羊飼いと少年:こころから愛した男を、殺さざるを得なかった男の話。
結婚かい? 結婚ならしていたこともあるよ、相当わかいころにね。いい女だったよ、はたらき者だったし、肌はくろく、けして美人とはいえなかったが、よくわらう、いい女だったよ。
あんたのあの連れ、いや隠さなくてもいい。あんたらふたり、はなれてすわって、たがいに関心もないようなふりしちゃいるが、わかるよ、ちょっとした視線とか、ちょっとした身ぶりでな。ここには? ふたりで来たのかい?
そうかい、そりゃあよかった。ま、あんまり飲ませすぎないようにな。ここの酒は、外国のひとには、あまくてやわらかいが、なれていないと、すぐによっぱらっちまうからな。
そういう意味では、あんたは賢明……なに? まったく飲めないのかい? だったらなんで飲み屋なんかに? ふーん? ま、女房――って、呼ぶのかどうかは知らねえけどよ――連れをひとり、知らない土地の知らない飲み屋に行かせるわけにもいかねえか。あんたの連れ、なかなかの美人だしな。あ、いや、俺はそのあたりのことはよく分からねえが、お似合いだと想うよ、あんたらふたりな。
え? あー、そうそう、俺のむかしの、女房のはなしだったな。肌はくろくて、あんたの連れほどの美人ではとうていなかったが、いい女だったよ。はたらき者で、うたがうまくって、俺の伴奏で、よくうたってた。ひとまえでは、ぜったいうたわなかったがね。うたい終わったあと、はずかしいのか、照れてんのか、わらうんだよ。そうそう。ちょうどあんたの連れみたいな、あんなわらいかたさ。
あ、いや、いまじゃあすっかり、おっきなかんじのババアになって、べつの町でくらしてるよ。こどもが三人に、まごも何人かいるんじゃなかったかな。あいての男とは、二度ほど会ったこともあるが、あいつにぜんぶ養分もってかれた感じの、ほっそい、気のよさそうな男だったよ。
え? いいのかい? なんだかわるいな、これで二杯目だぜ? あー、だったら、そうだな、これとおなじのをたのむ。これもこの土地の酒でね、薫りがいいんだよ、飲んでみるかい? ひと口もダメ? だったら薫りだけでもかいでみてくれよ。どうだい? そうだろう、それが、この土地の薫りさ。
うん? ああ、家はもっと山のほうさ。親父がなくなってから、ずっとだれも住んでなかったんだがね、ちょうどいいからって、いろいろ直してつかってるよ。
いやあ、こいつはただのガラクタさ。二束三文、調子っぱずれのシン=シアン (注1)。だけど見ためがこんなだろ? 俺のかすれた――どうしてもタバコがやめられないもんでね――そのかすれた声と合ってみえんのか、それとも、ここに来る外国人――あ、もちろん、あんたがそうだってわけじゃないが――ただ、やつらには、その辺のちがいが分からねえんだろうな、けっこう、評判はいいようなんだ。にがみのねえ、甘い流行歌なんかうたってやると、よろこばれるもんさ。
え? あ、いや、シアンは、子どものころ、ふもとに住んでた酔っぱらいにすこしならって、あとは独学。うたは……、ま、これも、まったくの独学だな。
俺のむかしの女房もそうだったが、このあたりの女たちはみんな、ひとまえで歌うことはほとんどねえくせに、みな歌が上手でね、俺のおふくろなんかも、なかなかいい歌をうたったもんだよ。それでおぼえたんだ。兄貴たちはからっきしだったが、「あんたは生まれる性別をまちがえたね」っておふくろが言ってくれてね、それで、うたうことをおぼえたってわけさ。
そうだな。たとえばだな、俺が子どものころ、揚水機なんて便利なもんはなかったから、水くみは、俺たち兄弟とおふくろの、たいせつな仕事のひとつだったわけだ。沢までおりて、水おけかついで、あがってくる。すると、おふくろが、そのとき用の歌をうたって、俺たちはそれをまねる。そのほうが、仕事の効率があがる。で、そんな風に、うたをおぼえていくってわけさ。
え? おやじ? おやじは猟師さ――って、ちょいと待ちな、こんな話、あんた聞いてておもしろいのかい? ふつう若いおんなってのは……、なに? じゃあ、あんた、もの書きなのかい? なるほど、それでやたらと聞いてくるってわけだ。が、ま、しかし、そうだな、そういう意味じゃあ、俺がやってることと、まあまあ近いことやってんのかもな、あんたも。だってよ――あ、いや、あんたの仕事をわるく言うつもりはねえんだが――だけど、もの書きなんてのはよ、ほんのちょっとの真実をつたえるために、星の数ほどのうそをつくって仕事だろ? 俺も、似たようなもんだからな。
あ、いや、もちろん、俺も本を読むこた読むよ。とくにこの何年かは、時間だけはあったし、たすけられることもあったからね、その“星の数ほどのうそ”と“ほんのちょっとの真実”ってやつにな。
そうそう、あんたの国の本も読んだことあるぜ、なまえは忘れたが、いい話をかくやつがいたな。やまのさくらを愛したおとことか、そらを飛ぶくじらとか――、うん? あー、それそれ、たしか、そんなかんじの名前だった。糸杉の森の絵描きのはなしとかな。
しっかし、どうりで、俺もこんなにべらべらしゃべらされ――、あ、いや、それだけじゃあないな、もちろん、ちょっと飲みすぎたってのもあるが――、あんたのあの連れのわらい声、それにあんたが、あの連れをみるときのまなざしってやつに、ちょっとばかし、こころを動かされたのかも知れねえ。が――、そうだな、もうすこし、話を聞いてもらってもいいかい?
