第三話 秘密の部屋にて
「こんな所に、部屋があるなんて……」
「ここはただの部屋じゃないんだぜ。実は部室になってるんだ」
章が部屋に入りながら、そう言った。そして俺が入室するのを確認すると、再び隠し扉をスライドさせて、元通りのようにした。
「えっと、キッチンの位置も確か同じだよな」
章はそこで驚きを見せることもなく、もごもごと呟きながら部屋の奥に移動、姿を消した。
「なんだ、ここ」
俺は完全に衝撃を受けて、入り口付近で立ち尽くした。視線だけを内部に走らせる。
部屋の内部の面積は、準備室ぐらいの規模である。殺伐とした内装になっており、中央に木製のちゃぶ台が置かれているだけだ。
部屋は二つに分かれており、今立っているのがメインルーム、そして奥にも部屋がある構造になっている。奥の部屋はさらに小さく、人一人が立ち入るだけで一杯になりそうだ。
「結構、暗いな」
窓が設置されていないので全体的にかなり薄暗く、かなり閉鎖的である。これでも今はまだ放課後である。ただ豆電球が天上にぶら下がっているので、生活するには問題はないだろう。
全体的に秘密の部屋という感じがある。実際、そうなのだろう。
一体ここはどんな部屋として学校の中で機能するはずなのだったんだ。そんな正当な疑問が胸を過るが、恐らく多目的室の隣の部屋が調理室なので、それに関連した部屋として元々用意されていたのだろう。
さらに観察を続けていく。
「自転車?」
四角形の部屋の壁面には自転車があった。それも一つではなく、5つも。ただのママチャリが2つだったり、所謂スポーツ選手が愛用してそうな本格的なスポーツバイクもあれば、クロスバイクも。
「あれ?」
俺の口から声が漏れる。
その中にある一つの自転車を目の当たりにした時、俺の脳裏に、一つの閃光が走った。まるで世紀の閃きが生まれるかの如く、一瞬だけ脳内が活性化したような、そんなセンセーションを感じた。
「あの自転車、どこかで見たぞ」
いや、それ以上の関係性を持っているはずだ。使用したことがある。いやいや、もっと濃密な何か。
「「BMM」」
それはママチャリの自転車の名称である。
二人の声が重なった。俺と章の声が一致したのだ。
「え?」
脳みそが急に活性化した後、リバウンドのようにそれが萎むような感覚に襲われて、俺が唖然としていると、章がが隣室から姿を現した。そして彼の手には木製のトレイが握られている。
「それは、お前の愛用のママチャリだよ」
テーブルに茶碗と急須を置きながら、そう言った。
「うそ。ど、どうしてこんなものが、ここに」
そもそもこの部屋の存在なんて、今日まで知らなかったのに。あり得ない。というかさっきからあり得ない事が立て続けに発生していて、脳みそがどうにかなりそうだ。
これは夢か、それとも、悪夢か。まさか虚構なんてことは。
「帰神はただ自分で記憶を封印しているだけさ。まあ、取り敢えず、座って茶でも飲もうぜ」
「う、うん」
章に促されるままにテーブルに座って、俺は茶を一口啜った。
苦いな。これは日本茶だ。それも何故か紅茶の風味までついてきているような。いいや、これは玄米?いずれにせよ、これまで飲んだことのない味だ。いいや、味?味覚?経験?それとも経験の再現?しかしその巧妙なる再現は奇妙な詳細までに行き渡っているために、逆説的に偽であるという事を哀れにも証明しているようにさえ、今の俺には思えた。でもそれを客観的に証明するには、一体どのような試みが必要とされて、そして最終的にどのような結論を導く必要性があるのだろう。そうじゃなければ、誰だってこのぬるま湯のような快感に浸っていたと思うじゃないか。そうなんだ、章が入れてくれた日本茶は、結構ぬるい。でも俺にとってぬるま湯加減の日本茶ほどの好物はない。そうだな、強いて言えば、後はシケせんべいとかの茶菓子もついていれば、最高だった、云々。
そんな呆然とした頭で茶の味について考察していると、
「この世界は帰神が創り上げた世界なんだ」
「ほう、ずずう……」
茶を啜る。
普通ならこの台詞は完全なる電波である。それも特別級の。でもこれまでの出来事を重ね合わせると、それが当然なる帰結として感じられるので、俺は茶化したり、異を唱える事はせずに、この日本茶を飲んでいた。
「帰神、お前は元の世界で少し前から不登校になったんだよ。そんで、それから引き籠もるようになっていって、最終的には世界そのものから己を遮断した」
「そ、そんなことがね」
恐ろしい情報を聞かされて、俺はただただ頷くしかなかった。そしてほとんど飲みかけた茶碗の中に視線を注ぎ込む。そこにはなんと茶柱が立っていた。そして日本茶の液体の表面に、歪んだ俺の顔の表情が映し出されてもいた。俺なのか、これ?
