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15 その先にあるもの

「【氷槍(アイス・ジャベリン)】!」


 ヒューロットの声と共に、氷の槍が飛んでくる。それがエレナの体に噛みつく狼の眉間に突き刺さり、そのまま狼の体を後ろに弾き飛ばした。


 けれど、体の上から狼がいなくなったのに、エレナはリヴィアにのしかかったまま動かない。つぅ、と吐息とも悲鳴とも取れないようなか細い声がエレナの口から零れた。


「エ、エレナ……。エレナ、大丈夫……?」


 少しだけ体を起こし、エレナの背中に手を回した瞬間、リヴィアは動きを止めた。その細くて白い手にべったりとついたのは、エレナがリヴィアを庇って流した血。エレナの背中から流れ落ちるそれは、リヴィアの手だけでなく、リヴィアの着る白い制服をも赤く染め上げていく。

 見たことのない血の量に、リヴィアの思考は一瞬停止した。


「何してんの!? 早くこっちに来て!」


 もう一度氷の槍を出して狼の行く手を遮りながら、ヒューロットが叫んでいる。ずる、とリヴィアはエレナの体の下から這いずり出た。

 だが、やはりエレナは動かない。


「エ、エレナ……」


 涙声になりながら彼女の体を引きずろうとするが、リヴィアの力ではエレナの体は少しも動かない。

 彼女の名を呼んでもダメ。

 エレナの体を抱えて逃げることもできやしない。


 ドクン、とリヴィアの心臓が大きく揺れた。呼吸が少しずつ浅くなっていく。真っ白になっていく頭に、一つの言葉が思い浮かぶ。


 ああ、なんて役立たず。


「リヴィア!」


 ヒューロットの声が聞こえる。エレナと共にいるリヴィアの頭上が真っ暗になり、リヴィアは呆然と顔を上げた。


 それはまるで、馬車か館が宙に浮いているようだった。その二つと大きく違うところは、あの中に人の命を潰せるほどの質量が詰め込まれているところだろうか。


 ヒューロットが魔法で放つが、それくらいでは魔物は動じない。他の騎士は狼に苦戦している。ここにいるのは動けないエレナと役立たずのリヴィアだけ。


 リヴィアは呆然としながら、命を踏みつぶす圧倒的な質量の魔物の足を見ていた。分厚い皮に、薄汚れた蹄。黒い炎のように揺らめく濃い瘴気の向こう側で、生気のない白い目がリヴィアを捉えている。


 そこに死がある。間近に死がある。


「に、げて……」


 エレナのか細い声がリヴィアの耳に届いた。だが、リヴィアの手も足も動くことはなかった。


 ズドン、と巨大な鉄槌のような魔物の足が地面に向かって踏み落とされた。


 濛々と立ち込める黒い瘴気。衝撃で軽く吹き飛んだ白い雪。

 そこに何か別の色が混ざっているのを見るのが嫌で、ヒューロットは思わず目をつぶる。


 だが、戦場でいつまでもそんなことを言ってはいられない。恐る恐る目を開けたヒューロットの視界に飛び込んできたのは、人一人分の高さのところで魔物の足を防いでいる黒い騎士の姿だった。


