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7 傷跡

 リヴィアが目を覚ましたのは、それから数時間後のことだった。

 視界に入る見覚えのない天井と、パチパチと薪が爆ぜる音を立てる暖炉。ふわりと香るいい匂いの元は、マーサが作ったリゾットだろうか。


 五感を刺激するそれらをボンヤリと受け入れて、やがてリヴィアはガバッと体を起こした。


 辺りを見渡して目に入るものは、リヴィアの知らないものばかり。

 知らないベッド。知らない部屋。けれども、見知らぬ箪笥やドレッサーの上に置かれた小物はリヴィアが使い慣れたものばかりで。


 少し頭を働かせてようやく、リヴィアは自分が倒れ、おそらくリヴィアの部屋として当てられた場所で寝かされているのだ、と理解した。


 ベッドに運んでくれたのは誰かわからないが、髪を解き、衣服をくつろげてくれたのはおそらく乳母のマーサだろう。王都から持ってきた荷物を広げてくれたのも、リゾットを作ってくれたのも、全部。


 それに気づいて、リヴィアはベッドの上で項垂れた。

 せっかく長い時間をかけてやってきたのに、この体たらく。兄が言うように、リヴィアができることなど何もなく、むしろロブストフェルスの人たちの足を引っ張っているだけ。


 この館の主だと名乗った彼も『巫女姫』よりも『異界の乙女』を望んでいたし、リヴィアが役立たずであることがこの初対面ではっきりとわかっただろう。


 いや、より正確に言うなら、初対面ではないのだけれども。


 そのことを思い出して、リヴィアは自分の体にかかった毛布を手繰り寄せ、ギュッと抱きしめる。


 恐怖と緊張に晒されながら、巫女姫と館の主として顔を合わせたあの時。出来得る限り、彼の要望に応えたかったが、ベールを外すことだけはどうしてもできなかった。


 外の世界を見たくなかった。本当の自分を見られたくなかった。

 それがあんな顔合わせを生んでしまった。


 バッと突然ベールを外されたとき、何が起きたのか一瞬わからなかった。部屋の中は明るかった。思ったよりも外の世界は眩しいと感じた。


 そして、館の主だと名乗ったあの人の姿が視界に飛び込んできた。


 一目見た瞬間にレイだとわかった。わかってしまった。

 見覚えのある黒い騎士の制服。後ろに撫でつけられた黒い髪に、黒曜石のような黒い瞳。記憶にあるものよりも大人っぽくなった精悍な顔つき。けれども、何よりも変わっていたのは——。


 コンコンコン、と扉をノックされた音に、リヴィアは肩を跳ね上げて思考を現実に引き戻した。


「お嬢様、マーサです。起きていらっしゃいますか?」


 聞きなれたマーサの声にすら返事ができないでいると、部屋の扉が無遠慮に開いた。

 入りますよ、の声と共に入ってきたマーサは、体を起こしているリヴィアを見ると、キッと目を吊り上げた。


「ダメじゃないですか、お嬢様。起きているのならキチンと返事をしないと」

「……ごめんなさい」


 リヴィアの謝罪に、まったくもう、とぼやきながら、マーサは食事が置かれたお盆を持ってきた。


「ご飯は食べられそうですか? お嬢様は倒れられた後、ずっと眠っておられたんです。馬車の中でもあまり物を食べていらっしゃらなかったから、きっとお腹が空いてるでしょう。スープとリゾットを新しくお持ちしたので食べてくださいね」

「うん。わかった。……あの、あっちのリゾットは?」

「あれは冷めているので、温め直して私がいただきます。お嬢様は気にしなくてよろしいのです」

「うん……」


 そう言われながら、リヴィアはマーサから押し付けられたお盆を見た。スープとリゾットからは白く湯気が立っており、ミルクティーが入ったマグカップからは甘い香りが漂ってくる。


