、僕がママさんたちのほうを向くと、さっと視線を逸らされてしまった。

 やれやれと下を向くと、一冊の本が落ちている。それは「なぜペニスはそんな形なのか」

という本だった。ここに落ちているということは栗生が落としたのかもしれない。やれやれ、女の子が読むようなタイトルの本じゃないなと思いつつも、僕は丁寧にかばんにしまった。



 2

 翌日教室で本を渡そうとしたけど、栗生は学校に来ていなかった。彼女が欠席するのは珍しく、担任の山田先生も驚いていた。その時は風邪かなぐらいに思っていたけど、翌日も翌々日も休みだった。栗生は目立たない生徒だが、さすがに三日連続で休むと周囲がざわつき始める。もしかして不登校のはじまりではないかと教員たちは色めきたち、誰かを家庭訪問に行かせようということになった。

 ホームルームで誰が行くか話し合いになったのだけれど、もちろん率先して手を挙げる者はいない。このままだとクラス委員の星野太郎と月枝瑠璃のどちらかが行くことになるだろう。

 先生が「じゃあ、クラス委員の……」と言いかけたとき、僕はさっと手を挙げた。栗生に本を渡したかったし、彼女の私生活にもほんのちょっと興味があった。彼女が絵を見せなくなった理由も知りたいし、なぜ猫の体を観察していたのかも聞いてみたかった。

 突然僕が手をあげるとクラス中がどよめき立ち、先生はずり落ちそうになる丸眼鏡を慌てて直している。僕は、彼女に借りたものがあるからついでにそれを返しに行きたいと理由をつけてみんなを納得させた。もとより面倒ごとを誰かが引き受けてくれるならみんな万々歳なのだ。クラスメイトたちも拍手はしないまでもホッとした表情を浮かべている。僕が引き受けたことで、ようやくホームルームの空気が和らいだ。

 山田先生に栗生の家の住所を聞き、彼女の家へと向かった。灰色の空は低く夏の終わりを感じさせ、ちょっぴり切なさを感じさせる。女子の家にひとりで行くなんて初めてだ。だからちょっとだけ緊張して胸が熱くなっていた。

 彼女の家は僕の家から割と近い場所にあって、建売住宅が並ぶ無機質な通りを抜けた先にあった。栗生の家は赤茶色の木造トタン造りで、今風の家々に混じって小さく怯えたように存在していた。 

 玄関前の表札に「栗生」と書かれている。インターホンを押してみたが、中から反応はない。二度三度押しても全く応答がないから、最後に「すみませーん」と中に聞こえるように大声で叫んでみる。すると突然ドタバタと足音が鳴り響き、力強くドアが開いた。

「どちらさまっ!?」

 ツイン団子の髪型で現れた女の子が誰だか一瞬わからなかった。でも目の下のほくろは間違いなく栗生だ。黄色いTシャツにデニムの短パンと、いつもの地味な栗生とはかけ離れた活発な姿に僕は目をパチクリさせてしまう。栗生は玄関の上がりかまちから出ずに両手をいっぱいに伸ばしてドアを最大限開けた。まるで猫が伸びをするような姿勢だ。

「長野くんっ? どうしてここに」

 栗生はその体勢のまま、僕を上目遣いでじっと睨んだ。まるで彼女の秘密を偵察にきたスパイか何かだと思っているのか。僕は冷静に栗生が無断で学校を休んだからみんな心配している、だから様子を見に来たのだと彼女に伝えた。 

「ここまで来て中に入れないわけにはいかないか。どうぞ、入って」

 栗生の家は色々な匂いが混じっていた。古い家特有のかび臭さや生活の匂い、そして絵の具のフェノール臭が鼻についた。

 栗生はどたばたと床板を無造作に踏み、居間へと僕を案内した。室内はきれいに片付いていたが、壁紙はところどころ黄色く変色し、建物が古いことを窺わせた。

「栗生さん、無断欠席が続いているようだけど具合でも悪いの? 」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……。ちょっと煮詰まっててさ、電話するの忘れちゃったんだよね」