*
さっきも話したとおり、俺の家は、もうちょっと山をのぼったところにあって、親父は猟師だった。家にはおふくろと、兄貴がふたり。ふたりとも、ずうっとむかしにおとなになって、都会に出ちまったがね。あっちのほうが、人生は楽なんだそうだ。楽な人生ってのが、ほんとうにあればの話だがな。
子どもの頃は、俺も、ふつうに猟師になるもんだとばかり想ってた。じゃなきゃ、畑をやって暮らすか。銃の撃ちかたも、罠のかけかたも、もちろん、山の歩きかたや獲物のばらしかたも、自然とおぼえていたからな。
なんだが、まあ、おおきくなるにつれ、それじゃあやってけそうもないってこともわかった。おふくろははやくに死んでたし――、ああ、そう、そのころ、もうおぼえてるやつもいねえが、みっつ向こうのやまの木こりが、こどもをふたり、まさかりで斬り殺したって事件もあったしな。
なんで? なんでってあんた、喰ってけねえからさ。ほんとかどうかは知らねえが、こどものほうから、殺してくれって、おやじに頼んで、おとこはおとこで、死にきれずに狂ってるところを、牢屋にいれられたってはなしだ。そういうもんさ。
で、ただ、まあ、俺は、そういうのはいやだなって想った。獲物は年々減ってたし、おふくろがのこした畑はあったが、親父は、おふくろがいなくなってからずっと、ふさいだ感じになってたしな。したの町にいけば、俺みたいなやつでも、やとってくれるひともいたし、さら洗いだの、荷運びだの、そのころ増えた観光客の相手だの、なんだの。むかしの女房と出会ったのもそのころさ。あいつの方から、俺に声をかけて来てくれてね。その頃はあいつも、まだまだずっとほそくて、俺も、いまじゃあもう見るかげもねえが、そこそこいい男だったしな。
いやいや、ほんとうさ、あいつ以外にも、俺に好意をよせてくれるおんなの子は、なんにんかはいたんだ。けど、まあ、さっき言ったうたとわらいと、親父も気にいってくれたんで、あいつに決めたってわけさ。式は挙げられなかったが、したの町の、ちいさなアパートを借りてね、やすみの日には、親父のいえまでふたりで行ったりもした。こどもはけっきょく産まれなかったが、町には観光客もふえたし、しごともあったし、戦争もはじまってはいたが、このあたりはほとんど関係なかったからね。いろんな国のひとを見て、いろんな国のことばを聞いたよ。で、そんなときさ、あの男にであったのは。
したの町のひろばの、バスがとまるところあるだろ? そうそう、あの時計台も、いまじゃ10時21分で止まったままだが、あれが元気にうごいていたころの話で、ちょうど11時の鐘が鳴って、めったにないことだが、バスが時間どおりに着いたことがあった。太陽がぎらぎら照りかえしていてね、すべてが白くみえたもんさ。
バスからおりたほかの連中、だけじゃなく、町のやつらも、もちろん俺も、ひろばに出るのもおっくうなぐらいのあつい日だったからね、みんながみんな、よれよれのシャツに、ズボンに、びっしょりの汗みたいなかっこうだったんだが、そんななかで、あの男だけ、濃いえんじのスーツに、タイもしっかり結んでな、おおきな旅行かばん片手に、あのひろばのまん中に、おりてきたんだよ。帽子のはしから見える髪に、しろいものがけっこうまじっててよ、ああ、見た目よりはいってんだなって想って、あの男のうしろに、やせこけたプラタナスの木が見えてよ、なんだか映画に出てくるひとみてえだなって想ってたら、ちょうど男と目が合っ――あ、いや、こっちがじっと見てたから、あっちがこっちを見かえしたって感じかな――、が、ま、いずれにせよ、そこで目があって、ふしぎなもんさ、むかしの女房や、ほかの女たちと、そんな感じになったことはなかったんだが、そんときだけ、なんて言うか、こう、音がきえたっていうか、ときがとまっ――いや、実際、時計台の鐘の音が、いやに間延びして聞こえたのをおぼえてるよ。
「なにかお手伝いでも?」俺は言った。観光局のおやじから、町に来たひとたちに道をおしえたり、宿を紹介したりする仕事をもらってたからな。
「この場所を知りませんか?」男が言った。背広の内ポケットから、うす手の手帳を出してよ、そのあいだにはさまった、手書きの地図を見せてくれるわけだ。「たしか、ホテルがあるはずなんですが」
