表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

朝廷の波乱

皇太后の懿旨で正式に婚約した青蘭は、婚約発表の宴を開き、多くの一族を招待した。しかし、長恭の婚約に納得しない斛律蓉児が、宴の会場に乗り込んでくる。長恭が政略結婚でいやいやながら王青蘭を娶らされるという噂を払拭するために、自ら女子たちが集まる宴の会場で挨拶をするが、かえって長恭に憧れる女子を増やすだけだった。

 ★  納采の宴 ★

 

 結納が行われれば、ほどなく納采の宴が行われる。

 婚姻は家と家との契約である。納采の宴は、両家の親戚縁者を招待して大々的に酒宴を催すのが本来の姿である。しかし、皇太后以外の後ろ盾を持たない高長恭は、近しい者を招待するだけのごく内輪の宴になった。

 高家関係では、皇太后に近い皇族が数人招待されただけで、多くは鄭家関係の鄭桂瑛の兄弟や叔父たち、叔母に当たる鄭大車が招待された。

 宴は皇太后所有の別院の正殿を、東西に区切って男女に分かれて行われていた。


 正殿の西側には、すでに鄭家の招待者が席について、歓談していた。鄭伯礼は、甥の鄭昭信に酒を注いだ。 

「鄭桂瑛もさすが大きな商いをしておる。娘を皇族の正妻にするとはな・・・大したものだ」

 桂瑛の伯父である鄭伯礼は、感心したというように首を振りながら酒杯を口にした。鄭伯礼の姉は、鄭大車である。

「桂瑛従姉上は、商売で皇太后府にだいぶ食い込んでいたから、・・・その関係では?」

 従弟の鄭昭信は、大梁からこたびの宴のために、大梁から鄴都に来たのである。

「お前は知らぬだろうが、婿の高長恭は鄴で一番の婿がねと言われる美丈夫だ。多くの令嬢が狙っていた。まさか、娘の青蘭を正妻にするとは、大した手腕だ」

 昭信は子供のころの青蘭を見たことがあった。

「どちらかと言えば、元気だけが取り柄の子供だったがな・・・」

「突然、皇太后の懿旨が出て、決まったらしい。いわゆる賜婚だ」

 賜婚は、ほとんどが政略結婚に他ならない。口が堅い桂瑛は何も言わないが、世間には様々な噂が飛び交っている。

「青蘭の父親は王琳将軍だ。王琳は江南で根強い支持がある。王琳を取り込むための陛下の策だとの噂だ」

「桂瑛従姉上は、あの男とまだ切れていないのか?」

「さあ、何にも言えないな。・・・鄴都の鄭賈は稼ぎ頭だ。商売を任せている以上なんとも言えぬ」

 鄭伯礼は、顎の髭をしごくと目を細めた。

 もともと、鄭家は学者の家柄であったが、鮮卑族の王朝では学問で身を立てていくことは難しい。鄭仲礼の商賈を引き継いだ桂瑛の働きがあってこそ、一族を維持できるのだ。

「とにかく、目出度いことだな」

 鄭昭信は、酒杯を満たすと一気に杯をあけた。


「師兄、納采の宴とは目出度いです」 

「君たちが来てくれて、うれしいよ」

 高長恭が顔学堂門下の弟子たちと正堂の西の間に入って行くと、招待客の視線が長恭に集まる。長恭の美貌は有名であるが、長恭の容貌を実際に目にしている官吏はすくない。ましてや鄭家の招待客は、ほとんどが初対面である。香色の地味な色目の装束を身につけているが、長恭の美貌は輝くばかりで貴公子然としている。

 長恭が黙礼をして上座近くに座ると、宴を取り仕切る宣訓宮の内官が現れた。父母のいない長恭の婚姻は、皇太后府が全てを取り仕切っている。内官の周煙が正面に立つと、宦官特有の甲高い声で皇太后の言葉を伝えた。

