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第六話 移転

 また、あの日が来る。朝五時に目覚めてしまった。

 まるで遠足の日の子のようだなと苦笑いしながら部屋の片付けをする。とはいえ、やることはあまりない。残された少しの私物を整理して終わり。

 水位は上昇を続け、ついに二階も完全水没。三階の我が家ですらくるぶしまで水が来ることがある。今、この部屋にはものがなくなり、ミニマリストな部屋になっている。

 一応、屋上に小屋はある。こうなることを見越して放棄地になったときに屋上に建てておいた。そう、この部屋がミニマリストみたいになっているのは私物を全部そっちに移動させたからだ。

 四階建てのこのアパートなので上の階の部屋も使えるといえば使えるが、俺との縁の薄い部屋では史奈も辛いだろう。なので今年史奈が来たら以降は屋上へ移動する予定でいたのだ。


「ただいま、哲也さん!」

 玄関から史奈の元気な声がする。

「おかえり、史奈」

 俺は何も持たずに玄関へ向かう。水は外廊下がひたひたになるくらいで部屋には入ってこない程度。史奈はいつもの白のワンピースだが当然ずぶ濡れで体のラインがくっきり出てしまっている。なるべく顔だけを見て微笑む。

「ここにはもう着替えがないんだ。屋上へ行こう」

「屋上?」

「ああ、もうここも水没しかかっている。史奈が来るまで、と思って粘っていた。間に合ってよかったよ……屋上に小屋があっただろう? そっちへ拠点を移すつもりだ」

 史奈の手を取り、屋上へ向かう。

「あっつーーーーい」

 史奈はいきなり不満を言う。幽霊でも暑いんだな、と思いつつ、小屋へ連れて行く。

 小屋と言ってもそこそこの広さがある。十二畳のリビング。六畳の寝室、あと小さなキッチン。

「いい感じねー」

 史奈はニコニコと部屋を見ている。

 リビングの片隅に置かれた仏壇を覗き込む史奈。

「あ、ここに仏壇置いたんだ。ふーん」

「ああ、もうこっちで暮らすつもりだからな」

 史奈が鈴を鳴らす。

「いい音ねー」

「そりゃよかった。じゃあ、これタオルと着替え。俺は外で待ってるから着替えちゃって」

 小屋を出る。屋上の隅に置かれた旗。お隣さん、というにはだいぶ距離のあったあのアパートの屋上の人は、もう二年ほど見ていない。多分引っ越したか、あるいは……。

 俺も少し考えたことがある。史奈と一緒にいられるのが確実ならば、それは魅力的な選択肢になる。だが確実なことは言えない。この奇跡を手放してしまったら、俺は……そもそもそれを行った後、俺の意識が残るという保証もない。

「哲也さん!」

 後ろから史奈に呼ばれて思考を止める。振り返るとオーバーサイズの着古した俺のTシャツとバミューダパンツ姿の史奈がいた。

「去年も気になったんだがな」

「なあに?」

「下着どうしてるんだ?」

「付けてないよ。見る?」

 シャツをまくりあげる史奈。慌てて視線をそらす。

「嫁入り前の娘がはしたない!」

「嫁入り前の娘にセクハラ質問したおっさんが言うなー!」

 ケラケラ笑われて抱きつかれた。文句を言う史奈に答えるように抱きしめ返す。

「ふふ」

 史奈の笑い声を聞いて、不意にこみ上げてきたものを飲み込む。俺は、いま、どうしたいのだろう。


 屋上の小屋も開け放っておけばそこそこ風が流れるのでなんとかなる。そもそも屋根にはソーラーパネルがあるし、断熱はしっかりしてあるし、あと嵐が来るから作りもかなりしっかりしている。屋上に一戸建てみたいなものだが……まあ違法だろうな。ここは法律の適用外に近いような場所だから問題にはならないだろう。