地図の文字は、べつの国のもんだったが、わかりやすい地図でよ、その“ホテル”の頭文字にも見おぼえがあったから、「ええ、知ってますよ」と俺はこたえた。だけど、たしかにそこは、“ホテル”と名乗っちゃいるが、こういう紳士が泊まる場所、泊まっていいような場所ではなかったからね、「しかし町には、もっといい宿もあります」そう俺はつづけた。すると男は、「いや、ここのホテルがいいと聞いてね」そう言って、ひたいの汗をふいた。「よければ、案内してくれませんか?」
そこの“ホテル”。いまじゃあすっかりなくなっちまったが、そこには、ちいさなはなれみたいなのがふたつあってな、そこなら、フロントをとおらなくてもはいれるようになってたんだ。それで――、え? あ、いや、時代もまだまだおおらかだったしね、あんなところに泊まろうってやつを、襲おうってもの好きも、なかなかいなかったのさ。――で、まあ、とにかく、それの北がわの、森に面したほうのはなれが、あの男の宿になったってわけだ。
で、それから二・三日して、夜、俺は、その“ホテル”に行った。そこは、フェタってじいさんが、週に二度ほど、夜のあいだだけ、酒と食事を出す食堂もやっててね、泊まり客じゃない、俺みたいな人間でもはいれたからだ。
「はじめて?」ってそこの、パサルっていう、じいさんの娘がきいて来た。「どっかで見たかおだね」そこの食事は、彼女がひとりでやっていたからだ。俺は、地元の人間だってことをつたえ、みずと食事をたのんだ。「サービスだよ」って、肉料理といっしょに、まっ赤な血のようなワインが、一杯だけ出された。「ここは、酒も飲むところだよ」
まわりを見ると、そのほとんどが外国人だったが、たしかにみんな、顔をまっ赤にして、ゲームやなんかをしてた。がらの悪いやつらばかりに見えたが、なかにはただジッと、静かに食事をしているようなヤツもいた。
数日前、※※から紳士が来ただろう? 俺は訊いた。彼女はすこし考えるふりをしていたようだが、俺がここまで案内したんだって言うと、「あのひとは、いつもおそめに来るんだよ」と言って厨房にもどって行った。
俺は、食事をとりながら、外から聞こえて来る、カジカかタゴガエルのうたを聞いてた。サービスのワインは、あんまり味がしなかったが、それでも、代わりをもらおうか考えているところに、あの男がやって来た。
男は、俺に気づきはしたものの、かるい会釈だけすると、店のおくの、ヘビみたいな杖をもった、手のしろい老人の隣りにすわった。するとそのとき、なんでか俺は、なぜ自分がここに来たのかがわかった。ワインの代わりをもらい、男と老人の会話がおわるのを待った。
ふたりは、そのころ流行っていた、家畜の伝染病だかなんだかについて話しているようだった。あぶがどうした、ぶよがどうした、みたいなことを言ってたからね。俺は、左目のあたりがずきずきして、すこしめまいをしているかんじになったが、それがワインのせいか、あの男のうつくしさのせいなのかは、分からなかった。
「そろそろやめたらどうだい?」何度目かのワインをたのもうとしたとき、パサロがいった。するとちょうど、男の食事もおわったのか、席を立って、入り口のほうへ向かうのが見えた。俺は、たしかにそうだなってパサロに言って、男のあとを追うかんじで店を出た。
ふしぎなことに男は、まっすぐはなれに戻るようなことはせずに、宿のしたの、沢のほうへと向かって行った。俺はそしらぬかおで、まるで自分のもどる場所もそちらにあるような感じで、だけどきちんと距離はとって、男のあとをつけた。
男は、こっちの気配に、気づいているのかいないのか、スタスタスタと道をおりていって、沢のそばの、羊のようなかたちをした、岩のところで立ち止まると、そいつにもたれかかって、そらを見上げた。夏至にちかい満月のよるで、異様におおきな、なにかの腫れ物を連想させるような、そんな月がかかっていた。男が、俺にきづいた。いや、まるでいまきづいたかのような顔でこちらを見た。俺は、あいさつでもしようとしたがなにも言えず、けっきょく、男と同じ、あかい月を見上げていた。カジカかタゴガエルの声は、かわらずうるさかったが、ふしぎと、それ以外の音はしなかったし、あの男の脈のおとや、俺がくちの中でささやく声だけは、たがいに、よく聞き取れていた。ただ、まあ、俺は、あのとき自分が、なにをささやいたのかは、おぼえていないがね。それでも、そうだな、おふくろにならった、沢にみずをくみに行くときのうた、あのうたを想い出して、うたったってのだけは、おぼえている。自分がなさけなかったが、それでも、あの男のために、なにかしてやりたかったんだ。