 よく見ると彼女の腕や頬のあたりに絵の具の跡がついていたから、絵を描いていたのかと思い、尋ねようとした。でも何となくその質問は彼女の琴線に触れるというか、タブーの話にみえた。

「これ、この前公園で落としていったでしょう。返すよ」

 話の糸口が見えなかったから、とりあえず僕は彼女に本を渡した。

「栗生さんて絵が上手だったよね。中学の頃よく表彰されていたのを見たよ」

 そう言うと獲物を見つけたサメみたいに彼女の目がぎらりと光り、「こっち来て」と僕を部屋へと案内した。栗生の家は広くなく、全部で三部屋しかない。

「本当は誰にも見せるつもりじゃなかったんだけど……」

 僕は襖に閉ざされた彼女の部屋が開くのをこの目で見た。

 開け放たれた栗生の部屋には、山積みになったスケッチブック、イーゼルに架けられた描きかけの絵、それから絵の具や筆などが所狭しと置かれている。そしてイーゼルの向こう側にある大きな窓から光が射し込み部屋全体を照らしていた。まるで神様がいるかのような神々しさがその部屋にはあり、僕は眩しさ以上に目がくらんだ。

「ここが私の部屋。寝る場所がないって? そんなの適当だよ。このあたりに布団を敷いて、こうやって寝ればいいんだよ。私は絵が描ければそれでいいの」

 壁に貼られた絵を僕は眺めてみた。中学時代に見た絵より色使いや表現力が素人目に見てもわかるくらい上がっていた。栗生はやはり絵をやめていなかった。僕はそれを知っただけで、何だか気持ちがホッとした。天才的な才能を持った人が能力を捨ててしまうなんてもったいないと僕は思っていたのだ。

 僕は何点かの絵を褒めてみたが、栗生の顔はそのたび冴えなくなってしまった。僕は自分の褒め方が悪かったのかと思ったけどそうではなかった。そして突然、とんでもないことを口にした。

「長野君、ズボンを脱いで。もちろんパンツもね」

 栗生は渋い梅干しを食べたような、苦渋に満ちた顔でそういった。どんよりと暗い表情で僕を見る彼女は、血に飢えた肉食獣のようにも見える。ゆらゆらと四つん這いになり僕に接近してきて、僕の体を容易に押し倒した。バランスを崩した僕は、画材と本の間に顔を埋め、彼女のされるがままになろうとしていた。栗生はどうしてしまったのだろう、急におかしくなってしまったのだろうか。

 僕は逃げようと試みたけど、がっしりと肩を掴まれ態勢を起こせない。

「栗生さん、えーとどうしたのかな」

「つべこべ言わないで……服を脱いでほしいの」

 とその時、ピンポンとインターホンが鳴った。栗生は「ちっ」と舌打ちをして玄関に向かう。聞こえてくる声からすると、宅配便みたいだ。僕は姿勢を起こし、乱れた髪を直して栗生が来るのを待った。どうしてこんなことをしたのか問いたださなくてはいけない。

「長野君ごめん、続きしようか」

 栗生はそれが食事とか歯磨きとか日常の行為のように僕にそう言った。やはり天才というのは少し変わっているのかもしれない。ならば僕が常識的に会話を進めなくては。

「えーと、栗生さん。唐突で驚いたんだけど、栗生さんはなんで僕にズボンを脱げなんて言ったの? 」

 彼女はぽかんとしている。事の重大さがわかっていないようだ。そして考え込んでしまった。常識メーターをなんとか正常に合わせてほしい。

「話すと長くなるんだけど。君の男性器を絵に描きたいんだよね。おわり」

 全然長くなかった。しかも動機の部分がすっぽり抜けているから意味がわからない。僕が彼女に筋道立てて話すように諭すと、頭の中の回路をなんとか繋ぎ合わせて彼女は話し始めた。

「私、自分の描く絵がつまらなくなっちゃったの。周りの人が気に入る絵ばかり描いて、賞もらって。でも将来絵でご飯を食べていくにはある程度大衆に迎合した絵を描かないといけないんだって大人たちは言う。でもそんなのつまらない。私の中の煮えたぎるマグマは抑えきれなくなっていた。で、あるとき糸が切れたの。もういいやって。それが中学の終わりごろだったかな」