 リヴィアはお盆に置かれたスプーンを手に取ると、野菜が入ったスープから口をつけた。胃に暖かいスープが入り、その熱が静かに体の中を巡る。

 リヴィアはスプーンですくったコンソメのスープを見ながら、そっとマーサに尋ねた。


「……あの、……ウォルター、様、とか、エレナさん、とか、私が倒れた後に何か、言ってた?」


 今までの人生で、リヴィアが他人を呼んだことはほとんどない。それゆえにどこかぎこちなく敬称をつけて呼んだのだが、マーサにはそれが気に食わなかったらしい。


 マーサは耳ざとく、ウォルター『様』? と繰り返して、すぐに眉根を吊り上げた。


「あんな男、呼び捨てにしてもいいくらいです! お嬢様に向かってどうのこうのと失礼な言動ばかり、それに加えて馬車で長旅を終えたお嬢様に対して、お疲れではありませんか、の一言もない! こうしてお嬢様が倒れたのも、あの男の責任と言っても過言ではありません!」


 ぷんすかと怒涛の勢いで不満を爆発させるマーサに対し、リヴィアは慌てて彼女の言葉をせき止める。


「あ、あの、それに関しては私が悪いから。御付きの人に大丈夫かと聞かれて大丈夫ですって答えちゃったのは私だし、緊張とかでちょっとフラフラしちゃってたし、その、……あの人たちの言い分は何も間違ってない、と思う」


 リヴィアの必死の言い訳が届いたのかどうかわからないが、マーサは腑に落ちないという顔をしながらも渋々とロブストフェルスの者たちへの苦言を引っ込めた。


「……あの方々はお嬢様が倒れられたことに関して謝罪しておりましたよ。もちろん、私から先に苦情を入れさせてもらいましたが。……まったく、部下の不敬な行動にすぐに謝りもせず、ポカーンと突っ立っているだけだなんて、あんなので本当にロブストフェルスを守ることなんてできるんでしょうかねぇ?」

「あ、えっと、その、それで、あの人は他に何か言ってなかった……?」

「お嬢様が目を覚まされたら、もう一度顔を合わせて謝罪したいそうです」


 マーサが平然と言った言葉に、え、とリヴィアは持っていたスプーンをカシャンと落とした。


「あの、それって、今すぐ行かなきゃいけないんじゃ……? ご飯とか食べてていいの……?」

「何をおっしゃっているんですか!? あんな男待たせておけばいいんです! それに先程倒れられたのをお忘れですか? キチンと全部食べるまで、婆やはお嬢様を部屋の外に出しませんからね」

「あ、……うん」


 マーサの言葉にリヴィアは納得したように頷くと、彼女がささっと取り替えた新しいスプーンを受け取った。


 マーサの言うことは間違っていない。慌てて会いに行って、すぐにまた倒れるなんてことはあってはならない。

 『役立たずの乙女』としてここに来て、もうすでにダメダメなところを見せてしまっているけれど、これ以上ここの人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。


 そんな決意を胸にすれば、ふと思い浮かぶのは彼のこと。思い出すだけでギュッと胸が痛むが、できるだけそれを気にしないようにしながら、リヴィアはマーサの持ってきてくれた食事を摂った。



   ♢♦♢♦♢♦



「これが、お嬢様が着るように指示された制服です。サイズが少々合わないようだったので私の方で調整しておきましたが、具合はいかがですか?」

「うん、大丈夫。ありがとう」


 リヴィアが袖を通したのは、ロブストフェルスの女性騎士の制服だった。デザインは昔レイが着ていた制服よりもシンプルで、大きな違いと言えば、彼らの上着が黒ばかりだったのに対し、リヴィアの上着が白いこと。