「皇太后のお言葉を伝える。・・・王家の息女王青蘭は、琴棋書画に通じ貞淑で温順、文武に秀でた高長恭の好逑である。こたび両人は縁があって婚姻を下賜した。共に白髪となるまで添い遂げ、子孫の繁栄に尽力するように」

 内官の合図で宮女たちが一斉に酒瓶を運んでくると、長恭は立ち上がった。

「こたび、懿旨を賜り王青蘭殿と婚約の運びとなった。妻を娶り一家を構えなければならないとおもうと、身の引き締まる思いだ。参集の皆様に感謝の杯をささげる」

 出席の人々を見回した高長恭は、杯を掲げると一気に飲み干した。

「鄭家は、鄴都でも指折りの豪商。高侍郎は、前途洋々ですな」

 太子中舎人である源文宗が、隣の羊儒卿に話しかけた。朝廷での出世は財物しだいと言われている。陛下と不仲な皇太后をはばかって遅れていた出世も、妻の実家の財を持ってすれば、思いのままであろう。

「ああ、まったくだ。これで、鄴都の女子たちも静かになるだろう」

 源文宗は、声をひそめた。

「さあどうかな。許嫁の王殿は、後ろ盾も持たない商賈の娘だ、嫉妬の的にならなければいいがな。・・・女子の嫉妬は恐ろしいゆえ」

 文宗は、離れたところに座る長恭を見ると唇に酒をふくんだ。


 しきりに隔てられた東の間では、女子たちの宴が行われていた。

 青蘭は東の回廊に立って、御花苑に流れ込んでいる支漳溝を見遣った。

「青蘭、婚約おめでとう」

 回廊を曲がったところで、顔紫雲が手を振った。青蘭は江南の生活が長く、顔見知りの女子と言えば、最近北周から父の元に来た顔之推の娘である顔紫雲ぐらいであった。昨年の冬に、長安から鄴とに父親を頼って移ってきた。顔氏学堂で言葉を交わす内に、親しくなったのだ。

「紫雲様、今日は来てくれて、・・・嬉しいわ。実を言うと・・・宴は嫌いなの」

 珊瑚色の艶やかな長裙に鶸色の外衣を身につけながら、東の間回廊で青蘭は心細げにうつむいた。皇族はもちろん鄭家の中にも友人は少ない。

「これから、開国公夫人になる方が、そんな弱気でどうするの?」

 顔紫雲は、顔之推の長女として顔思魯などの兄弟や弟子たちに鍛えられて、勝ち気で磊落なところが兄弟の中で一番父親に似ていると言われている。

「長恭様は、多くの女子の中から青蘭様を気に入った。青蘭は、そう、容貌はそこそこだが、自信を持ってよいのだ。いえ、自信を持たねば、長恭様の面目を潰すことになる。それに、幸い皇太后の懿旨がある。怖いものなどない」

 紫雲は強い眼差しでそう言うと、青蘭の手を力強く握った。

「そうね、師兄の面目は潰せない。自信を持って行くわ」 

 二人は手をつなぐと、東の間に入っていった。


 上座に座る鄭大車に、母親の鄭桂瑛が酒をついている。

「鄭桂瑛、高長恭と縁談があるなんて全然聞いていなかったわ。言ってくれれば、あんなに苦労を・・・」

「伯母上、私たちも・・・突然のことで、私もびっくりしているのです。・・・皇太后の懿旨が出ては、私たちに何の手立てがあるとお思いですの?・・・ただ仰せの通り従うだけです。私も娘も斉の臣下ですから」

