4 『異界の乙女』
その日、リヴィアが願った通り、『異界の乙女』降臨の儀は成功した。
この国に『異界の乙女』が現れたという事実は、あっという間に城の中を駆け巡り、城にいた者は皆、歓喜の声をあげた。
呼び出された『異界の乙女』は十五歳の少女。『ニイムラ ココネ』と名乗った彼女は、当初、元の世界に帰れない事を知って泣き崩れ、祝賀ムードが漂う城の一室に引きこもってしまった。
誰とも会わず、誰ともしゃべらず、扉と共に心まで閉ざしてしまったココネ。そんな彼女に根気よく語り続け、部屋の外にまで連れ出したのは、リヴィアの兄であり、この国の王であるリオネスだった。
彼はココネに様々な物を贈った。美しいドレスに煌めく宝石、流行りのお菓子。それでも彼女の顔の顔は晴れなかったが、リオネスは手を変え品を変え、ココネに物を贈り続けた。
最終的にココネが初めて笑顔を見せた贈り物は、生まれたばかりの子犬だったらしい。家族や友人と引き離された彼女が望んだのは、いつでも自分のそばにいてくれる小さな存在だった。
その日からココネは他者に心を開き始めた。リオネスと話をして、リヴィアの姉妹たちと出かけて、城の者たちと交流を始めた。
リヴィアとココネが関わりを持ち始めたのもこの頃からだった。
初めはリヴィアもココネと関われることを喜んだ。
ココネはリヴィアと同じ特別な女の子。同じ役割を持つ者同士なら、唯一無二の友人になれるかもしれないと思ったから。
だが、リヴィアに与えられた役割はココネの教育係だった。リヴィアは『浄化の乙女』の力を持つ王女として、『異界の乙女』の補佐をすることを求められた。
聖堂での祈り、儀式の参加、『浄化の乙女』としての心得。リヴィアがココネに教えられることは少なく、とても質素で地味なもの。
ココネの目にはそれがつまらないものとして映ったのか、それとも自分よりも幼い少女に何かと言われるのが嫌だったのか、やがて教育係であるリヴィアを疎むようになっていった。
だが、考えてみれば、それも当然のこと。リヴィアだってずっと疑問に思っていたのだ。
『浄化の乙女』が聖堂でじっと祈っていて一体何の意味がある?
儀式の間中、ずっと座って見守っていることに一体何の意味がある?
ただ、質素に、服の色を白に統一し、ベールを被り、他者と関わらないでいることに一体何の意味がある?
リヴィアだってそう思っていたのだ。ココネだってそう思ってもおかしくはない。
だったら、変わるべきだ。変えるべきだ。
『浄化の乙女』の力を持つ王女も、『異界の乙女』も、こんな城にいるべきではない。天から与えられた力を、こんなところで腐らせておくべきではない。
リヴィアは兄にそう進言した。
それは今までにも主張してきたことだった。『浄化の乙女』の役割を果たさせてほしい。王女としての役割を全うさせてほしい。
そんなリヴィアの願いはいつも兄に否定されてきた。
だが、今回は違う。リヴィアだけでなく、ココネもそう思っているのだから。
きっと何かが変わるはず。リヴィアはそう思っていた。
「お前は間違っている」
兄の返答は何も変わらなかった。リヴィアの願いはいつもと同じように否定された。
ただ一つ違ったのは、リオネスに庇われるように傍にココネがいたことだった。
兄の隣にいるココネが鮮やかな黄色のドレスを着ているのを見て、ようやくリヴィアは何かがおかしいと気付いた。
リヴィアとココネは同じ考えを持っていた。なのに兄はリヴィアには間違っていると罵り、ココネには何も言わずに背に庇う。
リヴィアには何も与えないのに、ココネにはいろんな物を贈る。
リヴィアには誰とも会わせないのに、ココネにはいろんな人と関わらせる。
思い返してみれば、おかしなことばかりだ。生まれたときからこの城にいるリヴィアよりも、この世界に来たばかりのココネの方が城の人間たちと馴染んでいる。
リヴィアは姉妹たちと話したこともないのに、ココネは彼女たちと毎日お茶会をしている。
ドレスやアクセサリーだって、リヴィアよりもココネの方が多く持っている。
リヴィアとココネ。どちらも特別な『浄化の乙女』。けれども、兄は二人の扱いに対して差をつけた。
変だと思った。おかしいと思った。リヴィアはそれをそのまま口にした。
リオネスの返答はこうだった。
「お前は穢れている。欲と嫉妬に塗れた『浄化の乙女』など間違っている」
何がどう間違っているの?
