14 零れ落ちていくもの
「異常……」
リヴィアは今しがた騎士から聞いた言葉を繰り返した。まだパチパチと焚火が燃えている仮の拠点で、エレナは早々に帰る準備を始める。
「大丈夫ですよ、リヴィア様。私たちがついてますし、そんなに大変なことは起きませんって」
「そうそう。オレらにできることはないし、邪魔にならないようにサッサと帰った方が身のためでしょ」
エレナの言葉に同意したのは、いつの間にか合流していたヒューロット。
邪魔、とヒューロットが言った言葉を頭の中で繰り返して、リヴィアは諦めたように頷いた。
「そう、だね。帰ろう。邪魔になる前に」
結局、何もできなかった。自分は邪魔になっただけ。
自責の念がリヴィアの胸の奥にどんよりと居座り、それが晴れることはない。
集まってきた騎士が装備を整え、馬を連れてくる。リヴィアはただそれを見ていた。
重たい何かを抱えたまま、リヴィアは一度だけ遠くにいるウォルターの方を振り返った。彼は他の騎士たちと話し合い、あれこれと指示を出しているようだ。
同じように騎士に囲まれているのに、ただ守られているだけのリヴィアとは大違い。
ウォルターはこれから館に戻るリヴィアの方を見向きもしない。彼にはやるべきことがあるのだ。この状況でも、できることがあるのだ。
何もできない、何もやれないリヴィアを気にかける余裕など、彼にはありもしない。
そのことにリヴィアの胸がぎゅっと痛む。
「リヴィア様。帰りましょう」
エレナが馬を連れてきて、声をかけてきた。それに返事をして、リヴィアもまたウォルターに背を向ける。
何もできなかったという自責の念は、まだリヴィアの胸の内で燻っている。
♦♢♦♢♦♢
「……ねえ、異常って、やっぱり魔物?」
馬に乗り、行きのときよりもさらに少ない人数の騎士に守られながら、リヴィアは館に戻る。森の中はまだ濃い瘴気のせいで暗く、振り返りざまに見たエレナの顔さえもおぼつかない。
「そうですねぇ……。でも、隊長たちなら大丈夫ですよ。これまで何匹も魔物を倒してきてるんですから」
エレナの声は明るいが、リヴィアと目が合わない。ただ単に馬に乗っていることが原因かもしれないが、どこかはぐらかされているようにリヴィアは感じた。
魔物。どうせならば出ない方がいい、と誰もが思っている。どうすれば魔物が出なくなるのか、どうすれば魔物の数が減るのか、どうすれば魔物が弱くなるのか、それを知らない彼らではない。
ウォルターは隊を二つに分けた。片方は魔物を倒すため、もう片方は巫女姫を守るため。
もし、リヴィアがいなければ、ここにいる騎士の力は魔物を倒すために使えたのではないか。
いくら戦闘に疎いリヴィアでも、そのくらいはわかる。
人数が多ければ多いほど、きっと生存確率は上がる。ケガをする可能性も低くなる。
それを、リヴィアを守るために、ウォルターは隊を割き、専属魔導士であるヒューロットまでつけた。
役立たずを守るために。
ズキン、と胸の奥が痛くなる。息がうまく吸えなくなる。
今、リヴィアが考えたことを、ウォルターが思いつかないはずがない。
今、ウォルターから見て、リヴィアはどんな存在として映っているのか。それを考えたくはない。
考えるだけで胸が苦しくなる。胸の奥に凝った澱のようなものが冷たさを増す。
次にウォルターの目がリヴィアを映すとき、その目はどんなものになっているだろう。それを考えるのが恐ろしい。
そうして果てしなく落ち込むリヴィアの耳に、何か動物の声のようなものが届いた。
「え?」
そう声を零したのはリヴィアではなく、エレナだった。リヴィアもまた顔を上げ周囲を探るが、濃い瘴気のせいでよく見えない。
ヒューロットも他の騎士も異変に気付いたようにあたりを伺い、そして、全員静かに馬の速度を上げた。
「リヴィア様、しっかりつかまっててください!」
グン、と速度が上がる。
同じ言葉を来た時にも聞いた。その時と明らかに違うのは、何が近づいてきているのかわからないことと、騎士の人数が明らかに少ないこと。
「隊長に連絡!」
「もう飛ばしてる!」
エレナの言葉に、他の騎士が答える。その会話の隙間に、先ほどよりも近くで、再び動物の声のようなものが聞こえる。
狼の遠吠えなどではない。もっと、地の奥底を這うような低い声。それと同時に、ズシン、と何か地響きのような音も聞こえる。
「グルルゥララァァーー!」