 なるほど。栗生が絵を描かなくなった理由はそんなところにあったのか。確かにそれは正当な理由だ。自分が描きたいものと周りが好きなものと評価されるものは違うのだろう。自分を保ちながらなおかつ周囲の期待に応えるのは並大抵ではないのだ。

 栗生は話を続ける。

「高校に行ったらチアガール部に入ろうって思ってた。かわいいじゃない、チアガール。それで男の子に恋して週末はラブラブデート、夏祭りには浴衣デート。クリスマスにバレンタイン、そして卒業。卒業後は大学に入ってそれから老後は芋ほりに精を出す。そんな生き方もいいかななんて思ったの」

 何とか普通の生き方をしようと栗生ももがいていたのだ。でもたぶん絵を描かなくても栗生はきっとエキセントリックに生きていく。普通の高校生として生きるのは無理だと言おうと思ったけど酷だからやめておいた。

「でもそんなある日。桜が舞い散る四月某日、私は河川敷を歩いていた。ソメイヨシノの散り際っていいわ……なんて思いながらね。そしたら突然コートを着たおじさんが私の前に現れて『お嬢さん、ボクの桜を見てくれ』と言ってがばっと全裸を見せてきたの。もちろんアレも丸見えだった」

 春先に現れる露出狂というやつだ。気の毒に。

「私は悲鳴をあげることもできず、その場に立ち尽くした。もうおじさんはいないし、桜の花弁はどんどん散っていくし、頭の中はぐるぐる混乱するし。でも家に帰ってからもおじさんのアレが頭から離れなくなっちゃったの。アレ、ペニス、おちんちん……。ああ、あのおじさんの男性器は大きくそそり立ちまるでエッフェル塔の上にささったにんじんのようだった。もう一度この目で確かめたい」

 話が変な風に流れ始めた。でもこれが彼女の本心なのだから、僕は黙って聞いてあげるしかない。栗生は興奮気味で息が荒くなってきている。心なしか体全体から湯気が立っているようにも見えた。

「そう思った瞬間、私の中で突然エネルギーがほとばしるのを感じたの。ああ、私はアレを描くために生まれてきたんだって思った。アレは生命の源、宇宙の根源、すべての始まり。そんな素晴らしいものをどうして私は今まで知らなかったんだろう。私はその日から男性器を描くことが生きがいになった。でも、アレは一回しか見ていない。だんだん記憶から薄れていくアレ。私の創作意欲を掻き立てるアレをもう一度見たい、何度でも見たい。人間のでなくてもいい、動物のでもいい」

 栗生はそこまで話すと恍惚の表情を浮かべた。救世主を待つ巡礼者のように、どこに焦点を当てているのかわからない瞳で虚空をじっと見つめている。

 僕は彼女を現実に引き戻すべく、咳ばらいをして栗生の注意を戻した。

「栗生さんの情熱はわかったけど、それでもお願いされるのはちょっと困るよ」

「ええっ、私がここまでお願いしているのに……私の情熱をどこに向けたらいいの。私悶々としてだめなの。学校に行くのも辛いくらいなの」

 困った。僕は芸術家というものがわからないし、栗生の熱がどれほどのものか計り知れない。でもこのままエネルギーを放出せずにいたらどうなる。学校に来ないばかりかもしかすると犯罪を犯すかもしれない。よくサイコパス(彼女がそうだというわけじゃないけど)のそう言ったニュースを耳にする。

「えーと、それじゃ、僕と一緒に動物の男性器を見に行こうか。協力するよ」

 僕が苦し紛れにそう言うと、栗生の顔にぱっと光が差した。そして、

「いつ行く? 今日? 明日? 」

 と犬のように鼻息荒く食いついてきた。今週の日曜日に出かけようと提案すると、栗生は「うふえいははははは!!」と突然体を身もだえさせ喜びのあまり大声をあげた。そんな彼女の姿に、僕は少しだけ引いたけど、同時にこの奇妙なエネルギーをどうにか良い方向に向けてあげないといけない、という使命感も湧いていた。

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