どこがどう穢れているの?
リヴィアがそう問う前に、彼女の体は聖騎士に連れ去られた。白銀の鎧を纏い、顔を覆う兜を被った彼らは、いともたやすくリヴィアの体を持ち上げ、聖堂へと連れて行く。
「そこでしばらく邪念を払え」
兄の命令で閉ざされた聖堂の扉は、それから三日間、開くことはなかった。
リヴィアは泣き叫び、扉を叩いた。懇願し、謝罪し、けれども少女の力で鍵のかかった扉を開くことはできなかった。
だから必死に祈った。聖堂にある像の前で、手を握りしめ、自分の罪と向き合い、自身の邪念を払おうとした。
そうすれば出してもらえると思った。
何の意味もなかった。
ようやく扉が開いた時、空腹と寒さで意識を失っていたリヴィアに真っ先に駆け寄ってきてくれたのは、乳母であるマーサだけだった。
数日の療養期間を経て、リヴィアは再び兄王の前に呼び出された。
そこにいたのは多くの『浄化の乙女』たちと、聖騎士、彼らをまとめる司祭、そして、『異界の乙女』であるココネ。
リオネスはリヴィアとココネを並び立たせると、二人の前に小さな革袋を一つずつ置いた。
「その袋の中には瘴気に塗れた土が入っている。それぞれ浄化してみろ」
何の迷いもなく袋を持ち上げるココネを見て、リヴィアも恐る恐る袋を開ける。中からは変わった匂いのする湿った土とともに、黒い靄のようなものが沸き立っていた。
初めて見る瘴気にリヴィアは怯えた。
瘴気の浄化の仕方など知らない。誰も教えてくれなかったし、教わることを兄は許してくれなかった。
それでも、『浄化の乙女』であるならば、瘴気は浄化できなければならない。
リヴィアは震える指先で瘴気に触れた。瘴気はまるで空気のようで、触れたという感じはしない。けれども指と瘴気が重なった瞬間に体の芯が凍るような冷たさが伝わってきた。
痛みすら感じるような冷たさに、リヴィアは慌てて袋から手を離した。床に零れた穢れた土は、ジワジワと王宮の豪奢な絨毯を黒く穢していく。
早く浄化しなければ。そう思うのに、瘴気に触れたリヴィアの手は小さく震えるばかりで上手く動いてはくれない。
「あーあ」
失望したような声とともに、誰かの白い手が床に落ちた袋を拾い上げた。その手の先を辿ってみれば、この前とはまた別のデザインの綺麗なドレスを着たココネが立っていた。
「できないなら、初めからできないって言えばいいのに」
ココネは何の恐れもなしに袋を開け、穢れた土に触れる。その瞬間、ココネの手からパチッと白い光が溢れて、土から沸き立っていた瘴気が消え失せた。
呆然と見ているだけだったリヴィアをよそに、一連の様子を見ていた人々は一斉に歓声を上げた。
「流石、ココネ様! あの濃い瘴気をすぐに浄化してしまうなんて!」
「ココネ様が現れた瞬間、私の担当地域の瘴気が一気に払われましたの。『異界の乙女』の御力は遠くにいても届きますのよ」
「我々はココネ様を故郷から引き離してしまったというのに……。なんという寛大なお方」
それにひきかえ、と周囲の白い目がリヴィアに突き刺さる。
「今まで『巫女姫』と崇められてきたのは何だったんですの? 少し瘴気に触れたくらいであんなに怯えて。私たちの方がもっとひどい瘴気に触れていますわ」
「王族の血を引いているとはいえ、あまりにも無能。本当に『浄化の乙女』であるかどうかも怪しい」
「そのくせ、ココネ様とともに穢れた土地へ赴くべきだ、と進言したそうですね。自身の浄化の力もおぼつかないのに」
噓つき、と誰かが言う。
ずっと城の中で守られてきたくせに、と誰かが言う。
きっと贅沢がしたかっただけなんでしょう、と誰かが言う。
ひそひそとした声はリヴィアにもちゃんと聞こえていて、あの集団の誰もがリヴィアに失望しているのだとわかった。
何故か震えだした手をギュッと抱きしめるリヴィアの目の前に、見下すようにココネが立ちふさがった。
「何の役にも立ってないくせに、私に指図なんかしないで」
くらりと眩暈がした。目の前が暗くなって、足から力が抜けて、リヴィアはその場に崩れ落ちた。
軽蔑の色が浮かんだ数々の視線。不満が募った恨みの声。リヴィアの味方はこの場に誰一人としていなかった。