近づいてくる、聞いたことがない、何の動物かもわからない鳴き声に、リヴィアはさっと顔を青ざめる。
何かが来ている。一体何が。そんなの決まっている。言っていたではないか、異常が起きた、と。異常、――魔物だと。
「右だ!」
騎士の誰かが叫んだ。
エレナが馬の進路を左に大きく曲げ、リヴィアは振り落とされないように必死にしがみつく。
「キャッ!」
馬が嘶き、もがく。この異常な場所から逃げ出そうと暴れ始める。
ドン、と地響きがした。暗い。瘴気の濃さではない、完全に光を遮る暗い影。それがリヴィアたちを見下ろしていた。
背丈と幅は人の身長の倍近く。姿は猪に似ていて、牙は長く、口の隙間から見える舌は幾重にも分かれている。その身に纏うのは、闇のように圧縮された濃い瘴気と、極限まで煮詰めたような腐乱臭。まるで黒い炎のように瘴気は揺らめき、その奥で生気のない白い目が強く光っている。
魔物。動物の死体に瘴気が憑りついたもの。明らかに生きてはいないのに、何故これほどまでに存在感があるのだろう。
その魔物は狼の群れとは比べ物にならないほどに異様な空気を纏っていた。
「リヴィア様、ヒューロットの傍に」
リヴィアを馬から下したエレナが、いつにない真剣な表情と声音でリヴィアに言った。他の騎士も馬から降り、剣を抜いて、魔物と対峙している。
魔物一匹に対し、騎士が四人、魔導士が一人。これで大丈夫なのかどうか、リヴィアにはさっぱりわからない。
「とにかく、隊長が来るまでの時間稼ぎだね」
後ろに下がらされたリヴィアに、ヒューロットが言う。
リヴィアには戦闘能力がない。だから、魔導士のヒューロットと共に、騎士に守られている。
乗っていた馬は散り散りに。魔物との遭遇で興奮した馬だ。それに乗って戦うことはできない。賢いから自力で館に戻れるはずだとヒューロットは言った。
エレナと他の騎士がじりじりと魔物を対峙し、タイミングを合わせて一斉に魔物に飛びかかった。
ズ、ドンッ、と魔物の足が鉄槌のように振り下ろされる。騎士たちはそれを躱し、魔物の足に剣を向ける。
エレナが剣を振るい、ザリ、と魔物の肌を切りつけた。魔物はとうに死んでいるものに憑りつく。ゆえに血が出ることもなければ、ケガが回復することもない。
その代わりに彼らの体から出るのが、濃い瘴気だ。
ぶわ、と切りつけた箇所から噴き出した瘴気を、エレナは軽い身のこなしで躱す。他の騎士も同様に次々と魔物を切りつけ、瘴気を魔物の体から溢れださせていく。
「……この瘴気は、どうなるの?」
体から徐々に瘴気が失われていくからか、魔物が大声で叫ぶ。先ほどよりも視界が暗くなっていくこの場を見ながら、リヴィアはヒューロットに尋ねた。
「どうにもならないよ。ただ、ここが瘴気で汚染されていくだけ。それでも、町にこの魔物が現れるよりはマシだから」
淡々と答えながら、ヒューロットは魔物に向かって手をかざす。
「【火球】」
ボンッ、と放たれた火球が魔物を焼き、辺りが少しだけ明るくなる。だが、自分の身が炎で焼けているにもかかわらず、魔物はちょこまかと自分の身にまとわりつく騎士を踏みつぶそうと必死だ。
魔物の足に注意しつつ、騎士は次々と魔物に切りかかる。けれども、その順調そうな攻撃に反して、全員の顔色がだんだんと悪くなっているようにリヴィアには見えた。
「……ねえ、なんか、みんな苦しそうだよ」
「そりゃそうだよ。直撃を躱してるとはいえ、瘴気が吹き出してるところのすぐ近くにいるんだもん。空気が悪いんだし、しんどくなって当たり前。人数が少ないから交代もできないしね」
ヒューロットは険しい表情をしていたが、でも、と言葉を続けた。
「隊長が来てくれる。みんなが本当にヤバくなる前にあの人は絶対オレたちに追いついてくれる。だから、今は頑張るだけだね」
そう言って、ヒューロットはもう一度火球を魔物に向かって放った。
その時だった。突然、ウワアアァァ! という叫び声が響いたのは。
ばっとその場にいた全員の意識がその叫び声の方に向く。
パッと目に入ったのは血の赤。魔物と対峙していた騎士が一人、狼に襲われていた。
咄嗟に近くにいた騎士が彼のフォローに入る。襲ってきた狼を切りつけ、ケガをした騎士を思いっきりヒューロットの下へ放り投げた。
ヒューロットは倒れこみながらもその騎士を受け止め、すぐさま周りの状況を確認する。魔物の声に紛れていくつかの狼の唸り声が聞こえる。そのことにようやくエレナたちも他の騎士も気づき始めた。