「あんたは生まれる性別をまちがえたね」って、もちろんおふくろはそういう意味でいったんじゃないだろうが、なぜだか、そんなことを想い出した。
男が、ひつじのような岩からはなれ、俺のかたを抱いた。ティ=ラティス。それが、男のなまえだった。そう、俺に教えてくれた。
*
それから、夏も終わりにちかくなって、その日はとてもへんな日だったが、まだまだあついってのに、そらから雹がふって来たんだ。荷運びのしごとも取りやめになって、アパートにもどると、女房が妊娠したって俺に言った。俺は内心うれしかっ――、あ、いや、ちがうな、すまない。じっさいは、じっさいのところは、俺はなんにも感じなかった。ふーん、てなもんさ。「なまえはあんた考えてよね」ってあいつは言ったが、俺は、あの男のことを考えていた。俺たちは、あの月殺しのよる以降、週に一度、ときには二度、あの宿のはなれで、会うようになっていたからだ。
もちろん、子どものことは、親父にも伝えに行った。俺ひとりでだったがね。親父は、まだあの家にいて、ひとりで狩りを続けてた。俺が行ったときも、種類はわすれたが、獲ったばかりの鳥を、ひとりでバラしてたよ。俺が子どものことを伝えると、やはり親子だな、ふーん、って感じで、ただ、「女房を大事にな」とだけ言った。それから、ひさしぶりに猟に出ないか、ふたりで、と俺をさそった。俺が使ってた銃も、手入れはしてあるから、ってな。だったら木曜で。と、俺はこたえて山をおりた。だけれど結局、その週の木曜に親父のところに行くことはなかった。次の木曜も、その次の木曜も、自分にあれこれ言い分けをしては、親父に会うのを拒んだわけだ。俺と男が会うのは、だいたい、土曜か金曜だった。
土曜か金曜のよる、俺は例の“ホテル”にいって、めしを食い、ワインを飲みながら、男が来るのを待つようになっていた。パサロは、みょうな目で俺を見ることもあったが、たとえば、飲みすぎた客をはこび出すときや、あぶない客を追いだすときなんかの手伝いをしてたら、すこしずつだが、信用してくれるようになっていった。
男は、酒はのまなかったが、タバコはよく吸っていた。俺がタバコをおぼえたのも、あの男のせいだよ。例のはなれで、月を見上げながら、よくふたりで吸ったもんさ。
「あんたは結局、どっから来たんだい?」いちど、勇気をだして聞いてみたことがあった。ずっとあんたといたい、ってな。すると男は、わらって、タバコの火を消して、俺のタバコも灰皿において、口づけをしておいてから、どこから来たかも、なぜここにいるのかも言わないまま、「もうすこしだよ」と言った。「もうすこししたら、いっしょにここを出よう」ってな。
それから、ゆっくり、服をぬいで、俺のこえが好きだって言った。しろい肌が、月のひかりに溶けるようで、まるでなにかを待っているかのような目つきで、俺に抱くよう言ったんだ。
*
それから、秋も深まった十三日のあさ、それは起こった。まえの夜からつよい東風がふいていて、アパートの窓に、いっぴきのガフェト (注2)がはりついているのが見えた。はじめて見るような、おおきなガフェトだった。台所から女房の声が聞こえた。そのとき彼女は、朝食の準備をしていたんだが、ふとふり返ると、それを数匹のガフェトが喰っていた。俺は、そいつらをつぶして、みちに捨てようとして、窓を開けた。東のそらが、くろく染まっていくのが見えた。そうして、それから、けっきょく理由はいまでもよく分からないが、俺は、“ホテル”に向かってはしり出していた。