 桂瑛は大車の怒りを静めようと、懿旨を強調した。後ろの席にいた鄭昭信の夫人である范淑苑が、酒杯を差し出した。

「伯母上、陛下は梁との同盟の絆を強めるために、皇太后に懿旨を出させたのではないかしら?」

「まさか、陛下と皇太后は、いわば犬猿の仲よ」

 鄭大車が、訳知り顔で頭を振った。

「桂瑛従姉上、おめでとうございます。これで鄭賈にも箔がつきましたね。皇族との取引も大手を振ってできますわ」

 大きな財産を有しながら、商人は一段低い身分と蔑まれてきた。

「范夫人、まさか鄭家が娘の婚姻を当てにしていると思っていないでしょうね」

 鄭桂瑛は、范淑苑を目の端でにらんだ。


「お嬢様、残念ながらお通しできません。・・・この招待状は、斛律須達さまので・・・」

「斛律家に来た招待状なのよ問題ある?」

 少女と内官の言い争いの声が、外の回廊で響いた。長恭は中軍での今後を考えて儀礼的に納采の宴に招いたのだ。当然欠席の返事が来た。その招待状を使って、妹の斛律蓉児が入り込んだのだ。

 鄭桂瑛は東の間の扉の外に立ち塞がると、蓉児を睨み付けた。

「私は斛律蓉児よ。長恭兄上の婚約の祝に来たの」

 蓉児は手に持った招待状を団扇のように振った。

「お嬢様、何かの間違いではないでしょうか。須達様からは欠席の連絡をいただいております。招待者の名簿には、お嬢様はございません」

 斛律蓉児は、長恭に執着している令嬢の一人だ。宴に同席させれば、諍いはまぬがれない。

「大将軍の娘を、追い返すというの?」

 蓉児は中の招待者に聞こえるように、わざと大声を挙げた。

 大事にならないうちに、追い返したい。桂瑛が無礼を承知で家人に目配せをしていると、背後に青蘭が立った。

「お前が、王青蘭?・・・ふん、大したことないわ」

 蓉児は、値踏みするように前に出てきた青蘭をじろじろと眺めた。

「皇太后の懿旨のせいで、長恭兄上は、お前を娶ることになったのよ。いい気にならないで」

 当事者が口を開けば、大事になってしまう。青蘭は傍若無人な蓉児を睨んだ。これこそ、修羅場に違いない。

 そのとき、蓉児の後ろから長恭の声がした。

「いい気になっているのは、お前だ。蓉児」

 蓉児が、声のする方に振り向いた。

「御祖母様は、そなたを招待していない。帰ってもらおう」

 長恭は蓉児と桂瑛の間に割って入った。

「そんな、・・・長恭兄上、気に染まない婚儀は、陛下に言って・・・」

「だれが、気に染まないと言っている?・・・この婚姻は私が決めたのだ。勝手なことを言うな」

「長恭兄上、皇太后の命だからと言って・・・」

 長恭は冷たい言葉で、しがみつこうとする蓉児の手を払った。  

「斛律殿は、お帰りだ。だれか、お見送りしろ」

 長恭は内官に命じると、青蘭の腕を取って歩き出した。別院は思いの外広い。回廊の角をいくつか曲がると、小さな房に入った。

 

 長恭は手を取ると、青蘭を見つめた。

「青蘭、すまない。・・・儀礼的にも斛律将軍府に招待状を出したのがまちがいだった。蓉児があんなことをするなんて、・・・君を傷つけてしまった」

 青蘭にとって、納采の宴は婚礼に次ぐ晴れがましい席だ。そこに、他の女子が乗り込んできたのだ。どれほど面目がつぶれたかしれない。

「母に言われたの、師兄と結婚すれば皇族としての付き合いはまぬがれないと・・・」

 なぜあれほどの、辱めをうけなければならないのだろう。青蘭は心細げにうつむいた。

「世の中の非難を恐れて、何事も公にしなかった。そのために、さまざまな誤解を生んで噂を野放しにしてきた。私の責任だ。すまない」 

 皇太后の懿旨を使ったために、政略のために婚約したなどといらぬ噂が青蘭を傷つけている。何としても、払拭しなければ・・・。

「私に東の間で挨拶をさせてくれ」

 長恭は青蘭を引き寄せると、髪を静かになでた。女子の会場で花婿が挨拶するなど聞いたことがない。しかし、一度ははっきりさせておかなければ・・・。

 長恭が青蘭の手をひいて東の間の扉を開けた。

「今日は、納采の宴に来ていただき幸甚のいたりです。青蘭は琴棋書画に通じ温和で聡明だ。相応しい青蘭を妻にできたことは、我が人生で一番の幸せ。ぜひ、温かく見守っていただきたい」