 その騎士はギリギリと切迫した様子でその足を剣で受け止め、やがて大声で叫んだ。


「……弾け!」

「「【氷塊弾(ロック・アイス)】」」


 複数人の魔導士の出した氷塊が魔物の足の側面にぶち当たり、そのまま魔物の足を受け流すように彼も剣を横に薙ぎ払う。


 ズドン、と今度こそ魔物の足が地面につき、魔物もバランスを崩して倒れる。

 その場にいるのは気を失い倒れたエレナと、放心しながらも今の一連の流れを見ていたリヴィア、そして、その彼女たちを背に庇うように立つウォルターの三人。


「……おっそい!」


 思わず叫んだヒューロットの傍に、次々と騎士が駆け寄ってくる。


「ヒューロット、怪我人は?」

「そこで倒れてる奴とリヴィ、……巫女姫の近くにいるエレナだけ。あとは全員大した怪我はしてないけど、体力が限界かも」

「了解」


 そう言って、騎士はリヴィアが治療した騎士を担ぎ上げる。ウォルターの傍にも何人かの騎士が駆け寄り、リヴィアとエレナの回収に向かっている。


「あ、あ、あの……」


 駆け寄ってきてくれた騎士に手を借りて、リヴィアは立ち上がる。エレナもまた他の騎士によって担ぎ上げられている。

 その中で、リヴィアは助けてくれたウォルターに声をかけようとした。


 だが、彼はリヴィアを振り返らない。


「隊長、巫女姫は……」

「連れていけ。今、彼女はこの場に不要だ」


 ウォルターと騎士の間の短いやりとりに、リヴィアは押し黙った。

 もう視線は交わらない。交わす言葉はない。言いたい言葉は口から出てこない。


 彼の言った言葉でなんとなくわかった。もう完全に終わったのだと。


 騎士が優しく腕を引く。それに導かれるまま、リヴィアはウォルターから顔を逸らし、騎士の連れてきた馬に乗った。



   ♦♢♦♢♦♢



「……様! リヴィアお嬢様!」


 マーサの呼び声にリヴィアはぼんやりと目を開けた。目に映るのはパチパチと燃える暖炉の炎と、目の前に立つマーサの姿。


 あの魔物から逃げ切ったあと、リヴィアは特に何もすることがないまま、ロブストフェルスの館にある自室に戻された。


 館にいる騎士たちはリヴィアには理解の及ばない指示系統で動き、怪我人は早急に医務室に運ばれ、魔物の報告を受た騎士たちが未だ戦うウォルターたちへの援軍に出向いた。


 そのどれもこれも、リヴィアには何一つの報告も相談もなく。医務室に運ばれたエレナの様子でさえ、リヴィアは何も知らない。

 それも当然だ。役立たずに何か聞くような人はここにはいない。


 自室に戻ったリヴィアを出迎えてくれたのは乳母のマーサだけ。エレナの返り血に塗れたリヴィアを見てマーサは驚き、お嬢様になんてことを! と部屋まで送ってくれた騎士に対して大声を上げた。

 特に怪我はない、とリヴィアはマーサを必死に抑え、マーサが準備してくれた別の制服に先ほど着替えた。


 それからどれだけの時間が経ったのか、リヴィアには何もわからない。ただ暖炉の前の椅子に膝を抱えて座り、額を押し付けて呆然としていただけ。


 はらりと乱れた前髪が視界の隅で揺れる。リヴィアはまだどこか夢現のような状態でマーサを見上げた。


「……どうか、したの?」

「まったく、このような場所で眠られては困ります。お休みなさるのなら、ベッドに行ってもらわないと。……それはそれとして、お嬢様に会ってお話したいという方が来ていらっしゃいます。お嬢様はお疲れのようですから追い返してもよろしいのですが、いかがなさいますか?」


 マーサはいつにもまして、ロブストフェルスの人々に当たりが強い。それほどまでにリヴィアが危ない目にあって帰ってきたことに怒っているのだろう。


 本当に危険だったのはリヴィアではなかったのに、本当に痛い思いをしたのはリヴィアではなかったのに、マーサはリヴィアがそんな目に合うのを嫌う。

 ここの人たちより、リヴィアの方が大事。だって、リヴィアは特別なお姫様だから。


 マーサの言葉にそんな感情を読み取って、リヴィアは顔を俯かせた。

 一体、何が特別なんだろう。何の役にも立たないのに。


「……会ってくる」


 マーサの言葉にリヴィアは簡潔にそう答えて、ソファから立ち上がった。


 会いたいと言ってきたのはウォルターだろうか。この館内でリヴィアと話したことのある人は限られている。

 魔物と遭遇した直後。そんなときに会いたいと言ってくる人は彼しかいない。


 彼にどんな話をされるだろう。それもなんとなく予想がついている。


 マーサが不安そうな顔をしているが、それを気にも留めず、リヴィアは軽く身なりを整えて、自室から出る。当然、いつもならすぐそこにいるはずのエレナの姿はなく、代わりにいたのは魔導士のローブを脱いだヒューロットだった。


「お、意外と元気そうじゃん。怪我とかなかった?」

「え、あ、はい。……大丈夫です」


 予想と異なる人物にリヴィアは一瞬呆気にとられたが、ヒューロットは平然と話しかけてくる。

 だが、普段通りに見える彼の左腕には包帯が巻かれている。ローブで気づかなかっただけで、もともとそんな怪我をしていたのだろうか。それとも先ほどの戦闘での怪我だろうか。


