第五話 帰郷
楽しい日々はあっという間に終わる。
七月十七日。史奈は今日の夕方、帰る。
口数は少なくなる。
「……着替えるね」
「そうか」
俺はベランダへ向かおうとする。袖を引っ張られる。
「本当は、帰りたくないよ……」
「ああ、知っている」
「なんで平気な顔しているの」
「大人だからな。我慢することには慣れている。本当は泣き叫びたいところさ」
肩をすくめてみせる。史奈はそれを見てくすりと笑う。
「んもう……私、戻って次に来るまではお父さんもお母さんもいるんだけど……哲也……さんは、違……う、よ、ね」
後半、しゃくりあげながら史奈が言う。
「大丈夫だ。三百六十日くらい一瞬だ」
抱き寄せて、頭を撫でる。胸の中で史奈は声を殺して泣く。
涙目で見上げる史奈。人差し指でその涙を拭う。冷たい。
「哲也……さん……」
少し強く抱きしめる。史奈は俺にしがみつく。
「史奈が帰ってくるまでだって独りで暮らしていたんだよ。だから大丈夫。また、来年。待ってるよ」
目が合う。そっと口づけ。
「さ、着替えて」
小さく彼女がうなづいたのを見て、ベランダに出る。水面に映える建物を見る。平屋の屋根だけ見えていたり、電柱だけ立っていて間のケーブルがない様は見慣れたとはいえ異様だ。
「哲也さん」
史奈に呼ばれて部屋に戻る。
来たときのワンピースに着替えて、リビングの中央に立っている。
「うん、可愛いね」
微笑んで両手を広げると、そこへ史奈が飛び込んできた。しっかりと抱きしめる。
俺の胸に顔をうずめてわんわんと泣く史奈。そっと頭を撫でる。
「大丈夫。俺は来年もここにいるから、な」
史奈の希望で見送りは玄関まで。向こうに行く瞬間を見られたくないんだそうだ。
「じゃあ、また来年、ここで待っているよ」
史奈は俺に顔を寄せてキスをする。
「うん……うん……」
涙がこぼれ落ちている。
「ほら、泣かないの。美人が台無しだぞ」
史奈の頭を軽く撫でる。史奈は涙を拭うともう一度俺にキスをしてから、玄関を出る。
「また、来年ね、哲也さん」
「ああ、また来年」
玄関のドアが閉じられる。足音が遠ざかる。
遠くで水音がする。史奈が、帰る、音。
床にへたり込む。
「そうだよ。三百六十日なんて、あっという間、さ」
静かに、泣いた。
史奈が帰ってから1ヶ月が経った頃、担当編集者の田沢が一人の女性を連れてきた。
「そろそろ、落ち着いたかな、と思いまして」
「誰だ?」
「いやだなあ、田沢ですよ」
「違う、後ろの女性だ」
「ああ、彼女はアリシア・レンオアム。型式はHHS-10X-41。第十世代試作機です」
HHSの型式を持つということはホームヘルパーシステム、か。編集者の安月給で買える代物ではない。
「田沢、お前いいとこのボンボンだったんだな」
「やだなあ、試作機ってあるでしょ? モニター募集したら当たったんですよ。先行開発百台のうちの一つです」
「変なところに運を使ったな」
田沢は眉をピクリと動かしてから、笑顔を浮かべる。
「ええ、まったくです。今後、私の代わりにアリシアが原稿を取りに伺うこともあるかと思いますのでよろしくお願いしますね、先生」
田沢が目配せするとアリシアと呼ばれた女性型アンドロイドは優雅にお辞儀をする。
「アリシア・レンオアムです」
「ああ、よろしく」
金髪のグラマラスな美女。レンオアムの名前に記憶が刺激される。
「……田沢、彼女の命名は誰が?」
「送られてきたときの初期設定のままです。モニター募集の制限で変更は出来ないんですよ。多分回収後の会話データの処理とかでややこしいことにならないように管理されているんでしょう」
「そうか」
俺の質問に田沢が興味を示す。
「なんで、そんなことを?」
「いや、ハイパー・ボリアって本社デンマークだよな」
ハイパー・ボリア・テクノロジーズ。ホームドロイドのトップメーカー。
「そうですね。それがなにか?」
「デンマークには竜王の伝承がある。ある王と王妃の間に生まれた竜、それがレンオアムだ」
田沢はアリシアを上から下まで見る。
「レンオアムは嫁を欲しがったが、悲しいかな、竜なので全て食べてしまった。最後に羊飼いの娘が老女から知恵を授けられ、レンオアムの呪いを解いた。呪いの解けたハンサムな王子と羊飼いの娘は結婚し、王と王妃になった、という」
実際にはこの後にもう少し話が続くが、まあそれはいいだろう。
「なんで先生そんなの知ってるんですか?」
「暇だからな。ここは放棄地だがサテライトリンクはまず死なない。だから文献を読み漁っている」
それと、彼女を楽しませるために。知識を蓄え準備する。何が話の種になるかはわからない。
「はあ、なるほど……」
「そもそもアリシアもここに来れるってことはサテライトリンクが生きている証拠だぞ」
「え?」
「お前、取扱説明書読んでないのか?」
「いやあ、分厚くて……」
アリシアを見る。アリシアは田沢をじっと見ている。
「お前のご主人さまは、だいぶ酷いやつだな」
俺が語りかけてもアリシアは反応しない。
「あ、すみません。私以外とはコミュニケーションを取らないようになっているんです」
田沢が申し訳なさそうに言う。
「は? なんでまた?」
「新しい感情ユニットのテストだそうですよ。特定異性との濃厚な感情接触の結果を見るとかどうとかで。なので触れるのも避けてください。自動排除システムが入っているそうです。一応ロボット工学三原則には従うらしいんですが、不幸な事故はいつもついてまわる、とも言われました」
「事故、ね……わかったよ」
俺は肩をすくめる。
「で、今回の原稿は……?」
田沢に言われてライティングデスクを指差す。
「そこにまとめてある。持っていけ」
原稿用紙に万年筆で書き直した史奈へのラブレター。史奈の名前は出ていない。もちろん、俺の名前も。
「ありがとうございます」
田沢は原稿に目を走らせ、一枚ずつアリシアに渡していく。
「はい、ありがとうございました。で、原稿料ですけども、いつものように、でいいですか?」
「ああ、それで」
彼らはここに俺の日用品と食料を持ってきてくれている。差額は銀行に振り込んでもらっている。
「そう言えば、彼女は、その……」
「ん?」
「……いいえ、なんでもないです」
「言いかけてやめるのはあまりいいことではないぞ」
俺が腕を組んで田沢を見ると、田沢は頭を振ってからため息。
「いや、先日用意した水着、どうでした?」
「ダメだったよ。タンスにしまった」
「そうですか」
田沢は残念そうにぽつりとつぶやく。
「まあ、ダメだろうなと思って頼んだんだ。気にするな」
「そうですね……ではまた二ヶ月後に」
「ああ、待っている……ところでどうやってここまで来たんだ?」
「着替えを防水袋に突っ込んで、ウエットスーツでですよ」
田沢の答えに思わず吹き出した。
「ってことは二階に上がってから全部脱いだのか!」
「そうですよ! まったく……ま、アリシアは綺麗ですから、そこは役得ですけども」
アリシアが田沢を睨みつける。
自然な反応の自動人形。だが、彼女は物理だ。
史奈は現実なのだろうか。