 噂に聞く長恭の麗容に、招待された女子の視線が釘付けとなった。

「粗酒粗肴ですが、ゆっくりと味わっていただきたい」

 高長恭は笑顔になると、西の間に引き上げた。  


★ 中元節の青蘭 ★


 七月十五日は、中元節である。中元節の時は、普通は夜の外出が許されない鄴都でも夜間の灯籠見物がゆるされるのだ。

 長恭と青蘭は鄭家の侍女や皇太后府の内官を引き連れて灯籠見物に出掛けた。以前は屋敷を抜け出すようにして密かに灯籠見物をしていたが、結納を交わし正式に婚約した今では供を連れていろいろな飾りを見て回ることができる。

「お嬢様、あの魚の形の灯籠は、細工が見事でございます」

 晴児が、赤い魚をかたどった大きな灯籠を指さした。

「若様、喬香楼の灯籠飾りは、今年も豪華ですね」

 内官の吉良が、都で一番の妓楼である喬香楼の灯籠飾りを見上げる。中元節の灯籠飾りは、盂蘭盆会とも重なって一層豪華である。

 長恭と青蘭は、花灯を安康橋のたもとから流して、長恭の母の冥福を祈った。

 

長恭と青蘭は、供を帰すと中陽門街に面した茶楼である麗香房に登った。二階の客房に入ると、窓から爽やかな風が吹き込んでくる。

 客房に入ると、長恭は茶釜から茶をすくって茶杯に注いだ。

「清明茶だ。・・・いい香りだ、落ち着く」

 清明節ごろに摘んだ茶葉で作った清明茶は、江南の記憶を思い出させる。

「昨年の中元節では、君も一緒に花灯を流して、母上の供養をしてくれたね」

 あの時は、迫り来る別れの予感に震えていた。しかし今夜は、正式な許嫁として長恭の隣に座っていられる。

「ええ、毎年灯籠を流そうと約束したわ。・・・でも本当に今年もできるなんて・・・」

「ああ、これから、春の梅を見て、夏の蛍を見て、秋の菊を観て、冬の雪も二人で見られるさ」

 この一年、出仕から青蘭の掖庭入り、出陣、そして求婚と、何と目まぐるしいことだったろう。そして、やっと結納までこぎ着けた。その間に、青蘭には多くの苦難を強いてしまった。

 長恭は茶杯を青蘭の前に滑らせた。

「そう言えば、この前、正式に顔師父に崔叔正を紹介してもらって学堂で講義を受けている」

「ああ、尚書左僕射の崔殿だろう?・・・学生に講義をするとは珍しい。・・・斉では珍しい清廉な官吏なのだ」

崔一族は、北魏の時代から朝廷に仕えてきた漢人官吏の名門である。崔叔正は謹厳な漢人で、東魏の頃から忠言を呈しては罪に陥れられることが何度かあった。しかし左遷になった地でも医術の腕を磨き、中央に戻ったときには、権門に治療を請われるほどであった。そして、貧しい民の治療も厭わないと耳にしている。

青蘭は、茶杯を手に取ると口に持って行った。先日行った尚書府は、権門の家とは思えないほど簡素で、嫡子の崔鏡玄の装束も質素であった。崔師父は、俸禄のほとんどを書物の購入と医館につぎ込んでいるらしい。  