「あ、あの、わたし、回復できる」
「うん。頼んだ。ちょっと今のオレ、アンタを気にかけてる余裕ないかもだから」
騎士とヒューロットたちの間に緊張感が走る。
魔物は一匹だけだった。体は大きく、騎士を踏みつけようとしてくる足に気を付けてさえいれば大した攻撃力はない。けれども、今度は狼がその隙間を縫って襲ってくる。
瘴気により体力を消耗し、戦える人が一人減ったこの状況でどこまでやれるか。
瘴気に触れたときとはまた違うチリチリとした空気を感じながら、リヴィアは負傷した騎士を預かった。狼に噛まれ、血に塗れた黒い制服。痛みを訴える彼の呼吸は浅い。
この場の空気に当てられたのか、リヴィアの心臓はドクドクと脈打つ。初めて触れる死に近しい怪我人。瘴気を多く取り込んだ魔物。その魔物と対峙する騎士と魔導士。生死をかけた緊張感。
そのどれもがリヴィアが触れたことのないもの。
は、と軽く息を吐いてから、リヴィアは怪我人の治療に取り掛かった。戦闘に関して、リヴィアができることは何もない。こうして誰かを治療することしかできないのだ。
痛みを訴える彼の手を握り、そっと魔力を込める。回復魔法を使うのは久しぶりだが、無事に彼の体にリヴィアの魔力が回り、浅かった彼の呼吸が穏やかになっていく。治療はすぐに終わったが、騎士は意識を失っているようで、すぐには目を覚まさない。
もう自分にできることはない、とリヴィアは顔を上げた。
「【氷槍】!」
バキバキと頭上で凍り付き、現れた氷の槍がヒューロットの合図で飛んでいく。ヒューロットが狙いを定めた先にいた狼は、それを軽々と避け、傍にいた騎士に攻撃を仕掛ける。と、その頭上が突然暗くなったのを騎士も狼も察知し、互いに大きく距離を取る。次の瞬間、ズドン、と圧倒的な質量を伴った魔物の足がその場を踏みつぶした。
「クッソ、混戦しすぎ! 本気で当たんない! 狼は小さくて素早いし、魔物は大したダメージ喰らってないし!」
ヒューロットが悪態をつく。それと同じくらい、前に出て戦っている騎士たちも苦しそうだ。
「……キッツイ!」
エレナもそう言いながら、剣に噛みついた狼の体をブン、と振り払い、横なぎに来た魔物の蹴りを身を低くして躱す。その息は荒く、今にも集中力が切れそうだ。
それをリヴィアは眺めていることしかできない。どれだけ体力が有り余っていても、どれだけ傷一つない体だとしても、戦うことはできないのだ。
浄化ができれば、ここの瘴気を浄化できていれば、きっとこの戦いはなかった。少なくとももっと楽になった。
けれど、リヴィアは浄化ができない。役立たずだから。だから今も、手を動かすこともできないのだ。
「リヴィア! 後ろ!」
ハッと何かに気づいたように、ヒューロットが声を上げた。それに反応してリヴィアが後ろを向けば、自分に向かって飛び掛かってくる狼の姿が見えた。
視界に入ったのは大きく開いた狼の顎。鋭く並んだ牙と血色の悪い喉の奥まではっきりと見える。
リヴィアが恐怖で目をつぶり、とっさに何かを掴んで握りしめる。
狼がリヴィアに噛みつこうとした瞬間、そのほんの少しの隙間に魔法障壁が生み出された。
防御魔法の魔道具。リヴィアがたまたま握りしめたため発動したのだろう。そういえば、そんなものを持たされていた、とうっすらと目を開けたリヴィアは呆然と思い出した。
障壁によって、バチン、と狼の噛みつきは阻まれる。が、障壁が地面や壁に接していなかったせいか、狼の体当たりで動いた障壁ごとリヴィアの体は反対側へ弾き飛ばされた。
グルグルと回った視界を振り払い、リヴィアが慌てて体を起こせば、そこは魔物と狼との戦場のど真ん中。そこに戦闘能力が何もない少女が一人迷い込めば、何が起きるかなんて予想するまでもない。
また再び、丸腰のリヴィアを狙って狼が顎を広げ突進してくる。
「リヴィア様!」
エレナの声が響いた。
ドン、と何かがリヴィアの体にぶつかる。その衝撃とともにリヴィアは再び倒れこむ。
背中の冷たい雪とは対照的な、温かくズシリとした重たい体がリヴィアの上に乗っている。いや、温かいだけではない。熱くて、赤い。
ぎゅっとリヴィアの体を抱きしめるエレナの体。その肩に噛みついた狼の吐息。
「エ、レナ……」
震えるリヴィアの声に、彼女は答えなかった。