 マーサは白い上着を着たリヴィアを見て、満足げにうんうんとうなづいた。


「やはり、巫女姫の装束は白でなければ」

「……あの、もしかして、ここの人たちに無理を言ったの?」

「まさかまさか。彼らがあると言ったので、それをそのまま貰ってきただけです」


 しれっと言うマーサに少し呆れはしたが、普段から着慣れている色が近くにあるのは安心する。

 あとは、とリヴィアはクローゼットのそばにかけてあるベールを振り返った。


「……やっぱり、ダメだよね」


 ちょん、と指先で突いても、そう簡単には揺れない重たいベール。それがあんな簡単に吹き飛ばされてしまうとは思わなかった。


 あのマーサが主人のこの行動を見て何も言わない。その理由をリヴィアもよくわかっている。


 こっちの方が大事なのだ。リヴィアの心を守るより、体を守る方が大事。


 リヴィアは名残惜しそうにベールに触れたあと、大きく息を吐いて部屋の扉に向き合った。


「お嬢様、やっぱり私もついていきましょうか? お嬢様お一人ですと、やはり何かと心配です」

「ううん、平気。案内はエレナさんがしてくれるし、いつまでも婆やに頼ってるわけにはいかないから」


 正直に言ってしまえば怖くてたまらない。

 会いたくない。行きたくない。ここに引きこもっていたい。

 そうワガママを言えば、マーサがなんとかしてくれるのだろうか。


 でも、それでは何も変わらないのだとわかっている。


 リヴィアはもう一度大きく息を吐くと、マーサに向かって無理やり笑顔を作った。


「じゃあ、行ってくるね」

「はい。行ってらっしゃいませ、お嬢様」


 マーサの言葉に背を押されて、リヴィアは部屋の扉を開けた。



   ♢♦♢♦♢♦



「先程、隊長からご紹介にあずかりました、本日より巫女姫様の護衛に当たるエレナ・クラインと申します。護衛の他に雑事も引き受けておりますので、何かご入用でしたらなんでも私にお尋ねください!」


 そう言ってリヴィアの目の前に立つ女性騎士は深々と頭を下げた。バサッと大きく揺れる金髪。きびきびとした動きに、明るい雰囲気。リヴィアよりも背が高く、しっかりとした体つき。パッと顔を上げた彼女の表情は生き生きとして輝いている。


 自分とは完全に正反対の女性に、リヴィアは一瞬気圧された。


「……あ、えっと、リヴィア・フィリグランツ・ブラウイーレ、と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 慌ててリヴィアが同じように頭を下げ返せば、エレナはギョッと驚いたように目を丸くした。


「えっ! あの、巫女姫様!? 私、護衛ですよ!? 身分もそんなに高くないですし、王族の方にそんな深々と頭を下げてもらうような者じゃないですって!」


 今度はエレナが慌ててしゃがみ込み、頭を下げているリヴィアの顔を下から覗き込む。


「ね! ほら、顔を上げてください。巫女姫様がこのまま頭を下げ続けるんなら、私、このままの格好で歩きますから。ね、ね?」


 俯いたリヴィアの目に映り込んだのは、困ったようなエレナの笑顔。その顔を見て、リヴィアは怯えたようにジリジリと後ずさる。


「……え、あ、あの、……えっと、ごめんなさい」


 ギュッと目をつぶって、先程よりも深く頭を下げれば、ワタワタとした雰囲気と共に、も、もうやめましょうか、という言葉が返ってきた。


「ほら、あんまりここで時間を使っても隊長を待たせるだけですし、巫女姫様も倒れられたばかりですもんね! ここで喋ってるのもなんですし、早いとこ隊長のところに行っちゃいましょう!」


 リヴィアが恐る恐る顔を上げれば、エレナはあっちです! と勢いよく廊下の向こうを指差した。

 さあさあ、行きますよ! の声と共にくるりと背を向けたエレナを見て、リヴィアはどこかホッとした。それと同時に失望している自分もいる。


 昔はあんなに誰かと関わりたかったのに、今は誰かと喋るのだけでも気疲れする。こんなことで『浄化の乙女』としての役割をキチンと果たせるのだろうか。


 ユラユラと揺れるエレナのポニーテールを目で追いながら、リヴィアは彼女の後をついていった。



   ♢♦♢♦♢♦



「隊長、巫女姫様をお連れしました」


 ノックの音と共に、エレナの声が響く。入ってくれ、と扉の向こうから聞こえた声に、リヴィアは身をすくめた。

 失礼します、とエレナが扉を開け、彼女に促されるままにリヴィアは部屋に入る。


 今回案内されたのは、おそらく彼の執務室。棚に詰め込まれた大量の本と、執務用の机と、積み重なった書類と、あとは打ち合わせ用のソファとテーブル。


 カタン、と音を立てて立ち上がったのは、何かの書類を処理していたウォルター。その顔を一瞬見て、リヴィアはすぐに目を逸らす。


 夢だったらよかったのに、と思っていた。彼でなければよかったのに、と思っていた。

 ベールが外れた時に一瞬見えたあれが、間違いであればいいのに、と思っていた。


 後ろに撫でつけられた黒い髪に、黒曜石のような黒い瞳。

 そして、その右目の上の大きな()()


『お前のせいだろう』


 ここにはいないはずの兄の言葉がリヴィアの耳に響いた。

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