「この斉に、そんな清廉な官吏がいるとは、思いもしなかった。・・・一度、会ってみたい」

 長恭は茶杯を飲み干すと、青蘭の手を握った。

「そろそろ、月が東の空に登るころだ。灯籠見物にくりだそう」


  ★ 中山王の悲劇 ★


 東魏の孝静帝は、紀元五五十年北斉が建てられると、中山王に落された。それにともなって高澄の姉である皇后も中山王妃そして太原長公主と呼ばれるようになった。

しかし、それでも安心できない今上帝高洋は、東魏の復活を恐れ、前皇帝である中山王の毒殺を図った。戚里に住まう中山王の食事に毒が入れられたのである。

 幸い王妃の機転により難を逃れたが、中山王妃は、常に中山王の側を離れず毎日の食事に気を遣うようになった。


 朝晩は涼風が吹き、丹桂の黄丹色の花が甘ったるい芳香をまき散らす秋になった。

 八月十五日は、中秋節である。中秋節は、十五夜の月を観賞するだけでなく、秋の収穫を祝い家族の絆を強める場でもある。中秋節の宴では、家族が集まり月の形をした焼餅や果物を食して中秋を祝うのが常であった。

 中秋節になって皇族でも一族の親睦を図る宴が催されることになった。中山王の暗殺を心配する王妃は、身体の不調を理由に参加を拒んだ。しかし、皇后の李姐娥よりの招待であり、正式の懿旨が出された。懿旨を拒めば謀反と見なされて中山王家の断絶も考えられる。王妃は、仕方なく兄弟達が集う宴に出掛けることにしたのである。

 孝静帝は皇后にとって望んだ婚姻の相手ではなかった。しかし、二人の皇子と一人の公主が生まれ、家族になると愛着も生まれる。そして、父高歓や兄高澄に圧迫されながらも、魏の王朝を守ろうとする夫の矜持と人柄にふれるにしたがって、共に戦うようになったのである。

「平陽公主が、宝国寺に参拝に行っている。夕方には迎えに行っておくれ」

 中山王妃は娘の迎えを宦官に託すと、慌ただしく迎えの馬車に乗り込んだ。


 その夜の中秋節の宴は、婁氏所生の兄弟が皆そろい、和やかな雰囲気の中で進んだ。酒が進むと乱れて来ると言われる高洋が中座したので、兄弟は一気に緊張が解けて、和やかな歓談が繰り広げられた。中山王妃は、皇后に勧められるまま後宮で就寝した。


 早朝、中山王妃は侍女の悲痛な声で起こされた。

「王妃、中山王と皇子が亡くなられました。公主は行方不明でございます」

 昨夜、中山王と皇子二人が中山王府で毒殺されたというのである。

「あっ」

 中山王妃は、言葉を失った。中秋節の家族の宴、李皇后からのたびかさなる招待、機嫌のよい皇帝の中座、自分の早い酩酊、昨夜の何気ない違和感が一つに繋がった。

『洋は、私を後宮におびき出し、その間に中山王と子供達を毒殺したのね』

 ほどなく、中山王妃のいた信徳殿は近衛軍によって包囲され、中山王府には帰れなくなった。


 中山王毒殺の噂は、箝口令が敷かれていたにも拘わらず、瞬く間に広まった。

 一番衝撃を受けたのは、婁皇太后であった。毒殺の事実を知ると、婁氏は悲嘆のあまり起き上がることができなくなった。

「何故、中山王を殺さねばならぬのだ。・・・斉の建国時の約束を忘れてか。・・・何の力も持たぬのに」

 婁氏は、力なく頭を枕に乗せて言った。

「あまり嘆かれますと、お体に触ります」

 秀児は、薬湯の匙を差し出しながら慰めた。


 病の知らせを受けて今上帝高洋が見舞いに訪れたが、面会は叶わなかった。王琳への援軍で一度は和解した母子であったが、中山王の毒殺の件で母子関係の不和は決定的なものとなった。