 新しい配置の部屋を見て、ため息をつく。

 そんな俺を史奈が俺を不思議そうに見ている。

「ね、さっきからおかしいよ……大丈夫?」

「なんのかんのいって四十年住んでいた部屋を捨てるわけでな。すこし、こう」

 あの部屋は、俺が生まれたときに借りたのだそうだ。それからずっと、あの部屋にいた。

 運べるものはほとんどこの小屋に運び込んだが、ベッドや机は無理だった。記憶に刻み込まれた場所がなくなるのは二回目だが慣れるはずもない。

 人生に若干疲れたのは年齢のせいだけではないだろう。こういう削られていく体験が効いてきている。

「そっか」

 史奈はそう言うと膝立ちになって俺の頭を自分の胸に抱え込む。

「大人だから泣いちゃいけないってことはないんだよ。悲しかったら、泣いてもいいの」

 柔らかな手で撫でられる。

「哲也さん、がんばり屋さんだからねー。お姉さんが褒めてあげる。いいこいいこ」

「ああ、ありがとう」

 史奈を見上げて微笑む。キスされた。

「えへへー、大好き」

 隣にペタンと座る史奈を見て笑顔を見せる。

「さっきまでお姉さんだったのになあ。でも史奈は可愛いからしょうがないね」

 空元気。破綻した理論。それに気付かれないように、もう一度キスをする。

 抱きつかれた。俺の中に巣食っている澱に気づかれなかったようだ。胸をなでおろす。


 七月十七日、史奈が帰る日の朝。

 遠くからモーター音。舌打ちする。

「哲也さん、どうしたの?」

「忌々しいのが来た、ってところだ」

 小屋から出て外を見る。音は徐々に近づき、姿が明瞭になる。そしてアパートの下で止まり、飛び込む音がした。なぜこの日に来るのか。まだ史奈はここにいるのに。

 小屋に戻ると史奈が不安そうに俺を見ていた。

「編集者だよ。正確には編集者のアシスタントだけどね」

 しばらくすると屋上に人影。アリシア・レンオアムだ。

 アリシアは俺たちのいる小屋には目もくれず、まっすぐソーラーパネルのコントロールユニットへ向かう。サテライトリンクを通じて多少調子が悪いとは田沢に告げたのだが、まさかこんなに早く来るとは思わなかった。

「美人さんだね……もしかして私に手を出さないのはあの人がいるから?」

 史奈が腰に手をあてて俺を睨む。

「バカ言え……HHS-10X-41、アリシア・レンオアム。ハイパー・ボリア・テクノロジーズ製のホームドロイドだよ」

 史奈は興味深げにアリシアに近づく。俺もその後ろに続く。

「気をつけろ。彼女はマスター以外とコミュニケーションを取らないように制限がかかっているそうだ。それでも無理やり取ろうとすると自動排除システムが作動するんだとさ」

「んー、私には縁がないものだから平気だと思うよ」

 史奈はそう言うとアリシアに近寄り、手を伸ばしてアリシアに触れようとした。史奈の手はそのまますり抜ける。

「ね。多分アリシアさんには私見えてないと思う」

 史奈はそのままアリシアをすり抜け、彼女が修理していたコントロールユニットを面白そうに見ている。

「ごちゃごちゃしてるんだねえ」

 修理の終わったアリシアはそのまま俺に向かってきた。慌てて避けようとしたが間に合わず、そして俺の体をそのまますり抜けていった。

「そうか……そうだったのか」

 俺は天を仰いで笑う。心の底から。

「ど、どうしたの?」

 コントロールユニットを覗き込んでいた史奈が振り返って俺を戸惑いながら見る。その姿を見て俺は冷静になった。

「少しだけ待ってもらえるかな」

 小屋に戻り、愛用の万年筆を取り出す。原稿用紙に走り書き。

 満足して、万年筆を文鎮代わりに置く。

「史奈、愛しているよ。永遠に」

 史奈を抱きしめる。暖かな体を感じる。

「哲也さん……?」

 戸惑っている史奈に貪るような口づけ。一瞬硬直した史奈。そして応えてくれる。

「私も、愛しています。永遠に」

「よし、行こう」

「え?」

 史奈を抱きしめて屋上から史奈の部屋のあったところめがけて飛び込んだ。


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