 じっとリヴィアが左腕を見ていると、ヒューロットがそれに気づいたのか、なんでもないというようにひらひらとその腕を振った。


「別になんともないよ。一回の戦闘でこんくらいの怪我を負うことなんてざらにあるし。医療班は他の騎士の手当をしてるから、順番待ちだね」

「……あの、少し、お借りしてもいいですか?」


 リヴィアはヒューロットの左腕を取ると、ゆっくりと静かに魔力を込める。

 先ほどもやったこと。大して難しいことではない。パチン、とわずかに魔力が使われた音がして、リヴィアはヒューロットの腕から手を離した。


 ヒューロットは左腕から包帯を外すと、おお、と歓声を上げた。


「キレイに治ってんじゃん。アンタ、器用だね」

「……ありがとう、ございます。それで、あの、お話、とは……」


 恐る恐るリヴィアが問えば、ヒューロットはその神妙な様子を何も気にした様子もなく、廊下を指さす。


「とりあえず、歩きながら話そ。今回の報告、アンタまだ受けてないでしょ」

「あ、はい……」


 そう言って、ヒューロットは歩き出す。その後を追うようにリヴィアは彼についていった。



   ♦♢♦♢♦♢



「……とりあえず、死者はなし。怪我人は何人か。魔物の討伐は成功。ただ、結構な人数の騎士が瘴気の影響を受けてるし、懸念事項もあるから今は全体的に手が回ってない状態。医療班もおんなじ」

「あの、エレナさんは……?」

「まだ寝てる。回復魔法って怪我がひどければひどいほど眠くなるんだよね。ま、どんだけ遅くても明後日には起きるでしょ」


 そう言って、ヒューロットは一つ欠伸をついた。先ほどリヴィアが回復魔法をかけてしまったためか、眠気が襲ってきているのだろう。


 回復魔法のその副作用をリヴィアは知らなかった。今までにリヴィアが回復魔法を使った相手などたかが知れている。

 今まで人と関わってこなかった。城の中ではリヴィアとマーサのみ。リヴィアに回復魔法をかけてくれ、なんていう人は今までに一人もいなかった。


 悪いことをした、とリヴィアは思った。あの場にいた騎士にも、先ほどのヒューロットにも。


 静かに俯くリヴィアに、ヒューロットが声をかける。


「でさ、ここからが本題なんだけど。まだ魔力って残ってるよね?」

「え、あ、はい」

「ならさ、隊長の怪我、治してよ」


 平然としたヒューロットの言葉に、リヴィアの足は一瞬止まりそうになる。

 それを知ってか知らずか、ヒューロットは歩みを止めず、リヴィアもまたそれを悟られないように足を動かし続ける。


「あの人さ、いっつも自分が最後でいいって言うんだよね。本当にヤバい時は皆で無理やり治療を受けさせるんだけど、そうじゃない時は基本的に逃げ回るし。隊長はアンタと話したいって言ってたからさ、隙ついて治してきてよ」


 きゅ、とリヴィアの心臓が止まりそうになった。

 ウォルターに会う。それがどういうことか、よくわかっている。彼が何を話したいか、大体予想はつく。


 その話を、怪我をしている彼の前でする。


 先ほど止まりかけていたのが嘘みたいに、心臓がドクン、ドクンと脈打つ。体中から嫌な汗が出る。


 でも、それでも。こうなるとわかっていたのだから、受け入れなければならない。


「……ウォルターさんの怪我は、そんなに酷いの?」

「うーん、まあ、そこそこ。ただ隊長って結構丈夫だし、医療班から逃げれるくらいだから本気でヤバいって訳じゃなさそうなんだよね」


 怪我。ウォルターの怪我。


 その単語だけで、彼の顔の傷跡を思い出す。いつついたのかは知らない、けれども、五年前には確実になかった傷。


 リヴィアが役立たずでなければ、リヴィアがしっかりとしていれば、こんなことにはならなかったのに。


 リヴィアが自責の念を募らせている間に、ヒューロットがある部屋の前で足を止めた。

 それは何回か来たことのある、ウォルターの執務室で。


「それじゃあ、頼んだよ」


 そう言って、ヒューロットは扉を開けた。

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