 中山王の死によって、中山王妃の称号を失った太原長公主は、宮中の太原長公主府に軟禁され監視を受けるようになった。自死の恐れがあったからである。

 そして、宝国寺に参拝していた平陽公主の行方は、洋として知れなかった。


  ★ 高演の見舞 ★


 数日後、常山王高演が、母皇太后の見舞いに訪れた。

 高演は、婁昭君所生の三男である。李同軌を師として学んできた温和で博識な男子であった。

 高家の例に漏れず美丈夫であり、兄弟の中では高歓の面影を一番引き継いでいるかも知れない。

 婁氏は長男高澄の死後、兄弟の中では三男の高演を一番信頼し寵愛してきた。高演は、兄の高洋が斉を建てると、常山王に封ぜられ、幷州尚書令、司空、録尚書事を歴任し、この年には、大司馬となっていた。


 高洋が酒に溺れ酷薄の度を増すに従って、婁氏はほかの息子たちとの交流を控えて疎遠を装った。高洋の嫉妬心を恐れたのである。しかし、婁氏が心痛のあまり倒れるに至り、高演は見舞いに訪れた。

「母上、お体の具合はいかがですか」

 高演が榻牀の帳の外から声を掛けた。

「演か・・・」

 帳の中から、白い手が伸びて高演の掌を掴んだ。

「そなたも出ていたのか中秋節の宴・・・」

「はっ?」  

 高演は、中山王毒殺の顛末が正確に皇太后に伝わっていることを悟った。

「そなたは、中山王が殺されたとき、暢気に酒を飲んでいたのか?」

 婁氏の声は、怒りに震えていた。そして高演を掴んだ手を放した。

「私は、何も知らず・・・申し訳ありません」 

 高演は、病床の母の顔を見ることができなかった。婁氏は、高澄が暗殺され高洋が斉を建国して以来、ひたすら一族の平安を願ってきた。

 娘二人の婚姻を犠牲にして建てた斉国である。その後、鮮卑族の反対を押し切って李姐娥が立后されると、漢族と鮮卑族の対立を避けるため、後宮の外に隠棲する道を選んだのである。しかし、前王朝の廃帝である中山王と皇子が毒殺されるに到り、衝突を避けようと己の選んだ道を後悔していた。

 秀児が帳を開けて、婁氏を助け起こした。婁氏は哀傷に満ちた顔で高演を見遣った。

「演よ、そなたに頼みたい。・・・一族の安全を守って欲しい」

 強い眼差しで息子を見詰めると、力なく目を閉じた。帳の奥に見える母の顔は憔悴しきっている。


 斉の国は、父高歓と母婁昭君で基礎を造ってきたと言っていい。母皇太后の斉への信頼が揺らいでいるのだ。高演は、『一族を守って欲しい』との母の言葉を反芻した。中山王家の毒殺のような事態を防いで欲しいと言うことであろうか。それとも、兄の高洋は、皇帝に相応しくないと言うことであろうか。

「母上、斉と一族を守りまする」

 高演は、やっとの事で起き上がっている婁氏に力強く誓った。

『母上は、謀反を起こせと?・・・いやそんなはずがない』

 高演は、母婁皇太后の言葉に首を捻りながら常山王府に帰った。


   ★ 高演の諫言 ★


 侍中府の前庭には、菊の花鉢が置かれ重陽節の近いことを知らせている。

 長恭は、開国県公に封ぜられたと言っても、二百戸の加増があっただけで、散騎侍郎としての職務は何ら変わるものではなかった。

 長恭は、初秋の爽やかさの中、侍中府の書房に入った。納采の宴も済んだが、散騎侍郎としての仕事が疎かになれば、婚約で浮ついていると世の非難をまぬがれない。長恭は、廬思道に挨拶をして筆墨を取りだした。

 廬思道は几案に座り一心に上奏文の弁別に当たっている。長恭が、上奏を手に取ろうとすると思道が近付いてきた。

「長恭、聞いたか?」 

「はっ?」

 長恭は、思道の言っている意味が分からず、晴朗な瞳を見開いた。戸惑っていると、思道が意味ありげに身振りで書庫房に誘う。


 朝の書庫房は、まだ無人である。廬思道は、書架の書冊を探す素振りをしながら、小声で言った。

「昨日、常山王が、陛下に刺された」

 常山王高演と今上帝高洋は共に、長恭の叔父である。以前も陛下に諫言を呈して、怪我を負ったことがあった。皇太后所生の王の中では、常山王は清澄な風貌と風雅さを合わせ持った大人である。