“ホテル”に着くと、そこにも大量のガフェトは飛んで来ていた。そこら中の木の実や青草なんかを喰い尽くそうとしていた。男のはなれの扉はしまっていた。叩いてみたが返事はなかった。母屋にもどってフェタのじいさんとパサルを呼んだが、ふたりともどこにもいなかった。こんどはもっと、つよく扉を叩いた。とびらが開いた。男が、よれよれの服装で出て来た。おどろいた顔で、なにか言いたそうな顔だったが、あちらもこちらがなにか言おうとしていると想ったんだろう、しばらくふたり、顔を見合わせたまま、戸口に突っ立っていた。
「どうかしたかい?」部屋のおくから、別のおとこの声がした。俺の知らない、かれらの国のことばだったが、なぜだか俺にも、なにを言っているかはわかった。「なんでもないよ」男がかえした。「きみのいない間、身のまわりの世話をしてくれてたひとだ」もうひとりの男は、ちょうど服を着ているところだった。「どうぞお引き取りを」俺と男のあいだに立ちながら、そいつは言った。「風はじき西風に変わりますが、はやく逃げたほうがよろしいでしょう」そのとき既に、そいつはこの国のことばでしゃべっていたが、俺には、そのことばの意味が、なにひとつとして分からなかった。「すまない」そいつの肩に手をかけながら、こんどは男が言った。「もう、発つんだ」俺のうたをまねているような声だった。「奥さまを、大切に」ふたたび、扉がしめられた。
俺は、扉を見つめたまま二・三歩あとじさり、そうとも気づかぬまま、青草を喰ってたガフェトをつぶした。ぶちり、ぶちり。それから、はっとなると、こんどは、親父の家に向かって、はしり出していた。
ふしぎなことに、親父の家にガフェトはいなかった。親父は西側の壁にすわり、きいたこともないような、歌だか祈りだかをあげていた。「As pessoas entenderão a escuridão.」
だが俺は、そんな親父をみないふりをして、奥の部屋にはいり、壁にかけてあった猟銃をはずした。手入れはしてあるからって、親父が言ってた、俺の銃だ。
「帰ったのか?」小声で親父が訊いた。「しかし、今日はやめておいた方がいい」俺はこたえなかった。「こんな日は、なにも獲れんさ」ポケットに、あるだけの弾を詰めこんだ。「まあ、いい」わかれのあいさつみたいに、親父は手をあげた。いや、天にむかって、闇をつかもうとしただけなのかも知れない。なぜなら、家を出ると、太陽が闇に飲まれているところだったからだ。親父を見たのは、それが最後だった。
ながれた俺の子どもが男の子だったってのは、ずいぶん後になって、むかしの女房からの手紙で知った。あのガフェトと日食の木曜日、けっこうな数の子どもが消えたってのは、留置場のなかで聞いた。親父は、俺の刑期が終わる前にいっちまってた。刑務所を出たあさ、俺をむかえに来てくれたのは、むかしの女房の、いまの旦那だった。その頃すでに、あいつにぜんぶ養分持ってかれた感じになってたが、それでもやっぱり、気のよさそうな、いい男だったよ。
*
アハハッ。
と、ここで、向こうにいた私のつれが、ひと際おおきな声で笑って、老人のはなしをさえぎった。いっしゅん、私と目があったが、またそしらぬふりをして、あちらの会話にもどって行った。
*
ほんとに、よくわらう女だね。結婚――って言っていいのかどうかはよく分からねえが……って、あー、いや、まあ、なんでもいいか。あんたらふたり、よく似合ってるよ、月と太陽みたいでさ。
え? いや、俺のはなしはこれで終わりさ。本に出せる話かどうかは知らねえが、“星の数ほどのうそ”と“ほんのちょっとの真実”。酒をおごってくれたおかえし、それに、あんたらの結婚祝いとして、いまの話を、あんたに贈るよ。こころから愛した男を、殺さざるを得なかった男の話。きれいな箱には入っちゃいないが、結婚の贈り物には、ふるくて、あたらしくて、実用的でないものが、通例だからな。
(了)
(注1)
この地方に古くから伝わる撥弦楽器のひとつで、中国の古琴とインドのサラスヴァティー・ヴィーナの合いの子のような音をしている。弦は7本でフレットレス、琴のように置いて弾くこともあれば、ギターのように抱えて弾くこともある。
(注2)
この地方の方言で、我が邦で言うトノサマバッタやワタリバッタのことを指す。これらは、相変異を起こして群生相となると、大群での集団移動を始め、いわゆる『蝗害』を引き起こす。