♢♦︎♢♦︎♢♦︎
そこからどうやって自分の部屋に戻ったか、リヴィアは覚えていない。
確かに覚えているのは、この日からココネが『異界の乙女』の地位を確立したことと、リヴィアが『役立たずの巫女姫』と噂されるようになっただけ。
役立たずの噂には様々な尾ひれがついた。毎日遊び歩いているとか、宝石やドレスを買いあさり国庫を圧迫しているとか、まだ成人もしていないのに夜な夜な違う男を部屋に呼んでいるとか、そんな不名誉なものばかりが広まる。
「まったく! ちょーっと調べれば、すぐに嘘だとわかるような噂ばかり広まって! 兄王様も兄王様です! お嬢様がここまで貶されて黙っているなんて!」
「……そうだね」
だが、それもリヴィアには関係ないこと。怒るのは乳母のマーサくらいで、他にリヴィアを気にかけてくれる人など誰もいないのだから。
兄王に呼び出されたあの日から、リヴィアの生活は驚くくらいに変わらなかった。
もともとリヴィアの世話はマーサが一人でやっていたのだ。マーサがリヴィアへの態度を変えない限り、リヴィアの衣食住が変わるわけがない。
日々やることも同じ。聖堂へ行って祈るのも、勉強するのも、リヴィアはいつも一人でやっていた。不名誉な噂を流されたとしても、そもそも周りに人がいなければ何も変わらない。
せいぜい変わったことと言えば、儀式に呼ばれなくなったことくらい。儀式にはリヴィアの代わりにココネが出るようになった。
国民から絶大な人気を誇る『異界の乙女』と、悪評ばかりが流れる『役立たずの巫女姫』。どちらが儀式に出るに相応しいかなんて、誰に聞かなくてもわかる。
それが、リヴィアにとってはありがたかった。
兄王に呼び出されたあの日から、人前に出るのが恐ろしくなった。誰も彼もがリヴィアを見下し、軽蔑する、あの空間が恐ろしくなった。
あれだけ抱いていた外への憧れもいつの間にか消え失せた。寝る前に窓の外を眺める習慣も止めた。
もう誰にも見られたくなかった。誰にも知られたくなかった。気づかれるのが怖かった。
リヴィアはもう一生この城にいると決めたのだ。もう外なんて望まないと決めたのだ。
ここ以外の場所なんて知らない。これ以外の生き方なんて知らない。
どれだけ蔑まれようが、どれだけ誹られようが、ここにいる限り死ぬことはない。たとえリヴィアが死んだとしても、悲しむのはマーサくらいなもので、困る人は誰もいない。
いなかったことにしよう。リヴィアなんて。浄化の力を持つ王女なんて。『役立たずの巫女姫』なんて。
大人しくじっとしていれば、その内皆リヴィアのことなんて忘れる。そんな人いなかったと完全に忘れてしまう。それでいいじゃないか。
リヴィアなんて王女は存在しなかった。
だから。
「ヴィーのことも、どうか忘れてて」
遠い空と同じ色の髪飾りを見て、リヴィアはそう呟いた。
『またな』
この髪飾りを見るたびに、彼の声を思い出した。
たった一度だけ、リヴィアを城の外に連れ出してくれた人。
彼がリヴィアの正体を知って、『役立たずの巫女姫』である事を知って、その顔が、瞳が、言葉が、侮蔑の色に染まってしまうのが怖かった。
レイにまた会いたい、なんて思えない。また市場に連れて行って、なんて思えない。
だからもう、この髪飾りなんて見ない。もう二度と使わない。
今、リヴィアが思うのはただ一つ。全ての人の記憶から自分の存在が消えてしまえばいいのに、という願いだけ。
それだけを祈って、リヴィアはいつも通りの、ほんの少しだけ変化した日々を送り始めた。
この国は安寧に包まれている。『異界の乙女』ココネの力によって。
リヴィアが役に立つことなど何にもない。きっといつまでも、ココネがいる限りこの国は平和なのだ。
♢♦︎♢♦︎♢♦︎
「これは王命だ。役立たずはとっとと出ていけ」
金色の髪に青い瞳。玉座に座る兄はリヴィアと同じ色彩をしているのに、どこか相手を委縮させるような冷酷さを孕んでいる。
兄、リオネスの射殺すような目線と冷たい物言いに、この五年で成長したリヴィアはギュッと手を握りしめた。