「常山王が、刺された?・・・なぜ、温厚な常山王が・・・常山王は、ご無事なのか?・・・」

「ああ、今のところはな。・・・剣で肩口を刺され、瀕死の重傷とのことだ。陛下の乱行を諌言したためらしい」

「陛下の乱行?」

「ああ、先日中山王が殺された・・・いや死を賜ったのだ。それを、常山王が諫めたそうだ。陛下は、それを怒って・・・剣で胸を刺したそうだ」

 中山王が殺されて、諫めた常山王が刺された?前王朝の君主であった中山王を殺したと言うことも衝撃だったが、諫言をした同母の弟を刺したことは、言わば家族内の殺生である。

 長恭は、言葉もなかった。

『自分の子供同士が血を流したと知ったら、御祖母様はどれほど嘆かれるか・・・』

 長恭は、皇太后の心中を思うと、慚愧の念に耐えなかった。


★ 皇太后の心痛 ★


 官服姿の長恭が戻ってきたのは、申の刻であった。門衛から青蘭の来訪を聞いた長恭は、清輝閣の扉を荒々しく開けた。

 長恭は真っ直ぐ居房に進むと、榻から立ち上がった青蘭を抱きしめた。

「青蘭、会いたかった」

 青蘭は長恭の胸から顔を上げた。

「師兄、何があったの?」

「中秋節に中山王一家が毒殺されたのだ」

「誰が毒殺など・・・」

 青蘭が問うと、分かっているだろうと長恭の玲瓏な瞳が答える。

「ところが、先日陛下に諌言した常山王が、陛下に刺されたのだ」

 常山王と言えば、同母の弟である。諌言したからといって実の弟を刺すだろうか。

「まさか・・・」

「今朝、廬思道に聞いた。・・・本当だ」

 長恭は、榻に座ると、額に手をやった。


 高洋は、これまでかつて隆盛を誇った魏の三台である銅雀台、金虎台と氷井台を改修した。さらに宮殿と游豫園を造営するなど、多くの血税を使った建築を行ってきた。そして、干魃つづきの民の困窮を顧みることなく、皇帝は贅沢の限りを尽くしながら、残虐な行為を行っていたのである。

『何という事だ。斉は、どんな国なのだ。金虎台での惨殺、中山王の毒殺、常山王の刺傷など、全てあってはならぬことだ』   

 自分が皇族であることが恥ずかしい、そして、そんな朝廷で何もできない自分が情けない。自分が命懸けで守った斉はそんな国なのだ。

「許されぬことだ・・・」

 長恭は両頬に手を当てた。

 青蘭は、横に座ると長恭の背中に腕を回した。

「師兄、常山王は叔父上よね」

 長恭は、溜息をつくと腕を伸ばして青蘭を抱き寄せた。

「常山王は、叔父たちの中でも立派な方だ。しかし、そのような忠臣が瀕死の重傷を負わされるとは、・・・」

「斉の宮中も、平穏ではないのね」

「朝廷に正義はないのだ。こんな政道は間違っていると思っても、正す力がない。私は正しいことをする力が欲しい」

 長恭は、青蘭の顔を覗き込むと頬を近づけた。


  ★ 蓉児の嫉妬 ★


 蒼空が晴れ渡った九月の初め、延宗は、武芸の稽古のために斛律衛将軍府を訪れていた。

安徳王延宗もすでに十五歳である。

 先般の出陣では一念発起して、今上帝に初陣を願ったが、武芸の力量が不十分であるとして相手にもされていなかったのだ。

 そこで斛律将軍府に通い、斛律光の息子たちに交じって武芸の稽古に励むようになった。


 延宗が、四阿の中に座り手巾で汗を拭いていると、秋海棠の花の陰から斛律蓉児が、茶器を携えて現れた。

「延宗兄上、剣の鍛錬お疲れ様」

 蓉児は、いつになく笑顔を浮かべると卓の上に茶器と茶菓を並べた。

 斛律蓉児は、斛律光の嫡出の長女である。斛律光は多くの息子をもうけているが、嫡出の女子は二人しかいない。待望の女児として愛育された蓉児は、明るいが我が儘な少女に成長した。