「……」
もう一口さらに日本茶を啜る。
でもそろそろ日本茶が尽きてきて、俺の思考は冴え始めてきた。なのでここで一つ質問をした。
「俺の創り上げた世界ならば、どうしてその俺がそんな事を知らないの?俺って超越者かなにかなんじゃないの?」
字面だけを見ると、滑稽な台詞である。ただ的を射ているとも思うんだ。だって世界を創り上げるならそれって、俺は超越的な存在なはずなんじゃ。どうしてそんな俺が知らないのだ。
「ちゃんとした理由があるんだ。そしてそれは帰神がどうしてそもそもこの世界、マニホールド(Manifold)を創ったのかという根源的な理由に深く関連している」
「そ、そうか」
聞き慣れない単語と、あまりにも抽象的な説明に、俺はただ目眩がした。
「まあ、そこまで構えることはないさ。簡単に言えば、帰神は現実が辛いから現実逃避した、ただそれだけさ。それで虚構に閉じこもって、記憶の封印までしてしまったとさ。そしてこうやってずっと偽の平和に生きてきた」
章がずっぱりとそう告げる。
「現実逃避ねえ。それってトラウマみたいな?」
という俺の質問に、章が答える。
「ああ」
「俺ってどんなトラウマを抱えていたんだ?」
「実はな、帰神。まあこれに関しては結構悩んだんだがな。えっとその。これはかなり身に応えるかもしれないけど」
そこで章はかなりの躊躇を見せた。頭を掻きながら、ただ気まずそうにいたたまれない、そんな感じをしている。
「うん」
ゴクリと生唾を飲んで、章の口から告げられる事実に対して、身構えていると、
「!?」
章が一気に表情を引き締めて、入り口に視線を照射した。
入り口の方向から物音が発生したのだ。多目的室という、ほとんど使用頻度のない教室なのに、どうしてか生徒達が集まってきている、そんな雰囲気だ。
「誰だろう―――」
だから俺は立ち上がって、一体誰が外にいるのか確認しようとしたら、テーブル越しに章が身を乗り出して、俺の口を塞いできた。
「おい!静かにしろ!」
「むごむご……」
章の強引な行為に、抵抗しようとしても力が足りない。故に、俺はそのまま口を閉じられて、言語を紡ぐことが出来ない。
その間、章は声を最小限に抑えながら俺に耳打ちする。
「このマニホールドという虚構に於いて、住人は見かけどおりの人間じゃないんだ。奴らはこの世界で普通の生活を送っている感じに見えるが、同時に、お前の監視も行っているんだ」
「か、監視?」
「ああ」
そして数秒後。
「どうやらただの通行人だったようだな」
章が俺の口を抑える力を弱めながら、ボソリと呟いた。
すると生徒の気配は段々と去っていき、それからさらに数秒後、完全に消えた。どうやら俺たちがここにいるという事に気づかなかったのだろうか。
そこで俺はやっと開放されて、スピーチの自由が許された。それを行使して、さらなる事情の説明を要求する。
「げほげほ……一体、どうなってるんだよ」
そこで彼は剣呑な表情に切り替えて、宣言した。
「いいか。よーく聞けよ。帰神は、自分の世界に閉じこもった挙げ句に、自分の世界からも監禁されているんだ。そして俺は現世から、帰神を助けにやってきたんだ」
数分後。
”出来るだけ、自然に行動しろ”
”この世界の真実を見たいなら、深夜に部屋のカーテンを開いて、自宅周辺を見てみろ”
という章からの忠言を最後に。
俺たちはスパイのように秘密の部屋、別名帰宅部部室、から退出、日常という名の虚構を演じる事に徹した。
そんな救世主の宣言を聴いて、俺の表情がどんな風になったのか、誰か推測したいと思う人はいるだろうか。挙手をしてくれ給え。あれはもうだいぶ昔の話なんだが、いまでも俺があの時見せた表情についてよく考える日があるんだ。いいや、その時の俺の表情だけではなく、それを見て彼の聯絡した表情も。
でも思い出そうとしても仔細には思い出せない。それは希望という感情が滲んでいた表情だっただろうか。それとも。
思い出せるのは、常に自分のことではなく、相手のことである。それは思い出すたびに、己の中で棘のような感覚とともに鮮明に蘇る。それは無味乾燥な言葉としてではなく、蠢く感情としてである。もっともそれは時間という濾過を通して、苦いものではなく、マタタビが心臓を撫でるような甘美なものに変わっていったのだが。でもその変化を、あの時の俺がそんな遠い将来を見通してから考える事、達観することも、そしてましてや感じることなども出来ないし、だからまあ、起きることは起きるのである。人生とはそういうことである。
とこんな事を書いている間にも、日本茶は冷めていくので、俺はまだ熱いうちに飲むことにした。そしてお茶にはせんべいというのが日本人の真髄である。もちろんそれはボリボリと、そしてパリパリと。