 延宗はこの年下の勝ち気な少女が苦手であった。兄たちに比べて年の近い延宗に対して、遠慮のない親近感を示したからである。

 蓉児は、いつになく笑顔を作って茶杯を延宗の前に勧めた。

「延宗兄上、温かい茶をどうぞ。お飲みになって」

 延宗は、湯気を立てる茶杯を持って、一口飲んだ。爽やかな香りとすっきりとした茶の苦みが特別の銘茶のしるしである。

「なんだ、蓉児。僕に茶を入れてくれるとは、どいう風の吹き回しだ」

 気詰まりな雰囲気に、延宗は目を細めて蓉児をながめた。しばらく逡巡していた蓉児は、思い切ったように延宗を凝視した。

「延宗兄上、・・・一緒に宣訓宮に行ってくれない?」

 蓉児は延宗にしな垂れかかった。宣訓宮とは、皇太后府である。

「長恭兄上に会いたいの・・・」

「蓉児、それはできない。・・皇太后令がでて、・・・兄上は婚儀を挙げるのだ。今さら何を・・・」

 兄の長恭は、かつては蓉児を妹のように可愛がっていたが、最近は蓉児を避けるようになっている。

「先日、納采の宴に乗り込んだの。そこで青蘭に言ってやったわ。長恭兄様が梁の降将の娘を娶るなんて、納得いかないって」

 蓉児は、頬を膨らませると口を尖らせた。

「お、お前は、兄上の納采の宴に乗り込んだのか?」

 いくら青蘭との結婚に反対しているからと言って、納采の宴に蓉児が乗り込めば大事になったはず。

 蓉児は皇太后の懿旨と聞いて、兄上が婚姻を強いられていると誤解しているのだ。

「兄上は、政治の犠牲になったわけではない。自ら進んで・・・」

 延宗は、いきさつを説明しようとしたが、兄に憧れる蓉児にとっては、どのような美姫であっても、相応しくない醜女になってしまうだろう。

「子供のころから、私こそが妻になると思って来たのよ。でも、・・・長恭兄様には想い人がいると知って、・・・諦めたの。それがよ、・・・長恭兄様が、政略結婚で皇太后様に王将軍の娘を押し付けられたと聞いたの・・・納得いかない。・・・許せない気持ちだわ」

「蓉児、君が許せないと言っても、どうなるものではないぞ。それに、この婚儀は兄上も望んでいることなのだ」

 延宗はため息をつくと、仕様がないというように空をあおいだ。

「兄上は、この婚姻を喜んでいるのだ。皆が祝福している。蓉児も祝って欲しい」

 しかし、怒りに駆られた蓉児の耳に延宗の言葉は届かなかった。

「長恭兄上は、責任感の強い人ですもの。文句なんて言わないわ。・・・でも、兄上が想い人と一緒になれないなら・・・、私にも考えがある」

 斛律蓉児は斛律大将軍の愛娘だ。婚姻の相手は権門の子息か皇位に近い皇子に決まっている。いくら蓉児が望んでも兄との成婚の望みはない。皇子も貴族の令嬢も単なる政治の駒に過ぎない。婚姻の相手は、斉の政の動向により決まるのだ。

 困難の末想い人との婚姻を手に入れた兄が、延宗は心底羨ましいと思った。


 親友の高敬徳に黙って婚約してしまった長恭は、疚しさに駆られて文叔が女子だったと打ち明けようと思うが、怒りを買うことを恐れて言い出せずにいる。

 段韶主催の重陽節の宴に招かれた青蘭は、長恭に憧れる令嬢たちの嫉妬をおそれて、出席を躊躇するのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